第24話 貞と香具③

文字数 2,771文字

 慶長八年のこの年、卜山は齢九七を迎える。まだ足腰も達者で背筋も真っ直ぐで、見た目とても九〇を超す年齢とは信じがたい。しかし高齢からくる体力の減少は、目に見えぬ現実だった。これよりは八王子より外へ出ることはないと、卜山は決めた。
 信松尼は時間を工面しては、卜山を詣でた。
「師の顔色を伺うことは大事ゆえ」
 嘯く信松尼の厚情が卜山は嬉しかった。
 このところ、信松尼の教えた手習いや布織などの指導を受けた童も成長し、発展する八王子の随所でその能力が生かされるようになっていた。文字を知る百姓は商人の搾取に泣き寝入りせず、織物の品質も高い。商人の質も向上するから経済活動は安定し、そのうえで武士の暮らしも清潔なものとなる。
 一〇年も昔は北条の時代。そのときの民衆は、そこまでの知恵も知識もないゆえに、誰もが生活は安定していなかった。学は身を助けるというがその通り。まるで夢のようだ。
 興岳寺は小人頭・石坂勘兵衛森通の組屋敷隣にある。必然的に開基に関わることとなる。卜山をして開山した後は
「石坂氏の菩提寺と為してお守り申し上げる」
 石坂森通は子・弥次右衛門森信を開基に置いた。次代のことを見据えて処置したのだ。卜山が高齢であり到来も難しいと、善能寺から弟子にあたる勇観空栄を呼び、説法を望んだ。勇観は八王子城で討ち死にした氏照家老のひとり中山勘解由家範の子だ。中山家範は一戦に臨み卜山に弟子入りし、心穏やかに滅亡した。その菩提を弔うのは子の務めだと、勇観空栄は石坂森通に因果説法を用いた。
「因果は巡るものゆえ、心穏やかに次代の行く末を安泰せしむこと哉」
「よき哉、よき哉」
 石坂森通は信玄の世、古き良き時代を知る者だった。次代は信玄の遺徳を記憶に刻まない。不幸なことだった。信松尼は甲斐を守護し奉った信玄公の姫なり。ゆめゆめ忠勤怠ることなし。
 これは石坂森通に限ることではない。信玄の遺徳を覚えるすべての旧臣たちの想いでもあった。興岳寺はその遺徳を伝えることも大事だと定められた寺だった。
 この頃、八王子に集いし武田旧臣たちは、陣屋からの達しで、江戸からの街道普請の噂を知った。江戸日本橋を起点とした諸国に至る街道を整備し、これを以て交通の動脈とする。それは東海道・東山道といった従来の街道に一里塚や松並木、更には拡幅といった土木施工を加えるものだ。そして甲州へ至る街道の普請があらたに決定された。
「江戸と甲州を結ぶものゆえ、八王子は通過の宿場として重きをなすものかと」
 川島作左衛門元重の言葉に、小人頭たちは云わずとも理解を示した。
 物流だけであるものか。これは棒道と同じだ。上方との合戦にあたり、素早い移動をするための措置に過ぎぬものなのだ。
 甲州へ至るこの街道は、すなわち江戸に変事があるときに甲州へ逃れる道。武田旧臣が案内役となり将軍を守護する親衛隊となる。甲斐の戦さならば、武田旧臣の才にまさる物はない。八王子の軍事のことは、川島作左衛門元重の管轄にあらず。大久保長安の指図で小人頭たちがすることだった。江戸から甲州へ至る関門は、都留郡内方面に至る峠。千木良か案下の峠がこれまでの往還幹線だったが、それは攻め易いことに通じる。関を設けた上で安全な峠越えをするならば、わざと不便なところを選ぶのがよい。
「小仏だ」
 荻原弥右衛門昌友が呟いた。かつて武田信玄が滝山城を攻めたとき、小山田信茂の別動隊が獣道同然の小仏より奇襲を試みたことがある。昌友の祖父・豊前守昌明は当時、岩殿城代で留守居をしていた。この奇襲は客観的に俯瞰していたため、荻原一族には鮮明な伝承とされている。
「北条陸奥守が滝山を放棄し、あらたに八王子城を設けたのは、偏にこの奇襲を由縁とするものなり。武田旧臣として、小仏峠は縁起のいい峠と思わぬか」
 小人頭たちは表情を和らげた。
 事実、この峠の両口に関を設ければ、有事の関門とできる。
「ならば、郡内と国中の境はなんといたす?」
 川島作左衛門元重の問いに
「笹子を」
と答えたのは、松姫随行家臣団を代表して参じた小宮山民部昌照だ。小宮山家は郡内とも縁深く、御坂官道以外にも初狩口の幾つもの峠を知っている。初狩番所から勝沼までの間で一番嶮しいのが、笹子峠だった。
「切り落として狭まれた峠の頂部にはかつて狼煙台もあった関門。機密保持のため、信玄公御存命の頃から猟師も近寄らなかった場所だ。ここなら守り易く攻め難い」
 知識は尊い。このこと、参考にすると、川島作左衛門元重は頷いた。
 こうして横山の片田舎は、街区宿場へとゆるやかに大開発されていったのであった。

 慶長一〇年(1605)四月、徳川家康は征夷大将軍の職を辞した。
 世情ははたして関白職に割り込めぬ豊臣秀頼にこれを譲渡するものかと囁き合った。天下持ち回りの理で云えば、そのことは自然な話だ。
 が、家康は二代将軍として朝廷に圧力を用い、子・秀忠への任官を求めた。朝廷がこれに応じると、世は騒然となった。
「徳川は豊臣に代わり天下仕置を為すものか」
 その指摘は図星だった。
 かつて信長は一己の才で天下布武を目指した。秀吉も一己の才により天下を握った。しかし両者は、世の仕組みまで変えられなかった。ゆえに家康は、治世の仕組を抜本的に改革した。自ら将軍職にある間に組織を確立し、経済の流れや治水治山、インフラや軍事、そして人事の決定権にいたる武家人臣のことまでを事細かく明文化し、徹底させた。そのうえで、治世の長とするため秀忠に将軍職を譲ったのだ。その奉行さえ有能ならば幕府のシステムは揺らぐことはない。
 長い戦国を終えるための、最後の大仕事といえる。
 将軍を辞した家康は、生きている間に豊臣家の処分に専念するのであった。一大名として足利一門のように高家となるか、それとも滅亡を望むか。すべての選択肢は豊臣家にあった。
 この転換期にあって、大久保長安の重責は幕府に必要なものだった。替え野心を捨てた長安の評判は、皮肉にも、このところ芳しくない。金山の算出が落ちたことから
「横領し軍資金として謀叛のおそれあり」
という噂さえあった。長安は出世しすぎたのだ。徳川譜代の誰よりも出世した出過ぎ者として、出る杭になっていた。叩かれるのは世の常である。
 長安は八王子の武田旧臣に直接支配することさえも困難な状況になっていた。武田旧臣は今となっては、徳川家の旗本以下の組織形態に組み込まれていた。有り体に申せば、長安がいなくても組織は円滑に動くのである。そのための象徴として、彼らの中心には信松尼がいた。家康は武田旧臣の心情をよく知り、利用した。この象徴ある限り、長安から八王子を取り上げることさえ容易だった。長安にとっては手足をもがれるような心境である。
 ただし家康は根気よく、その機が熟すまでじっと待ち続けた。
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登場人物紹介

信松尼

武田信玄の息女。松姫と呼ばれる。

織田信忠の許嫁とされるが、武田家と織田家の盟約が決裂し有名無実の状態となる。

そして武田家を滅ぼす総大将がかつての許嫁という事実を知ることなく、幼い姫たちを伴い武蔵国へと逃れる。やがて姫や旧臣の支えとなるため、得度して仏門に帰す。

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