第1話 第5章

文字数 4,364文字

 家に戻り洗濯物をそれぞれの箪笥にしまい、バスタオルを洗面所のクローゼットに放り込むとやる事がなくなり、テレビの前のソファーに体を投げ出す。コントローラーを弄り録画された番組の画面を眺めても、何も観る気がしなくなっていた。
 一体、今日のこの僕のテンションの上げ下げは何なのだ… また心をやられちゃったのかも知れない。心療内科に行った方がいいかな、それとも前にもらった薬の余りを飲んでみようかな。

 そんなことを考えながら、何となくスマホを開くと無意識のうちにゲームアプリをタップしている。その瞬間、メッセージを受信する!
『今、アニメ何観てるの?』
 思わず顔が綻ぶのを感じる。
『鬼滅だよ。メチャハマってんの! サイコー』
『良いよね! 私、義勇さま推し! 一度斬られたいかも!』
『良かった、無惨推しでなくて…って、斬られるんかい!』
 なんて事だ。彼女はゲームだけでなく、アニメまで… 妻からは蔑みの目で見られているこの録画リスト。ゆっきーが見たら、何て言ってくれるだろうか…

『そーゆーゆっきーは、何してんの?』
『リビングでゴロゴロしてるーヒッキーがランチ誘ってくれないからヒマ過ぎー』
 一瞬で赤面してしまう
『ランチなー。これから朝抜いて、昼と夜に食べよーかなー』
『そーしなよ! そしたら一緒にランチ行けるじゃん!』
『じゃあ早速明日から朝食止めよっと。』
『じゃあ早速明日ランチしようよ!』
 心臓が激しく震える
『いーけど。安くて美味しい所知ってる?』
『任せて! 探しとくよん。ふふふ、私ら変だわー。メールだとこんなに色々語れるのにー』
『ホント、それな! 明日のランチ中もスマホ離せないかも ww』
『それシャレにならないって… やば、何とかしないと… 所で夕食の買い物は済んだ?』
『それがー今夜は女房と外食だってさ。行きたくねー』
『えー、何でー、いーじゃん。美味しいもの食べて来なよー 私は後でスーパー逝って来るわーー』
『はーい、成仏してねー チーン ww』

 勢いで明日のランチの約束をしてしまったのだが。僕は妻以外の女性とランチなんて、嘗て経験が無い。
 既に面倒臭い気持ちがあるのだが、相手がゆっきーである。体と頭は拒否っているのだが、心のウキウキ感が否めない。何となく明日が楽しみになってきている感もある。
 僕らのランチ。きっとまともな会話はほぼ無いだろう。二人でニヤニヤしながら、ゲームのメッセージ機能を駆使して楽しくランチを過ごすー想像するだけで、胸の鼓動が鳴り止まない。
 もっとゲームの話がしたい。鬼滅について語り合いたい。他にどんなゲームやアニメが好きなのか知りたい。もっとあなたのことが知りたい…

 スマホが鳴ったのに気付くと、もう五時前である。しまった、準備しなくty…
『これから会議入っちゃった。遅くなりそう。今夜はキャンセルです。』
 僕は今日イチのガッツポーズを決める。神様っているんだな。

 冷蔵庫を開け、あるもので何を作るか考えている時、再度スマホが鳴る。会議は中止になったから時間通り集合よ、なんて勘弁してくれよ、そう心底願いながらスマホを開く。
『ふっふっふ、今夜の夕飯! ジャジャーン… って、写真添付出来ねえ 涙』
 それはそうだ。ゲームのメッセージ機能はそこまで親切ではない。僕はゆっきーの作った夕飯がどうしても見たくなる。となるとー
『ねえラインのID教えてよ! こっちは「MASA」な』
 数分後、僕は友達承認をタップする。
 送られた写真には、僕の大好物のペペロンチーニ、新鮮野菜のサラダ、オニオンスープが美味しそうに写っている。
『いい匂い! ホント美味しそうじゃないですか!』
『炭次郎かよ匂うんかい ww てか、そっちそろそろ奥さんとディナーじゃね?』
『それがまさかのドタキャン喰らいまして、HPゼロですわー。』
 既読が付き、その十分後。
『あれま。それはそれは。余分に作ったからウチに食べに来る?』

 思わずスマホを床に落っことした。

 クローゼットの前でコンクリート化する。全裸で、呆然と突っ立っている。何を着ていけば… 鏡を見ると、悩みの巨人がちょっと猫背で写っている。
 僕は女性一人の部屋に入ったことがない。ましてや夕食をご馳走になったことなぞ想像すらしたことがない。まずは落ち着け。気が動転し思わず全裸になってしまったが、下着は別に今履いていたので問題なかろう、下着をよいしょっと履く。履いてますからー。ポーズを取ると心が寒くなる。
 幸いメニューは概知。ペペロンチーニはオリーブオイルと唐辛子、ニンニク。トマトソース系ではないので、白い服でも問題なし。と言うことで、アメリカ在住時代に買った(買ってもらった)ブルックスのボタンダウンシャツにしよう。
 ズボン。同様の理由につき、普通にチノパンでいいかな。合わせてみると、デザイナーとかの自由業っよ、ぽくって、まあ良い。
 ソックス。一人女性宅に履いていけるソックスとは? その解を知らぬ僕は、悩みに悩む。誰かに相談したい。誰もいない。さあどうする? シャツが白だから、白。そう決心する。
 ああ、しまった! 今朝から色々精神状態が変化し、身体中汗臭いではないか! 僕は慌てて全裸になり、風呂場に駆け込みシャワーを浴びる。
 シャワーから出ると、全力で歯を磨く。大人用と、念の為澪の使ういちご味歯磨き粉も使用する。髪をドライヤーで乾かし、あああ、順序が滅茶苦茶じゃないか! 歯ブラシを咥えながらドライヤーをあてがう鏡の中の自分に苛立ってしまう。

 部屋に戻り、脱ぎ散らかした服をソックスから順番に履いていく。シャツの第二ボタンを締めた時に時計をみると、一時間が経過していた。
 慌ててスマホをチェックすると、
『やっぱ、材料がちょいと足りぬので、買い物に出てます! 家を出たらLINE me!』
 少しホッとする。
 よし! 進撃だあ! と玄関に向かう途中で電話が鳴る。へ? 直電? うわ…
 画面を見ると、ゆっきーではなく、やえざくら幼稚園の美代先生から… まさか、澪が優馬くんにまた暴行を?
「はい。真田です。」
 緊張しながら呟く。
「やえざくら幼稚園の田中です。今晩は」
 僕は唾をゴクリと飲み込んで、
「こ、こんばんみゃあ」
「…えっと、今お電話よろしいですか?」
 そう言えば。妻以外の女性と携帯電話で話すのは、保険のオペレーター嬢と以来かも知れない。
「はい、だいじょうび、です」
「…澪ちゃんなんですが、」
 脇に変な汗が垂れるのを感じる。スマホを持つ手が発汗する。
「食事で何かアレルギーありました? 健康チェックシートに何も書いてらっしゃらなかったので、どうなのかな、と思いまして。」

 はああー。大きく息を吐き出す。良かった、何かしでかした訳ではなさそうだ。すっかり緊張はなくなり、
「ええ。そこに書いた通り、澪にはアレルギーも好き嫌いもありません。何でもよく食べると思いますよ」
 すると、電話口が突如静かになる。?
「…あ、そう、でしゅたか、それなら、良かったです、はい…」
 ? 美代先生が噛んだ? あんなにハキハキした元気な先生が。珍しい。
 それから僕と美代先生の間に快盗天使が通り過ぎる。僕は慣れているが、先生は息遣いが荒く、ちょっと困っているようだ。
 申し訳ないので、僕の方から
「ご用件はそれだけですか?」
「あ、えええ、そうですね、そうです。アレルギー無かったなら、良かったです。」
「それでは。さようなら。」
「へ? あ、ええ、さようなら?」
 僕は安心してスマホをタップする。

 靴を履き玄関を出る。ゆっきーに家を出た旨LINEすると、即既読が付き、
『そ言えば、家の位置、送るわ』
 しばらくしてゆっきーのマンションの位置情報が送られてくる。それをタップし、誘導開始をタップする。
 それにしても、美代先生の途中からのあの慌てっぷりは何だったのだろう。それも大した用事でもないのに、わざわざ直電してくるなんて。
 よっぽど暇でやることがなかったのかな。それとも、澪の身の上を考慮し、丁寧に扱ってくれているのかな。
 それにしても。やはり電話で人と話すのは、本当に苦手だ。相手がオペレーターであっても、僕のきょどり方は変わらない。これが対面ならば相手の顔さえ見なければもう少し上手く話ができるのだが。
 
 それでも最近ゆっきーと色々話しているので、以前よりかは少しはマシになったと言えよう。彩と結婚する以前から、もっと言えば大学生以来、僕は女性と話すのが大の苦手だ。いや、女性だけではない、他人と話すのが大学生以来本当に苦手だ。高校生位までは割と普通に話せていた気がするのだが、他人との会話をはっきりと苦痛と自覚し始めたのが、大学三年生の頃からだ。
 彩と付き合い始めてからは、他の女性と話すことが恐怖となり、できるだけそのような機会を避けて生きてきた。
 なので、生まれてきた子供が娘だったのを何度呪い何度悲しんだことだったか。だが娘は別物だった。澪が喋れるようになると、僕の他人との会話の殆どが澪とのものとなっている。そして、澪とのお喋りが僕の生き甲斐となっている。
 
 澪と話すと心が癒される。力をくれる、勇気を与えてくれる。社会の様々な恐ろしい外敵(主に園ママ)から、僕を守ってくれている。それはさながら僕の周りに張り巡らされた、丈夫で高い壁の如し。僕はその壁の内側で一人安心して暮らしていけるのだ。
 そんな安穏とした平和をある日突然打ち壊した、ゆっきー。僕は初め、彼女が巨人なのかと怯えていたかも知れない。僕の平穏な澪との生活を破壊されてしまうかも知れない、そう警戒していたかも知れない。
 だがそれは間違いだった。ゆっきーは巨人どころか、遥か海の向こうからやってきた、始祖の人だったのだ! 彼女は僕に言葉を教え、勇気を与え、愛を… あれ?

 そんな妄想に浸っていると、スマホが鳴動する。
『先程は失礼しました。澪ちゃんは夕食を残さず食べて、とても良い子でしたよ。』
 美代先生だ。僕は澪の様子を思い浮かべ思わずニヤけてしまう。みんなと一緒に楽しそうに食事をし、お布団を敷いて枕投げして。
『それは良かったです。先生もお疲れでしょう。お休みなさい』
 そう返事をして、今朝の美代先生を思い浮かべる。
 細かったなあ。あんなに私服が似合うとは。それにこんなにも澪に目をかけてくれて。そしてこんな僕をこれほど構ってくれて。
 元気良くて優しくて面倒見が良くて。なんと素晴らしい先生なのか。しかも中々可愛いし。園の先生の中でも一番人気だと、たっくんママが言っていたな。

 スマホが鳴動する。
『早く、こいやコラ! ちなみに今どこ?』
 いかんいかん。変な妄想をしていたら、駅を通り越して全然違う道を行ってしまっていた…

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