第3話 第2章
文字数 2,861文字
「ここか、ここなんだな、約束の地は?」
「ああそうさ。この門を、この扉をくぐれば、僕らはネバーランドに行けるのさっ」
「行こう、一緒に、ノーマン」
「ああ、行こう、エマ」
こうでもしないと、こんなお洒落なレストランに入ることのできない僕らでした。
ローテさんに教わったカジュアルイタリアンは、テラス席もあって中々人気の店だったが、運よく一席だけ空いており、冷房のよく効いた奥のテーブルに案内される。
「なんか。昨日も、一昨日も…」
「そう言えば、イタリアンだった気がする」
「ひょっとして、アタシら前世イタリア人とか? ねえどう思うルシウス?」
「ソレハドウデショカ、サツキ」
二人で吹き出し合いながら、それぞれリゾットとペンネを注文する。
「そっかあ、やっぱりその男とまだ引きずってんだ…」
食後のエスプレッソを啜りながら、ゆっきーが探偵面で頷く。
「なんかさあ、証拠ないの、エビデンス? スマホは? 洋服の匂いやシミは?」
「いや、そんなことしてまで… それに、僕がその証拠を掴んだとしてだ。それをどう使うんだい? 下手したら逆ギレされて、陶片追放さ。ローマの道、険し、だよ。」
「むむむ… 恐るべし帝国の咬ませ犬め。」
なんじゃそれ? とは突っ込まずに、
「だから、いいんだ。彼女は好きに生きれば。僕と澪が細々と生きていければ、それでいいんだ。うん。」
「そっかー。ま、ヒッキーがそれでいいって言うなら。でも、澪ちゃん、かわいそじゃね?」
僕はカプチーノを一気に喉に流し込み、
「あの子は母親に似て賢い子だから。全部わかってると思う。そして、早くに出ていくと思う、僕らの元から。」
「そっか。でも、それまではヒッキーがちゃんと守ってやらないと。ね?」
僕はコクリと頷く。
夕方、3時半。
昼まではうんざりする程の日差しであったが、空は薄く灰色の雲が覆っていて、焼かれるような暑さは取り敢えず、ない。だが、じめっとして重たい熱気は地上に停滞しており、そんな中を引きずるような足取りで、ようやく幼稚園にたどり着く。
園には既に、大勢の保護者がお迎えにきており、その騒々しさは夕方の鴉と何ら違わない気がするのは僕だけであろうか。
大型バスがゆっくりと園に到着する。ドアが開き、中から弾けるように園児たちが飛び出してくる。
そんな中に澪は真っ黒な顔で出てくると、すぐに僕を見つけニヤリと笑う。そしてテケテケと駆け寄り、僕にジャンプしてしがみつく。
「パパ、めちゃたのしかったよ、みよせんせいが、ねずこだったよ!」
僕は苦笑いしながら、
「おかえり。とっても楽しかったようだね。」
まるでマシンガンのように遠足の話をしたかと思うと、
「あ。ぜんいつだ。じゃあね、パパ。」
そう言うや否や、僕から飛び降りて、一人の男の子の方に行ってしまった。その子の母親がこちらを向いて会釈する。ああ、優馬くん。
「こんにちは。優馬と澪ちゃん、すっかり仲良しになったみたいで。良かったです。」
嬉しそうに優馬ママが溢すので、
「ええ。良かったです。これでもうトラブルはなさそうですね」
「はい。あの、ずっとお父様が、これからもお迎えを?」
僕はコクリと頷く。
「そうですか。あの、今後の園の行事の連絡とかもあるので、お父様の携帯番号とラインのID教えていただけますか?」
僕はスマホを取り出し、その二つを優馬ママに開示する。
「ありがとうございます。夏休み明けから卒園まで、結構行事が多いんです。男手があると、とっても助かるんです!」
人足決定、ですな。僕は自然に頷いていた。
「そうなんですよ。真田さん、いっぱい力貸してくださいよお」
その横から美代先生がにゅっと顔を出す。
「因みに。秋からじゃありませんから、優馬ママ。八月は花火大会、スイカ割り、水泳教室。イベントてんこ盛りですよお。」
ですよね、と優馬ママが照れ笑いする。
「去年までは、まあ、その、アレでしたけど。今年はガッツリ手伝ってもらいますよお、いいですね?」
近い。そんなに近くに顔を持ってこないで!
「は、はい。できるだけ、手伝いますから、ちょ、近!」
美代先生はハッとして、真っ赤になって、クルリと背を向けて行ってしまう。
(ふうん。美代先生も、か。)
優馬ママが呟いた気がしたので振り向くと、僕にニッコリと笑顔で、
「また追って連絡しますねー、それではさようならー」
…なんだか、忙しくなりそうな予感。
それにしても。
あれ程人嫌いだった僕が、こうして普通に園ママや先生とコミュニケーションを取っている。不思議だ、どうしてだ? まあ答えは半分分かっているのだが。
これまで全くの引きこもりだった女性が、井戸端会議をするようになった姿を目の当たりにしたからな。
そんな僕を澪もちょっと驚き顔で、
「パパ、なんかあかるくなった? なんかいいことあった?」
「そ、そんなことないだろ、いつも通りだろ」
「いいや。ぜんぜん。あ! わかったあ!」
え? マジで? 僕はちょっと背筋が冷たくなる。
「ついにひのこきゅうをマスターしたんでしょ? そうでしょ?」
日の呼吸。あは、そうなのかも。あの日輪のような眩しいゆっきーとの出会い、通じ合いによって、僕は呼吸の仕方まで変わったのかも知れないな。
「バレたか。よくぞ見破ったな。」
「うふふふ。なんでもおみとおしなのよ。このみじゅくものめが!」
「ほう。ならば今夜の夕ご飯は何か、お見通しなのかな?」
「そ、それは… ハンバーグ?」
「大正解!」
「きゃあーーーーー、ハンバーグ、ハンバーグ やくそくだよ!」
両手を高く上げ、腰をヘンテコに振りながらハンバーグダンスをする澪の手を引き、
「うん、約束。」
そう言って園を出る。
それにしても、僕が園の行事の手伝いとは。
このかなりハイソな幼稚園を探してきたのは彩であり、入園当初は園の行事にもよく参加していたし、多くのママ友とお付き合いがあった。
しかし、昨年あの記事がネットで流れてから、全てが変わった。彩は園の行事どころか送り迎えも一切拒否し、以降園に決して顔を出さなくなった。
それ以来、僕が送り迎えをするようになる。園の行事にはなるたけ目立たないように、先生や他の保護者と目が合わないようにそっと参加してきた。
そんな僕に保護者は誰も声をかけることはなかった、正直とっても助かっていたのだが。
それが、今。
美代先生からは毎日メッセージが送られてくるし、優馬ママと連絡先交換… おっと早速優馬ママからLINEが届いたぞ。
この急激な変化に僕はついていけるであろうか。誰かに相談したい、そう勿論、ゆっきーに相談したい。そしてこれからどうすればいいか、アドバイスが欲しい。
「パパ。かえりにおかいもの、いく?」
そうか、まずは目の前のことから、だな。
「よーし、スーパー行こうか! 確か国産和牛が安売りしてるからな。澪が頑張ったご褒美に、国産和牛ハンバーグだ!」
澪がこ・く・さ・ん・わ・ぎゅー、と叫びながら歩くのを周りの保護者たちが心なしか笑顔で見守っていた。
「ああそうさ。この門を、この扉をくぐれば、僕らはネバーランドに行けるのさっ」
「行こう、一緒に、ノーマン」
「ああ、行こう、エマ」
こうでもしないと、こんなお洒落なレストランに入ることのできない僕らでした。
ローテさんに教わったカジュアルイタリアンは、テラス席もあって中々人気の店だったが、運よく一席だけ空いており、冷房のよく効いた奥のテーブルに案内される。
「なんか。昨日も、一昨日も…」
「そう言えば、イタリアンだった気がする」
「ひょっとして、アタシら前世イタリア人とか? ねえどう思うルシウス?」
「ソレハドウデショカ、サツキ」
二人で吹き出し合いながら、それぞれリゾットとペンネを注文する。
「そっかあ、やっぱりその男とまだ引きずってんだ…」
食後のエスプレッソを啜りながら、ゆっきーが探偵面で頷く。
「なんかさあ、証拠ないの、エビデンス? スマホは? 洋服の匂いやシミは?」
「いや、そんなことしてまで… それに、僕がその証拠を掴んだとしてだ。それをどう使うんだい? 下手したら逆ギレされて、陶片追放さ。ローマの道、険し、だよ。」
「むむむ… 恐るべし帝国の咬ませ犬め。」
なんじゃそれ? とは突っ込まずに、
「だから、いいんだ。彼女は好きに生きれば。僕と澪が細々と生きていければ、それでいいんだ。うん。」
「そっかー。ま、ヒッキーがそれでいいって言うなら。でも、澪ちゃん、かわいそじゃね?」
僕はカプチーノを一気に喉に流し込み、
「あの子は母親に似て賢い子だから。全部わかってると思う。そして、早くに出ていくと思う、僕らの元から。」
「そっか。でも、それまではヒッキーがちゃんと守ってやらないと。ね?」
僕はコクリと頷く。
夕方、3時半。
昼まではうんざりする程の日差しであったが、空は薄く灰色の雲が覆っていて、焼かれるような暑さは取り敢えず、ない。だが、じめっとして重たい熱気は地上に停滞しており、そんな中を引きずるような足取りで、ようやく幼稚園にたどり着く。
園には既に、大勢の保護者がお迎えにきており、その騒々しさは夕方の鴉と何ら違わない気がするのは僕だけであろうか。
大型バスがゆっくりと園に到着する。ドアが開き、中から弾けるように園児たちが飛び出してくる。
そんな中に澪は真っ黒な顔で出てくると、すぐに僕を見つけニヤリと笑う。そしてテケテケと駆け寄り、僕にジャンプしてしがみつく。
「パパ、めちゃたのしかったよ、みよせんせいが、ねずこだったよ!」
僕は苦笑いしながら、
「おかえり。とっても楽しかったようだね。」
まるでマシンガンのように遠足の話をしたかと思うと、
「あ。ぜんいつだ。じゃあね、パパ。」
そう言うや否や、僕から飛び降りて、一人の男の子の方に行ってしまった。その子の母親がこちらを向いて会釈する。ああ、優馬くん。
「こんにちは。優馬と澪ちゃん、すっかり仲良しになったみたいで。良かったです。」
嬉しそうに優馬ママが溢すので、
「ええ。良かったです。これでもうトラブルはなさそうですね」
「はい。あの、ずっとお父様が、これからもお迎えを?」
僕はコクリと頷く。
「そうですか。あの、今後の園の行事の連絡とかもあるので、お父様の携帯番号とラインのID教えていただけますか?」
僕はスマホを取り出し、その二つを優馬ママに開示する。
「ありがとうございます。夏休み明けから卒園まで、結構行事が多いんです。男手があると、とっても助かるんです!」
人足決定、ですな。僕は自然に頷いていた。
「そうなんですよ。真田さん、いっぱい力貸してくださいよお」
その横から美代先生がにゅっと顔を出す。
「因みに。秋からじゃありませんから、優馬ママ。八月は花火大会、スイカ割り、水泳教室。イベントてんこ盛りですよお。」
ですよね、と優馬ママが照れ笑いする。
「去年までは、まあ、その、アレでしたけど。今年はガッツリ手伝ってもらいますよお、いいですね?」
近い。そんなに近くに顔を持ってこないで!
「は、はい。できるだけ、手伝いますから、ちょ、近!」
美代先生はハッとして、真っ赤になって、クルリと背を向けて行ってしまう。
(ふうん。美代先生も、か。)
優馬ママが呟いた気がしたので振り向くと、僕にニッコリと笑顔で、
「また追って連絡しますねー、それではさようならー」
…なんだか、忙しくなりそうな予感。
それにしても。
あれ程人嫌いだった僕が、こうして普通に園ママや先生とコミュニケーションを取っている。不思議だ、どうしてだ? まあ答えは半分分かっているのだが。
これまで全くの引きこもりだった女性が、井戸端会議をするようになった姿を目の当たりにしたからな。
そんな僕を澪もちょっと驚き顔で、
「パパ、なんかあかるくなった? なんかいいことあった?」
「そ、そんなことないだろ、いつも通りだろ」
「いいや。ぜんぜん。あ! わかったあ!」
え? マジで? 僕はちょっと背筋が冷たくなる。
「ついにひのこきゅうをマスターしたんでしょ? そうでしょ?」
日の呼吸。あは、そうなのかも。あの日輪のような眩しいゆっきーとの出会い、通じ合いによって、僕は呼吸の仕方まで変わったのかも知れないな。
「バレたか。よくぞ見破ったな。」
「うふふふ。なんでもおみとおしなのよ。このみじゅくものめが!」
「ほう。ならば今夜の夕ご飯は何か、お見通しなのかな?」
「そ、それは… ハンバーグ?」
「大正解!」
「きゃあーーーーー、ハンバーグ、ハンバーグ やくそくだよ!」
両手を高く上げ、腰をヘンテコに振りながらハンバーグダンスをする澪の手を引き、
「うん、約束。」
そう言って園を出る。
それにしても、僕が園の行事の手伝いとは。
このかなりハイソな幼稚園を探してきたのは彩であり、入園当初は園の行事にもよく参加していたし、多くのママ友とお付き合いがあった。
しかし、昨年あの記事がネットで流れてから、全てが変わった。彩は園の行事どころか送り迎えも一切拒否し、以降園に決して顔を出さなくなった。
それ以来、僕が送り迎えをするようになる。園の行事にはなるたけ目立たないように、先生や他の保護者と目が合わないようにそっと参加してきた。
そんな僕に保護者は誰も声をかけることはなかった、正直とっても助かっていたのだが。
それが、今。
美代先生からは毎日メッセージが送られてくるし、優馬ママと連絡先交換… おっと早速優馬ママからLINEが届いたぞ。
この急激な変化に僕はついていけるであろうか。誰かに相談したい、そう勿論、ゆっきーに相談したい。そしてこれからどうすればいいか、アドバイスが欲しい。
「パパ。かえりにおかいもの、いく?」
そうか、まずは目の前のことから、だな。
「よーし、スーパー行こうか! 確か国産和牛が安売りしてるからな。澪が頑張ったご褒美に、国産和牛ハンバーグだ!」
澪がこ・く・さ・ん・わ・ぎゅー、と叫びながら歩くのを周りの保護者たちが心なしか笑顔で見守っていた。