第2話 第5章

文字数 3,739文字

 ローテさんと話していた通り、この夏は酷く暑い。ゆっきーと楽しく歩いていても、額や顎からダラダラと汗が滴り落ちてくる。それはゆっきーも同様で、白いTシャツが透けるほどの汗……
 良く見ると、赤い下着が透けて見えてくる。思わず生唾を飲み込み、別のことを考えようとする。のだが、今度は視線が彼女の汗ばんだうなじから離せなくなる。

 マンションに到着しエレベーターに乗ると、今度は汗ばんだ彼女の香りに脳をやられそうだ。何だろう、妻がつけている香水とは全く違う、健康的な香りと彼女の汗が混ざり合い、それが僕のホルモンを刺激する。
 良く妻に揶揄われるのだが、僕は所謂『草食系』なんだそうだ。実際リアルな女性に性的興奮を覚えることは滅多にない。ないのだが、これは一体……
 ゆっきーが特別容姿が優れている訳ではない。スタイルが良い、と言うよりは単に痩せ過ぎだし、よく見ると顔にはソバカスが点在しているし、胸はほぼ平坦。
 それでも、ショートヘアーは清潔感溢れ、耳や頸の辺りは見ていて清々しい。いや、今はちょっと汗ばんでいて、正直エロい。今日もショートパンツからスッと出ている脚は、細くしなやかでパンツ、スカート、何でも良く似合いそうだ。この脚に黒の網タイツを履かせたら… メチャエロい。
 そんなゆっきーのフェロモンに僕の全人格が崩壊する直前に、昨夜お邪魔したばかりの部屋に到着する。

「あー、チョー暑かったあー。もー汗だくだよー、ねえヒッキー、シャワー浴びてきてよいかな? あ! ヒッキーも浴びちゃいなよ、それからナポリターン、ヨロシク!」
 それは大賛成だ。このままではゆっきーの汗の匂いで僕は発情してしまうところである。
「いいね、着替えは洗濯したばかりだしー じゃあ後でちょっとお借りするかなー」
「りょーかーい。ゴメン、すぐ浴びてくるからその辺で待っててー。冷蔵庫にビール… お酒は飲まないんだっけ?」
「うん、飲めない。気にしないでゆっくり浴びておいでよー」
「はーい、じゃあちょっと失礼―」
 
 なるべく汗が付かないようにソファーに腰掛けて、スマホを弄り始める。人類はこの数年こいつのお陰で暇潰しが苦にならなくなったのではないか。三十分程度ならニュースを見たりSNSを見たりしているうちに、あっという間に過ぎていく。逆に言えばそれだけ時間を無駄にしているのではあるが。
 他人の、それも女性の部屋に一人っきり。僕にもう少し勇気と度胸があれば、テレビ棚に飾られている写真を眺めたり、キッチンの冷蔵庫を覗かせてもらったり、寝室にお邪魔したり。
 精々今の僕にできるのは、リビングからベランダに出て外の景色を楽しみぐらい。僕の住んでいる中古マンションよりも遥かに造りが良く、外からは中が見えずらいが、こちらからは外がよく眺められる。南に面しているがベランダに奥行きがあるので、夏の直射日光は部屋に入ってこない設計だ。
 ベランダからの景色は、目の前に大きな建造物もなく僕らの住む街が一望できる。よく見ると僕のマンションが何となく見える。そのはるか向こうには、季節が良ければ富士山なんかも眺められそうだ。

 リビングに戻り、改めてこのマンションの高級感を実感する。同時に、ゆっきーのご主人の経済力に圧倒される。我妻である彩も年収はかなりなものであるが、こんなマンションを買える程のものではない。後でご主人の話をたっぷりと聞かせてもらおう。
 浴室の方からシャワーから上がった音が聞こる。と同時に、その姿をつい想像というか妄想してしまい、ゆっくりとソファーに腰掛けていられない状態になってしまう。命懸けでその妄想を振り払い、スマホゲームに何とか集中力を行使している間に、ゆっきーはタンクトップにショートパンツという涼しげな出で立ちでリビングに戻ってくる。
「お待たせー。タオル出しといたから使ってねー。その間に下拵えしておくからねー」
 もはや外でかいた汗と妄想中にかいた変な汗で、全身びしょ濡れの僕は言われるまでもなくバスルームへ向かう。

 いいか僕。匂いを意識しちゃダメだぞ。あと彼女の入浴シーンを妄想するのも禁止な。なるたけ冷たい水を頭からかけような。悲鳴が出るほどの冷たい…
「うわっ」
 思わず悲鳴が出てしまった。
 決して意図的ではあるまい、かなりおっちょこちょいの彼女を多少は理解しているつもりだ。それでも、蓋の閉まった洗濯機の上に無造作に置かれた、蒸れ匂い立つ真っ赤な下着上下セットを目にしてしまうと僕は…
 凝視すること三分。何度も手が前に出るも理性で引き戻す。そんな動作が三分。いかん! これに触れてしまえば、僕は人でなくなる。変態仮面になってしまう。いけない、それだけはいけない。僕にはできない、僕にはできない、僕にはできない… 呟くこと三分。
 何とか悪魔の誘惑を振り切り、前屈しながら浴室に入る。冷水を浴び始めて三分。やっと『僕』は落ち着きを取り戻した。

 本当に目を瞑りながらタオルで体を拭き、持ってきた着替えを着てリビングに戻ると、丁度彼女はエプロンを着た所であった。
 エプロンを借りる。ちょうど良い大きさだ、包丁を拝借し、玉葱をカットする。
「おおお! それは正に水の呼吸法! ま、まさか玉葱相手に弐の型水車を使うとは… お主、一体…」
「頼むから血鬼術だけは堪忍してくれ… でないとこの玉葱が… 鬼に成ってしまう…」
「あああ、見ておれない! 私の日輪刀が… 疼く、切りたがっておる…」
 まさかこの歳になってアニメなりきりごっこをしながら調理する僕を、一昨年逝去した祖母ですら想像出来なかったであろう。毎週サザエさん通りを歩くのを楽しみにしていた、元祖アニオタ祖母ですら…

 ここでちょっとしたハプニングが発生する(僕的に)。キッチンは二人で動き回れるほど広くなく、少し動くとどうしても身体が触れ合ってしまうのだ。あまり意識するのも大人気ないので、気にしないふりをするのだがーどうしても呼吸が荒くなってしまう。
 まさかアニメがこんな時に役立つとは。僕は『全集中の呼吸』を意識する。深く鼻から息を吸い大きく肺を膨らませる。酸素が血流に乗り体の隅々へ行き渡るイメージを描く。これを繰り返す過程で、彼女の温もりを頭から消し去ることが出来―

「さっきから何やってん?」
 唐突に耳元で囁かれてしまう。彼女は僕よりも十センチほど小さく、その結果顎を突き出すように上げて僕に話しかける体勢である。その姿がたまらなく可愛く、目が離せなくなってしまった。
「さっきシャワったばっかなのに、額とかスゲー汗。」
 自然な動きで、彼女はその左手で僕の額の汗を拭う。
「ここ冷房効いてないんだよねー、後でまた入ったら? アタシももう一回入ろうかなー」
 Tシャツの胸元をパタパタとはためかす度に下着がー黒下着だ。男殺しの黒下着であるー見えてしまう。絶対意図的な動作ではないのだが、この子は天然に、無意識に男を殺す能力を秘めているようだ。相当己に強く成らねば、その為にもこの呼吸法は自分のモノにし、立派な柱にならなければ……
 
 その後この呼吸法を駆使したお陰で、調理は滞りなく着々と進んでいく。
「そう言えば、澪ちゃんは明日帰ってくるんだっけ?」
「そう。明日の夕方に園にお迎え。」
「じゃあ今夜こそ夫婦水入らずだねー、昨日のディナーのリベンジは?」
「うん、変わらずの恵比寿のフレンチだってさ」
「いーねー。帰りにワイン買って家で部屋呑み…って、ヒッキー飲めないし… ちょっと奥さん可哀想」
「ハア? 何で?」
「一人で酔っ払ってもねえ。夫が草食じゃあ…」
「ば、バーカ。草食系だってな、やる時はやるんだっつーの。そう言えばゆっきー、お酒は?」
「飲めないっ」
「一緒じゃん! 旦那さん可哀想」
「だって酒臭くって我慢出来ないって。無理、無理」
「それな… 僕も酒臭くて、全然駄目…」
「やっぱ? 萎えちゃうの?」
「そう。おいハッキリ言うじゃないか」
「まあな。そっかー、やっぱそういうもんなんだねえ、ああ良かった、私が変な訳じゃないんだ。私が正しいんだ!」
「それもどうかと… 」

 そんな話をしているうちにナポリターンは仕上がる。なんだかんだで二人の合作となってしまったのだが。僕は他人と共同作業で炊事をしたことがなく、それが意外に楽しく、新たな発見をした今日なのである。
 テーブルに向かい合い、二人でいただきます、をしてからゆっきーがフォークでくるくると巻いて口に放り込む。
「んーーー、うま!」
 ゆっきーがとびきりの笑顔を僕にくれる。僕も釣られて笑顔を隠せない。
「ヒッキー、男にしておくの勿体ないかも」
「何それ。意味不―」
「ああ、アタシが男だったら、絶対ヒッキーをお嫁さんにもらっているな」
「おい。それは、いわゆるL G B Tの話として受け取るべきなのかい?」
 ゆっきーは大きな目をくりくりさせながら、
「あ。そっか。じゃあ、アタシが女なら、ヒッキーをお婿さんに…」
「キミの性別は、何ですか?」
 テヘペロする。可愛い。澪のテヘペロに匹敵するほど、かわいい。許す、どんなアホを言っても、生涯それを許さんことをここに誓おう。

「それよりさ、今日はゆっきーの話、ゆっくり聞かせてよ」
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