第5話 第3章

文字数 3,412文字

 翌日。

 早朝から彩は荷物をまとめ、僕らに何も言わず出て行ってしまう。
 食卓に書き置きが残されており、

・澪の卒園まではこの家にいなさい
・四月からこの家で在宅ビジネスを始める予定なのでそれまでに出ていくこと
・それまでの生活費は銀行口座に振り込みます
・コロナウイルスに十分備えなさい、一年分のマスクやトイレットペーパーなどの備蓄をしておくこと

 僕らは唖然としつつ、この申し出に従わざるを得ないことを認識する。

 更にその翌日。
 速達で郵便が届き、中を改めると緑色の薄い紙が同封されていた。
 僕は必要事項を記入し捺印したのち、指定された住所を封筒に書き込み、それを投函した。
 その帰り道、澪が、
「しかたないよ、あの女のまつごの言ばなんだからさ。」
 僕は吹き出しながら
「そうだな。仕方ないなー」
 駅前のスーパーに寄り、嫌々ながらもマスク、トイレットペーパー、ティッシュを半年分ぐらい買い占めてやった。

「それでさ、クローゼットにしまっておいた昔の画集も全部引っ張り出してきて、テーブルに叩きつけたんだわ。それを見た後ヤツは何て言ったと思う?『お前がこんなくだらない人間だなんて聞いてなかったし知らなかった』だってさ。『今すぐ止めろ。ネットにも投稿するな。俺の恥になるだろうが!』まあそー言えばそーだわな、ギャハハハ」

 大晦日の深夜。
 僕の、と言うか彩の家で、ゆっきーはキレ気味に話を続ける。
 
 ゆっきー69先生の作品が、とうとう旦那にバレた顛末をかれこれ二時間は語っている。何でも銀行勤めの旦那が忘年会に出席したそうな。そしたら若手の部下が自慢げに推しのエロイラストレーター、ゆっきー69を語ったんだと。帰宅後、郵便受けに大型郵便が入っており、なんとその宛名が「ゆっきー69」様…
 すっかり酔いが覚めた旦那が中を改めると、某有名レディースコミックからの作画依頼が…
 寝ていたゆっきーを叩き起こし、一体これは何なのかと問いただした所、寝ぼけたゆっきーは生まれて初めて逆ギレし、冒頭に至ったそうな…

 紅白を見ていた澪は十時前には寝落ちし、寝室から健やかな寝息が聞こえている。あれ程除夜の鐘を三人で一緒に聞きに行く、と頑張っていたのだが。来年の宿題だぞ、ミオ。

「で、どうするんだい。その仕事、受けるの?」
「受けたら即離婚だってさ。あと今迄アップした絵も削除しないと。ハー、どうしたもんかねえ」
 そう言って僕を見つめる。
「それにしても… ゆっきーがお堅い銀行マンの推しになっていたとは… 僕もちょっとビックリだわー」
「ねー。世間ってよーわからんわ」
「でもさ。その世間がゆっきーの絵を評価してそれを求めているんだ。堂々と描けば良いじゃない?」
「でもそーすると、私、家追い出されるんですけど。」
「それな… 僕も三月にはここを…」
「「ハーー」」
 二人の溜息が重なる。

「でも、ヒッキーの離婚話には腰抜かしたわ。まさに青天の霹靂ってやつですかねえ。」
 僕の離婚の話は瞬息で街を駆け巡った。一体誰が言いふらしているのか、離婚届を投函した翌日には、井戸端三人嬢に
「何故?」「どうして?」「何が…あったの?」
 と追い込まれる。
 僕のLINEには園ママの問い合わせ、応援、取調べ、労いが殺到する。中には久方ぶりの美代先生からのメッセージも。

『大変ショックを受けています。同時に早まった自分に後悔の念を禁じ得ませんでした』
 …? サッパリ意味が分からない。
 何度かやり取りしている内に、実は自分は妊娠しており、来年の春に寿退園し結婚するとのこと。何とめでたい話だろう、僕は心からの祝福を彼女に伝える。
 しかしながら何度やり取りしても、彼女の言う「早まった」とか「後悔」の意味が全く理解できず、はてなマークが当分頭について回りそうだ。

 優馬ママからは直電をいただき、どうしても直接会ってお話ししたいとのこと。つい一週間ほど前に二度とお会いしませんのでと言った手前、非常に顔を合わせずらかったのだが。
 彼女の方はそんな話は綺麗さっぱり消去済みのようで、懐かしの豪邸にて彼女自慢のケーキをほうばりながら、簡単に離婚に至った要点を説明すると、
「ホッとしました、私が原因だったのではないかと心配していたので…」
 そんな目の前の彼女がそこの寝室で園パパと全裸でお相撲している姿を想像してしまい、しばらく腰を上げられなかったのは厳秘ですから。

「それなー。未だに実感ゼロですよ。まさかこの歳で独身になってしまうなんて。」
「ま。女運が悪かったと言うことで。ご愁傷様っす。」
 僕は吹き出しながら、
「自分だって! 人の事言えないでしょ」
 ゆっきーは妙にムキになりながら、
「私はずっと女子校の選択肢ゼロでしたから! ヒッキーは大学が共学だったし多少はあったでしょうに。」
「いやいやいや。女子に慣れるのに二年。男子校の辛さだわー。慣れた頃に彩に捕獲され… 僕も選択肢はそうはなかったよ…」
「ハーー。ワタシ、少なくとも漫画やアニメの価値観が一緒な相手じゃないと、キッツーだわ、今更ながら。」
「それなー。で、どうするのこの先?」
「それなー。正直さ、絵は描いていきたい。この先ずっと。」
「となると、あのマンションから追い出されてしまうぜ? 実家に戻る…訳にはいかんよなあ、確か甥御さんに占拠されてるんだっけ?」
「そ。可愛い甥っ子を追い出す訳にはいかんし。あーーー、どーしよおーー」
 と言う割にはちっとも悲壮感が感じられない。
「ちょっ 真面目に考えなさい。」
 するとゆっきーはニヤリと笑い、

「これはもう、ヒッキーに責任取ってもらうしかないかー」

 時が止まる。
 音も止まり、思考も停止し心拍も停止する。
 その間、視覚のみ作動し、じっと真剣な表情で僕を見つめる彼女を角膜、瞳孔、水晶体、硝子体、網膜の順で伝達していき、やがて電気信号に変換され視神経を経由し脳に到達する。
 脳は刺激を受け、やがて心拍は脈動を再開し、思考も徐々に回復してくる。
 そして。僕の口から出た一言は、

「ハア?」

 彼女は頬を膨らませながら、その発言の正当性を主張する。
「そりゃそうでしょ、ヒッキーの勧め通りにしたらこーなったんだから。私はもう後戻りしたくない。元の引き篭もりに戻りたくない。プロの(エロ)イラストレーターとして、自分の足で新しい人生を進んでいきたい。だから、」
 彼女は身を乗り出し、

「責任取ってよ」

 今年の春。真っ赤なショーツを真っ赤な顔で受け取るゆっきー。はぐれメタルをゲットし思わず歓声を上げるゆっきー。
 夏。二日続けてのパスタを美味しそうに啜るゆっきー。僕の胸元で号泣した後爆睡するゆっきー。澪と楽しそうに会話するゆっきー。
 秋。イラスト投稿に没頭するゆっきー。想定外の進路を爆走し暴走するゆっきー。そして、初めてのキス。
 冬。……初めての二人の冬。僕は勇気を振り絞り、募る想いを口にするー

「そ、そりゃ僕で良ければ、喜んで…」

「え…?」
「え…?」

 二人は数ヶ月前の状態に後戻りしてしまう… 目を泳がせ視線が定まらない僕。身を縮こませ俯くゆっきー。
 様々な天使が通り過ぎて行く。

 突然、目覚まし時計が鳴り響く。二人は椅子から飛び上がり、何処で鳴ってるの? あれ、何処だろう、とあたふたしているとー
「おはよ… ミオ、おきたよー」
 寝室から澪がヨロヨロしながら歩いてくる。
「澪、お前…」
「へ? 澪ちゃん、目覚ましいつの間に…」
 澪は寝惚けながらもドヤ顔で、
「さ、パパ、ゆっきー。じょやのかね。ききにいこ!」
 僕とゆっきーは目を見合わせ、次の瞬間、爆笑する。

 僕らのマンションを三人で手を繋いで出たところで除夜の鐘が鳴り響き始める。
「明けましておめでと。今年はどんな波乱の年だろーね?」
 ゆっきーが甘えた口調で挨拶をする。
「明けましておめでと。お互い予想もできない程の波乱の年になるだろうね」
 遠くでカーーンと鐘の音。
「わあーい、じょやのかね、じょやのかね。きっとことしはステキな年になるよ」
 左手には澪経由でゆっきーの手の温もりが伝わってくる。うん、そうだな。澪の言う通り、今年はみんなにとって、ステキな年になりますように。
 空を見上げると、既に月は沈んでいて真っ暗な空にポツポツと星の光。都会の空だから仕方ないけど、もう少し大勢の星々が見たかったな。

 寺に着いたらそうお祈りしよう。僕は五円玉をぎゅっと握りしめた。
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