第3話 第8章
文字数 3,350文字
夕暮れ前に見えた虹はすっかり闇に隠れ、代わりに明るい月が帰宅の途を明るく照らす。ゆっきーの家を出てから澪の様子がおかしい。
「どした? もっといたかったの?」
澪は曖昧に首を振る。
「早く家に帰ってママに会いたくなった?」
真逆の問いに対し、
「はあ?」
とキレちゃう澪。なんだかよく分からない年頃である。
「パパ。」
真顔で僕を見上げる。
「なあに?」
「パパ、ゆっきーさんのこと、すき? うわっ てあせキモ! ふーん。そうなん。」
僕が答えるいとまもなく澪は察してしまう。
そう。僕は今夜、ハッキリとゆっきーに対し特別な感情を持っていることに気づいた。
それが好き、愛してる、といった類のものなのかは恋愛レベル最下層の僕には判断しようがない。ただ、この人と一緒なら澪が必ず幸せになれる、澪が幸せになれば僕も幸せになれる、それを実感しただけだ。これが恋愛感情と言えるかどうか… ちょっと澪に相談して…
できねえし。
家に着き、玄関ドアを開く。彩は当然帰っておらず、部屋は真っ暗である。感知式のライトでないので、スイッチを押し灯をつける。
その瞬間。
澪が僕に激しく抱きつき、大声で泣き始める。
どうしてミオのママはゆっきーさんじゃないの? ゆっきーさんだったら、「おかえりー、おそかったやん」っていってギュッとだきしめてくれるはず。「ハンバーグ上手に作れたんだってね、偉かったねえ」っていってくれるはず。「さ、早くお風呂に入らなきゃ。もうできてるから、一緒に入ろー」といい、からだをきれいにあらってくれるはず。「今夜は絵本、何読もうかー」ミオのおめめがトロンとするまでおはなしをよんでくれるはず。ゆめの中にいっちゃうまえに、「おやすみミオ」といっておでこにチューしてくれるはず。
パパ、ミオはへん? そんなおねがいをもってるミオってダメな子なの? いけない子なの?
パパ、ミオは今のままならおかしくなっちゃうよ。人をあいせない人になっちゃいそうだよ。ねえおしえてよ、おかあさんのあいをおしえてよ、しりたいよ、かんじたいよ
パパ、パパ、おねがい、たすけてミオのこと
後日、相当後になって本人から聞いたその時の思い。
僕にはその場で澪の気持ちが分からず、ギャン泣きする澪をオロオロと慰めるしか手立てはなかったのだった。
風呂にも入らず澪は寝落ちしてしまい、僕は一人呆然とソファーに座っていた。あんなに楽しそうにしていた澪の急変にショックを隠せず、全く別の方向に思考は飛んでいたー僕がゆっきーと仲良くしているのが気に入らないのか、とか、彩ともっと夫婦らしくして欲しいのか、など。
玄関が開く音がし、彩が帰宅する。ソファーで呆然としている僕にギョッとし、赤ら顔で
「まだ寝てなかったの?」
「うん、ちょっと話があって。」
赤ら顔は首を傾げ、
「何。疲れてるから要点を言って。」
僕は一回深呼吸をし、
「もう少し、澪の面倒をみてやってくれよ。」
「はあ? ちゃんと養っているわ。」
「それは分かる。けど、もっと母親にしかできない面倒をー」
「いい加減にしなさい!」
彩が突然咆哮する。
「こんなに遅くまで働いて、あなたと澪を養って。毎日好きなものを食べれて好きな服を着れて。そこまでしてあげているのに、これ以上何を私に求める訳? それならあなた、働きなさい。私と澪を養いなさい。そうしたら少し考えてもいいわ。」
僕は息が止まり思考が停止する。
「あなたに、母親らしくしろなんて、絶対言わせない。今度そんな言葉を口にしたら、この家を出て行ってちょうだい。あなたの親とよく相談することね」
そう言って自室に入って行った。
翌日。
昨日の大雨が大気の汚れをすっかり綺麗に流し去り、冬のような大気の澄んだ日となる。のだが気温はグイグイ上昇し、昼前には三十五度を越してしまう。澪はプールを連呼するのだが、夏のインフルエンザが流行っているから気をつけてね、と美代先生から連絡が入ったので、プールは却下し、炎天下の公園で我慢してもらう。
直後に優馬ママから一緒にキッザニアへ行きませんかと誘いが来たので、澪に聞いてみると、
「えーー、ユーマとーー、行かない。」
こないだあんなに仲良くフォークダンスしていたのに…
「アレはさー、なんか? なつのおもいで、みたいな? きぶんだよきぶん。」
こわ… ウチの娘、こわ… こういう女が男を弄び恋い焦れさせ破滅に導くのだ。恐るべし娘に分かったと言い、優馬ママに断りの連絡を入れる。
何とか警報が出そうな暑さの下で澪が公園で遊んでいる時、ベンチに座りながら久しぶりに母親に電話を入れる。
「あらあら、珍しい。最近ちっとも来ないし電話も寄越さないし。澪ちゃんは元気なの?」
僕の元気を心配して欲しいのだが。まいっか。
「そう、元気なのね。で? またあの女と何かあったの? やっと出て行ったの?」
僕は声を立てて笑ってしまう。周りのママさんたちが何事かと僕を伺う。
そうではなく。最近、澪と彩の関係が本当に良くない。互いに歩み寄れる部分が僕には全く見いだせない、一体どうしたら良いのか?
「こんな電話でもアレだから、今からこっちにいらっしゃい。すぐ来れるでしょ?」
僕の生まれ育った実家は隣の区で車なら三十分とかからない。我が家には車がないのでバスで行くのだが、それでも一時間はかからない。
澪に今からおばあちゃんの家に行かないか、と言うと、
「行く行く行く行く行く行く」
澪、十五までにその言い方やめようね、僕は澪の手を引き、バス停へと向かう。
「全く。お正月以来じゃないの。お盆も来なかったくせに。」
僕は頭を掻き、まあ、分かるだろ、と言うと、
「ふん。すっかりあの女に振り回されて。今思うと、あんたが家出した時、あの女の口車に乗せられて振り回されたのが失敗だったわー」
頼む。澪のいない所で… と思いきや、澪はとっくに昔の僕の部屋に駆け上がり、僕の漫画コレクションを漁っているようだ。
「ほんっと、澪ちゃんが可哀想。大人ぶって必死にあんたに懐かれようとして。」
ははは… 流石、よく分かっていらっしゃる…
「分かるわよ。幼稚園児であんなにしっかりした子、見たことないわよ。健気よね、母親に見捨てられたから父親には離されまいとあんなに必死で。」
僕はしょぼんとしてしまう。
「ハアー、あんたにもっと甲斐性があったらねえ。そしたらあんな女放り出して、もっといい奥さん見つけて。って、無理よねえ。」
はあ、なんとなくスンマセン…
「ふんふん。なるほど。これはもう、澪ちゃんとあの女の仲は修復不可能ね。やっぱあんた、他に養ってくれる女性見つけて、そっちに行きなさい。ああ、そうだ! 高田さんの所の佳代ちゃん、覚えてるでしょ? あの子学校の先生やっていてね、出会いがなくて困ってるって。どうよあんた、考えてみなさい。」
いやーー。やめときますわー。確か佳代さん、七つ年上で体重が僕と同じくらい…
「何わがまま言ってんの。言っとくけど、ウチはダメよ。お父さん来年で定年なんだから。年金暮らしなんだから。分かってるわよね?」
分かってますし、こっちもそれは遠慮しておきます。優柔不断で流されやすい両親にこの僕。澪にいい影響があるはずありませんからーー。
「何よその言い方。そんなら自分で決めなさいよ。このままズルズルあの女に縋っていくのか、思い切って澪ちゃんと出て行くか。後者なら、ま、骨くらいは拾ってあげるわ」
骨になる前提かよ…
こんな親との雑談だったが、僕は決心する。
このまま彩となんとかやっていくのか、それとも澪と二人で彩から離れるのか。
そして、澪を慈しんでくれる女性がいるのなら…
それがゆっきーなら言うことないのだが、可能性はゼロに等しい。それに、僕は彼女を好きなのだろうか、愛しているのだろうか… その事も今後じっくり考えてみよう。
思わぬ夏休みの課題ができてしまった。それも誰に頼ることも答えを覗かせてもらうこともできない、重い重い課題が。
そんな僕の思いも知らず、澪が僕の部屋からギャハハハと笑い声を立てている。
「夕ご飯食べていくでしょ、何がいいの?」
「ハンバーーーーーグ!」
天井から怒鳴り声。おい、昨日食ったばかりだろうが…
「どした? もっといたかったの?」
澪は曖昧に首を振る。
「早く家に帰ってママに会いたくなった?」
真逆の問いに対し、
「はあ?」
とキレちゃう澪。なんだかよく分からない年頃である。
「パパ。」
真顔で僕を見上げる。
「なあに?」
「パパ、ゆっきーさんのこと、すき? うわっ てあせキモ! ふーん。そうなん。」
僕が答えるいとまもなく澪は察してしまう。
そう。僕は今夜、ハッキリとゆっきーに対し特別な感情を持っていることに気づいた。
それが好き、愛してる、といった類のものなのかは恋愛レベル最下層の僕には判断しようがない。ただ、この人と一緒なら澪が必ず幸せになれる、澪が幸せになれば僕も幸せになれる、それを実感しただけだ。これが恋愛感情と言えるかどうか… ちょっと澪に相談して…
できねえし。
家に着き、玄関ドアを開く。彩は当然帰っておらず、部屋は真っ暗である。感知式のライトでないので、スイッチを押し灯をつける。
その瞬間。
澪が僕に激しく抱きつき、大声で泣き始める。
どうしてミオのママはゆっきーさんじゃないの? ゆっきーさんだったら、「おかえりー、おそかったやん」っていってギュッとだきしめてくれるはず。「ハンバーグ上手に作れたんだってね、偉かったねえ」っていってくれるはず。「さ、早くお風呂に入らなきゃ。もうできてるから、一緒に入ろー」といい、からだをきれいにあらってくれるはず。「今夜は絵本、何読もうかー」ミオのおめめがトロンとするまでおはなしをよんでくれるはず。ゆめの中にいっちゃうまえに、「おやすみミオ」といっておでこにチューしてくれるはず。
パパ、ミオはへん? そんなおねがいをもってるミオってダメな子なの? いけない子なの?
パパ、ミオは今のままならおかしくなっちゃうよ。人をあいせない人になっちゃいそうだよ。ねえおしえてよ、おかあさんのあいをおしえてよ、しりたいよ、かんじたいよ
パパ、パパ、おねがい、たすけてミオのこと
後日、相当後になって本人から聞いたその時の思い。
僕にはその場で澪の気持ちが分からず、ギャン泣きする澪をオロオロと慰めるしか手立てはなかったのだった。
風呂にも入らず澪は寝落ちしてしまい、僕は一人呆然とソファーに座っていた。あんなに楽しそうにしていた澪の急変にショックを隠せず、全く別の方向に思考は飛んでいたー僕がゆっきーと仲良くしているのが気に入らないのか、とか、彩ともっと夫婦らしくして欲しいのか、など。
玄関が開く音がし、彩が帰宅する。ソファーで呆然としている僕にギョッとし、赤ら顔で
「まだ寝てなかったの?」
「うん、ちょっと話があって。」
赤ら顔は首を傾げ、
「何。疲れてるから要点を言って。」
僕は一回深呼吸をし、
「もう少し、澪の面倒をみてやってくれよ。」
「はあ? ちゃんと養っているわ。」
「それは分かる。けど、もっと母親にしかできない面倒をー」
「いい加減にしなさい!」
彩が突然咆哮する。
「こんなに遅くまで働いて、あなたと澪を養って。毎日好きなものを食べれて好きな服を着れて。そこまでしてあげているのに、これ以上何を私に求める訳? それならあなた、働きなさい。私と澪を養いなさい。そうしたら少し考えてもいいわ。」
僕は息が止まり思考が停止する。
「あなたに、母親らしくしろなんて、絶対言わせない。今度そんな言葉を口にしたら、この家を出て行ってちょうだい。あなたの親とよく相談することね」
そう言って自室に入って行った。
翌日。
昨日の大雨が大気の汚れをすっかり綺麗に流し去り、冬のような大気の澄んだ日となる。のだが気温はグイグイ上昇し、昼前には三十五度を越してしまう。澪はプールを連呼するのだが、夏のインフルエンザが流行っているから気をつけてね、と美代先生から連絡が入ったので、プールは却下し、炎天下の公園で我慢してもらう。
直後に優馬ママから一緒にキッザニアへ行きませんかと誘いが来たので、澪に聞いてみると、
「えーー、ユーマとーー、行かない。」
こないだあんなに仲良くフォークダンスしていたのに…
「アレはさー、なんか? なつのおもいで、みたいな? きぶんだよきぶん。」
こわ… ウチの娘、こわ… こういう女が男を弄び恋い焦れさせ破滅に導くのだ。恐るべし娘に分かったと言い、優馬ママに断りの連絡を入れる。
何とか警報が出そうな暑さの下で澪が公園で遊んでいる時、ベンチに座りながら久しぶりに母親に電話を入れる。
「あらあら、珍しい。最近ちっとも来ないし電話も寄越さないし。澪ちゃんは元気なの?」
僕の元気を心配して欲しいのだが。まいっか。
「そう、元気なのね。で? またあの女と何かあったの? やっと出て行ったの?」
僕は声を立てて笑ってしまう。周りのママさんたちが何事かと僕を伺う。
そうではなく。最近、澪と彩の関係が本当に良くない。互いに歩み寄れる部分が僕には全く見いだせない、一体どうしたら良いのか?
「こんな電話でもアレだから、今からこっちにいらっしゃい。すぐ来れるでしょ?」
僕の生まれ育った実家は隣の区で車なら三十分とかからない。我が家には車がないのでバスで行くのだが、それでも一時間はかからない。
澪に今からおばあちゃんの家に行かないか、と言うと、
「行く行く行く行く行く行く」
澪、十五までにその言い方やめようね、僕は澪の手を引き、バス停へと向かう。
「全く。お正月以来じゃないの。お盆も来なかったくせに。」
僕は頭を掻き、まあ、分かるだろ、と言うと、
「ふん。すっかりあの女に振り回されて。今思うと、あんたが家出した時、あの女の口車に乗せられて振り回されたのが失敗だったわー」
頼む。澪のいない所で… と思いきや、澪はとっくに昔の僕の部屋に駆け上がり、僕の漫画コレクションを漁っているようだ。
「ほんっと、澪ちゃんが可哀想。大人ぶって必死にあんたに懐かれようとして。」
ははは… 流石、よく分かっていらっしゃる…
「分かるわよ。幼稚園児であんなにしっかりした子、見たことないわよ。健気よね、母親に見捨てられたから父親には離されまいとあんなに必死で。」
僕はしょぼんとしてしまう。
「ハアー、あんたにもっと甲斐性があったらねえ。そしたらあんな女放り出して、もっといい奥さん見つけて。って、無理よねえ。」
はあ、なんとなくスンマセン…
「ふんふん。なるほど。これはもう、澪ちゃんとあの女の仲は修復不可能ね。やっぱあんた、他に養ってくれる女性見つけて、そっちに行きなさい。ああ、そうだ! 高田さんの所の佳代ちゃん、覚えてるでしょ? あの子学校の先生やっていてね、出会いがなくて困ってるって。どうよあんた、考えてみなさい。」
いやーー。やめときますわー。確か佳代さん、七つ年上で体重が僕と同じくらい…
「何わがまま言ってんの。言っとくけど、ウチはダメよ。お父さん来年で定年なんだから。年金暮らしなんだから。分かってるわよね?」
分かってますし、こっちもそれは遠慮しておきます。優柔不断で流されやすい両親にこの僕。澪にいい影響があるはずありませんからーー。
「何よその言い方。そんなら自分で決めなさいよ。このままズルズルあの女に縋っていくのか、思い切って澪ちゃんと出て行くか。後者なら、ま、骨くらいは拾ってあげるわ」
骨になる前提かよ…
こんな親との雑談だったが、僕は決心する。
このまま彩となんとかやっていくのか、それとも澪と二人で彩から離れるのか。
そして、澪を慈しんでくれる女性がいるのなら…
それがゆっきーなら言うことないのだが、可能性はゼロに等しい。それに、僕は彼女を好きなのだろうか、愛しているのだろうか… その事も今後じっくり考えてみよう。
思わぬ夏休みの課題ができてしまった。それも誰に頼ることも答えを覗かせてもらうこともできない、重い重い課題が。
そんな僕の思いも知らず、澪が僕の部屋からギャハハハと笑い声を立てている。
「夕ご飯食べていくでしょ、何がいいの?」
「ハンバーーーーーグ!」
天井から怒鳴り声。おい、昨日食ったばかりだろうが…