第22話 貞と香具①

文字数 2,225文字



 貞と香具


 秀吉死後、豊臣家を頂きに置いたままの天下争いが、水面下で火花を散らした。前田利家と徳川家康だけを取沙汰するが、このとき、天下を夢想する戦国大名は多い。どこで、誰が、秀吉の栄華を奪い去るか。生き馬の目を抜く苛烈な一年余。智謀湧くが如しと称された黒田如水は九州にあり、若き野心家伊達政宗は奥州にある。これを除く畿内の実力者は、前田利家亡き後は徳川家康が頭一つ抜けていた。毛利も、宇喜多も、これに単独で立ち向かえるものではない。
 秀吉の奉行・石田三成が家康排斥を声にしたところで、豊臣という政権は力を発揮できない。これは秀吉個人の才能だけでまとめられたものゆえ、要が消えれば、所詮は烏合の衆、これに何程のことが出来ようか。
 関ケ原。
 天下分け目の、戦国大名の檜舞台。家康はこれを制した。伊達政宗も、黒田如水も、野心を行動に移す間もない決着となった。豊臣家最大の家老という名目は、もはや飾りだった。天下人は、誰の目にも徳川家康だった。
 慶長八年(1603)二月一二日、徳川家康は征夷大将軍に任じられた。江戸に幕府を開いたのも自明だ。大久保長安にとっても、この状況は都合がいい。その野心はみるみると膨らんでいた。
 このとき八王子には長安の采配により、関ケ原前より五〇〇人もの浪人が増員され、小人頭の配下に編入された。一〇人の小人頭の下に一〇人の組頭、その下に一〇人。一〇〇〇人の中隊といってよい。その軍制は旧武田の物であり、かつ、時代に合わせて一応の改良がされていた。たとえば、騎馬隊に鉄砲を組み合わせた鉄砲騎馬隊。馬は轟音に敏感であり、鉄砲に慣らしながらこれを調練した。このことを実践する諸国大名はまだ少ない。
 しかし、この戦闘態勢は何のためか。愚問である。豊臣を滅ぼし徳川一党の世にするためのものだ。その中核に武田旧臣がいて、三河の代替わりした青二才を支えている。そう、家康を支えた三河譜代の兵は年老いた。秀吉時代に代替わりした多くは実戦経験に乏しい。
 大久保長安の狙いはこれだ。
 家康の老衰を待って、顕了を担いで武田再興の挙兵をする。天下取りの野心は終わることがない。しかし、このことには一抹の不安もあった。もしも失敗したら、今度こそ武田家も家臣団も滅亡する。たった一人の成り上がり者の野心で、名門武田家を滅ぼしていい筈がない。
 信松尼が長安の野心に気づいたのは、姉の助言による。
 姉は穴山梅雪の妻で、夫の死後は出家して見性院と号していた。夫亡き後、残された嫡男を養育し、家康の庇護で御家再興を望んでいた。しかしこの子は、天正一五年に一六歳で病没した。見性院は家康の子を養子とし、長じたあかつきに武田家を興す約束を得ていたが、慶長八年のこの年、やはり一六歳で病没した。
「四郎殿の嫡子・太郎殿は一六で没した故、穴山家は祟られてござる」
 などと心ない標榜もあった。この弔問のとき、大久保長安はぽつりと
「御家再興は徳川の血がないことこそ肝要」
と、口を滑らせたのだ。
 誰もが聞き漏らしたが、見性院は聞き逃さなかった。
「あれは、徳川に取って代わり、顕了殿を担ぐ所存に違いなし」
 江戸城北の丸から八王子まで、このことを告げるため、わざわざ見性院はやってきた。
「愚かなことですが、荒唐無稽にて」
「笑い事ではない」
「姉上は二人も御子を失い、お疲れなのです。暫し江戸を離れて、八王子でのんびりとなされませ」
 見性院が来たと知り、多くの旧臣がご機嫌伺いにやってきた。ここには武田の時代の匂いがある。見性院は気鬱であったかのうと、表情に明るさを取り戻した。
 そのうえで、信松尼は陣屋に長安との面会を申し出た。数ケ月を待って、長安が八王子にきた。信松尼は単身、その野心の所在を詰問した。
「洞察の程おそれいります」
 長安はあっさりと白状した。天下取りは愚かしいこと、武田のすべてを巻き込む危惧こそ不忠であると、激しい剣幕で信松尼は叱責した。
「石見殿の夢見ることは状況に過ぎず、何か手違いや間違いがあれば、我らも一転奈落の底にて。このような一蓮托生は御免被る」
 信松尼の言葉は、長安の肺腑に響いた。
「天下を望むなら、武田に頼ることなかれ」
「それは、無理です」
「無理ならば、分不相応の夢などお捨てなさい」
「しかし」
「わが父・信玄でさえ望んで得られぬ天下。蔵前衆ごときに何という思い上がりか!」
 信松尼は厳しく叱責した。
大久保長安ほど多くの修羅場をくぐり抜けた者でさえ、武田の血には敵わない。背筋を冷たい汗で滴らせたのは、果たして何時ぶりのことだろうか。
「お前は武田旧臣になくてはならぬ者じゃ。過ぎた野心を捨てて、これまでのように励んで貰いたい。人の世の営みを支えてこその〈ぢ方〉である。お前の才を見出したわが父に代わり、頼む」
「姫……!」
 技と才に卓越した長安に不足するとしたら、人が生まれながらに持つ将才であろう。驕り者とされる長安も、こればかりは信松尼の足元にも及ばぬ。長安はそのことを徹底的に思い知らされた。
「しかし、欲は尽きぬものにて、ふたたび天下を望むこともござろうかと」
「そのときは八王子に参れ。存分に叱ってやるわ」
 長安と、信松尼は大声で笑った。嘘のようだが、こんなことくらいで、長安は天下を忘れることが出来た。松の胆力は大したものだった。
「姉上も、そろそろ大手を振って北の丸に戻っていいでしょう」
 信松尼の笑みの謎が分からず、見性院は首を傾げるのであった。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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