第2話 傾く国①

文字数 2,560文字

 傾く国


 武田家が府中を変えることは、勝頼の祖父・信虎以来のことだ。躑躅ヶ崎に館を置いたのは、国内統一のためと、その後の支配に適地だったためである。譜代家臣団はこの府中に愛着を持ち、町衆も安心して商売することができた。勝頼のめざす本拠移転は、外敵に備える城を求めてのことだ。が、今更な山城と新府中の町割りは、侍にも庶民にも不興だった。これを強行したのは、天正九年の師走。掛売を踏み倒すつもりかと、多くの商人が勝頼を非難し、譜代の多くが古府中に居座った。
 どうして移転せねばならぬのか。
 その理由は誰もが知っている。原因もだ。勝ちを拾うことで国を治めた信玄と異なり、ただ勝つことだけに邁進した勝頼は、取り返しのつかぬ過ちを二つ犯している。ひとつは勝つためには優秀な人材さえも惜しみなく死なす。そしてもうひとつは、勝つことだけにこだわり、経営能力もままならぬ状態で版図を拡げた。結果、いざというときに内政を保つことも出来ず、才ある者もない。どこか遠方の武田領が窮地に遭っても、それを救援することも出来なかった。
 すべては結果だ。
 どうとでも云える。
 が、事実でもあった。長篠で多くの人材を失ったが、人材育成をそこから始めたところで信玄薫陶の名将に及ぶ訳がない。勝頼を支え、尻拭いさえしたのは、すべて信玄に薫陶された者ばかりだった。境目の城が敵に囲まれても、勝頼は救援を出せなかった。財政も軍備も、差し向ける余力がないという有様だった。そのため独自で切り抜けろと発破をかけるしかない。つまりは、見殺しにされたのだ。東美濃も、奥三河も、そうやって最後には城を奪われた。遠江の高天神城が落ちたとき、信長はこのことを大いに宣伝した。勝頼に付いても見殺しとなる。これは、過去の汚点が積み上げられた現実であり、拭えぬ事実そのものだった。ゆえに、武田の信用を失墜させる十分な効果があった。
 いまの武田家は、信玄の生きていた一〇年前とは別のものだ。
 もう、火の玉のような、あの深紅の軍勢に怯える者はいない。
 武田家御親類衆も譜代家臣も、勝頼を侮った。外様が見限る底地は十分にあった。新府移転を拒んだ者は、一族にも多かった。
「あれは守るための城ずら」
 新府移転を拒む者の罵声は、多くの者を代弁した。
 正月、その新府城で新年の宴が催された。重き臣を除けば、武田の縁者ばかりで、侍大将以下の覚え目出度き猛将は誰一人駆けつけようとしない、寂しい宴だった。
「今年こそ松を嫁に出さねばな」
 勝頼の言葉に、松姫は嫌な顔をした。いま、武田と結ぼうという国など、どこにあるというのだ。その言葉を飲み込んで、松姫は顔をそむけた。
 この宴の場にあって、勝頼の叔父たちは当主を軽んじる素振りだ。酒の上とは申せ、ここに礼節などない。甲斐の者の感情は、こういうところにこそ滲み出るのだろう。
「諏訪の者が、出過ぎたことを」
 声に出さない侮蔑の態度といってよい。
 
 天正一〇年は、日本中のひっくり返るような、慌ただしい年となる。

 高遠城に戻った仁科盛信は、南信濃からの些細な情報に懸念を覚えた。奥三河は徳川領だが、軍勢の動きが目立つという。何かしらの軍事行動と予測された。駒場城は東美濃を睨みつつ三州街道の動向も掴める。
 やはり、何か、変だ。
 具体的なものはない。これは、勘だ。
「木曽殿から美濃の動きはないか、質すべし」
 使い番が木曽へ走った。異常はないと回答された数日ののち
「木曽背信」
の疑念が新府城に届いた。仁科盛信はすぐに新府城へ赴いた。
「南信濃が徳川の動きを察知しているのに、木曽が安穏とするは面妖。きっと美濃と通じているに相違ない」
 仁科盛信の訴えに、勝頼重臣は当惑した。
「真偽を確かめてからでも、よろしくはないか」
「事が公になったときに手遅れになっては何とされるか」
「南信濃とはいうが、大島城の逍遥軒様は左様なこと申されず」
「疑念があるときはすぐに質すこと第一。先代様ならば、今ごろ間諜を用いて物事の裏まで調べ上げ、物証を盗み出してここに並べていよう」
 勝頼はうんざりとした表情で
「木曽は妹婿である」
「そのこと、安心の基にあらず」
「妙なことを云う」
「先代様の頃ならいざ知らず、いまの武田の有り様に、国境の者が誰一人安心しておらぬことは、必定にて」
 岩村城や高天神城のこと。国境の者たちは、武田に見捨てられたふたつの城を忘れていない。信玄存命中は、断じてそのようなことはなかった。そして、いつ、我らも無残に見捨てられるか。武田にこのまま属していて、本当によいものか。
「その空気を知らぬとは、云わせませぬぞ」
 仁科盛信の正論は、後ろめたい者にこそ、重く響く。ゆえに、勝頼は声を荒げた。
「木曽を疑うことなかれ」
 話にならぬと、仁科盛信は席を蹴った。
 木曽義昌が背信したという風聞が届いたのは、その日の夜のことだ。偽の噂を用いて騒ぎを起こすことはよくあると、武田の重臣は楽観視した。しかし、二度目のそれは、事実であった。
後手になった武田勢は、征伐に発した軍勢が敗れるという失態を冒した。
 武田は強いという安心の担保は、このとき、崩壊した。
 木曽に織田勢が合流し、神坂峠を越えて伊那谷に侵攻するという情報が入った。籠城と夜襲でこれを撃退すればいい。その簡単なことが、崩れた。南信州の人心は、もはや武田から乖離していた。頼りにもならぬ大名に従う利はない。そして離反する権利がこの時代にはあった。
 風聞は、高遠城にも達していた。
「松!」
 仁科盛信はこの戦いを楽観視していない。きっと、高遠が戦場になる。そのとき非力な身内は足手まといとなるだろう。
「お前、姫とともに新府に隠れよ」
「さて」
「理由などない」
「さりとて」
「小督にも新府を見せたいだけじゃ。お前が付いているならば、安心である」
「輿入れの小言は、聞きたくありませぬ」
「ああ、そんなものは無視してよい」
 勝頼が阿呆でも、このときに輿入れのことなど口にはするまい。盛信にとっては、姫を逃す口実と、それと一緒に松姫を安全な場所へ動かしたいだけなのだ。
「すぐにでも発つがよい」
 この判断は正しかった。
「なあ、松」
「はい?」
「生きてこそ、じゃ」
「なんですか、それ」
「いや、ただ覚えておいてくれればいい」
 仁科盛信は、はにかんだ。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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