第2話 第6章
文字数 3,025文字
「と言われてもなー、ヒッキー程面白くないで。子供の頃からみんなで遊ぶの苦手でさ、いっつも一人で本読んだり絵を描いたりしてて。中学生になるとそれが漫画、アニメ、ゲームになって。その頃からいっぱい絵を描いててさ、実はアタシ、イラストレーターに成りたかったんだ。」
「そうなの! 見たいな、ゆっきーの描いた絵」
「実は… 今でもちょろっと、描いてたりして…」
「マジで? 見たい、見たい!」
「そお? じゃあ後で、ちょろっとだけ見せてあげる。なんてこんなこと、ワタシが絵を描いていること、旦那も知らなかったりして」
「え… そうなの? 何故?」
「私さ、中高大一貫でさ、それも高校入ってからはあんま学校行かないで結構マジで引きこもっててさ。あの頃は本気でイラストレーターに成るって信じててさ。今思うと笑っちゃうけどね。でもそんな感じだったからリアル友達ゼロ、ネッ友多数、彼氏何それっ? て感じ。大学生活もその延長でやってたら親がブチ切れてー」
ほとんど今と変わらないじゃん、思わず僕は吹き出す。
「うん。それはキレるわ。それで?」
「大学卒業前にお見合い? みたいなのさせられて、それが今の旦那。ね、全然面白くないでしょ」
「いや、ある意味… 現代ではかなーり珍しいのでは? で、旦那さんどんな人なの?」
ゆっきーは立ち上がり、テレビ棚から写真立てを一つ持ってきて僕に見せる。二人で直立不動のポーズの写真だ。どこか新婚旅行なのか、異国情緒あふれた街並みをバックに緊張感いっぱいの二人の硬い顔にちょっと笑ってしまう。
旦那さんはかなり年上のようだ。何年前かは知らないが、この時点で三十歳は超えているに違いない。背は低くゆっきーよりも少し高いほど。顎の張った四角い顔で眼鏡をかけている。
「十歳年上。真面目。堅物。仕事中毒。実際メチャ頭良いし、能力はあると思うんだけどねえ」
「何その上から目線… 仕事は何をしているの?」
「銀行。だから、やたらケチ臭い。」
成る程。見た感じもそうだし、この家が醸し出す雰囲気もそんな感じだ。僕が納得していると、ゆっきーはハーと溜め息をつきながら、
「なんだけど、だからこそ? 漫画とかアニメとかゲームを全否定。彼の中ではそんなものは子供の見るものすること、社会的には全く不要なモノ。昔はそんなもの無かったから良い時代だった、なのに今はー、みたいな感じ。」
「うわ… 昭和の匂いがする…」
ゆっきーは突如身を乗り出し、吠える!
「まあ私だってギリ昭和な訳ですよ。でもね、時代は変化するってーの。進化するのが人間だっつーの。生物は強い個体や賢い個体が生き延びるのではなく、変化に柔軟な対応が出来る種が生き延びるんだっつーの。それがこれっぽっちも解ってないんだよっ!」
「成る程、引き籠りというのもこのストレス社会に対する必要不可欠な生き方であると? ある意味究極の防御姿勢である、と?」
「そうそう! そうなんだよ。ストレス耐性が弱い人間が無理矢理外に出たら、プレッシャーに押し潰されてしまうんだよ。ある意味引き籠りは己を守るための正当な手段であり私みたいなのが生き延びるための最適解なのですよ!」
「成る程、成る程。僕も対人恐怖症を抱えているのであり、そんな僕が生きていくためには僕が無理に人に話しかけるのではなく僕が人に接しなければいいんだ。それは弱さでも逃避でもなく、僕という種の生き延びるための術なんだ。」
「わかるわかる! 無理してコミュニケーション取る必要なんて、今のこのI T化の進んだ社会では全く不要だね。必要な時に必要最小限のコミュニケーション。これでいいんだよ!」
食事はとっくに終わっており、白熱した議論は時の経過や汗塗れの鬱陶しさを忘れさせる。他人には言えない心の思いを互いにぶち撒け合い、僕らは何となく心が軽くなった気分に浸る。
「それはそうと、ゆっきーのイラスト、見せてよ」
議論が一息ついたところで、僕が切り出すと、
「見る? 見ちゃう?」
卓越した家事能力を持つ僕らは、議論しながらも手を休めることは無い。したがって食器の片付けは既に終わっている。
エプロンを外した彼女は、
「じゃあ、こっちおいでー」
と僕を寝室に誘う。てっきり寝室から画集か何かを持ってきてくれると思っていたので、思わず硬直してしまう。寝室、すなわちゆっきーが毎晩寝ている場所。人間が最も無防備となる場所。そして、浴室以外で人が最も生まれたままの姿となるべき場所…
そんな僕の動揺を知らず、彼女はサッと寝室に入っていく。僕は全集中の呼吸で精神の乱れを抑え込み、何とか落ち着いて彼女の寝室に入る。
ベッドが二つ、並んでいる。片方はキッチリと整えられており、片方は枕も寝具もとっ散らかっている。言われるまでもなく、後者がゆっきーのベッドであろう。思わず笑ってしまうと、緊張が少し解けた気がする。
ウォークインクローゼットの奥の方から、彼女は何冊かのスケッチブックを引っ張り出し、ベッドの上に放り投げる。
「うわ、懐かし過ぎる… これ高校時代に描いたやつかも」
ベットの上で彼女は懐かしそうにスケッチブックを開く。僕はそれを上から眺めていると、
「お座り、ここ」
とベッド上に誘われてしまい、またもや心拍数は三桁を超える。恐る恐る彼女のベッドに乗ると彼女が僕にひっついて、これこれ見てごらん、とささやく。
近い! 柔らかい! 温かい! ゆっきーのスケッチブックどころじゃなくなりそうな僕は、会得したばかりの全集中で呼吸と心拍を整え、落ち着いたところで差し出されたその絵をそっと眺め…
思わず絶句した。
これは素人の夢絵日記などではない。恐らく見る人が見れば即座にその才能を看過する筈の、紛れもない『ホンモノ』の絵であった。
僕みたいな素人こそ解る。ホンモノの実力は素人の心を動かすことが出来るのだ。ゴッホ然り、ゴーギャン然り、葛飾北斎然り、岡本太郎然り。
「ねえ、この絵とか、人に見せたことないの? 例えば学祭とかで展示したとか?」
「ない。一切ない。てか、見せない。見せなかった。見せられなかった…」
「どうして…?」
ゆっきーは俯きながら僕の肩に顎を乗せる。
「だって… もし否定されたら… アタシ多分その場で死んでたよ。自分を否定される… 怖いって。見せられないって」
他人による自己否定。これ程恐ろしいものが他にあるだろうか。僕だって怖い、未だに怖い。
「そんな… そっか… じゃあさ、今は? 今なら人に見せられる?」
「だから… 見せてんじゃん。」
「お、おう」
「で。どうかな?」
一直線の視線を僕に発射する。頬が触れんばかりの近くで見ると、ビックリするほど大きな瞳が僕を伺っている。
「良い、と思う。僕はプロじゃないからよくわからないけど。でも、ゆっきーの絵は凄いと思う。ただ上手いだけじゃない、人の心を揺り動かす何かを感じる。正直この絵なんかは技術的に拙さを感じるけど、でも何かが、何かを訴えているのが手に取るように解る。」
彼女が僕に飛びかかる。僕は仰向けになりベッドの上で宙を仰ぐ。彼女は顔を僕の胸に埋め両手をしっかりと僕の首に回す。
程なく啜り泣きの声が聞こえてくる。鼻を啜る音も同時に聞こえてくる。啜り泣きは暫くすると嗚咽に変わり、僕のシャツは彼女の涙と鼻水でビショ濡れになる。
後頭部を優しく撫でる。そっと撫でる。嗚咽は啜り泣きに戻り、やがて静かな鼾が僕の胸を震わせる。
「そうなの! 見たいな、ゆっきーの描いた絵」
「実は… 今でもちょろっと、描いてたりして…」
「マジで? 見たい、見たい!」
「そお? じゃあ後で、ちょろっとだけ見せてあげる。なんてこんなこと、ワタシが絵を描いていること、旦那も知らなかったりして」
「え… そうなの? 何故?」
「私さ、中高大一貫でさ、それも高校入ってからはあんま学校行かないで結構マジで引きこもっててさ。あの頃は本気でイラストレーターに成るって信じててさ。今思うと笑っちゃうけどね。でもそんな感じだったからリアル友達ゼロ、ネッ友多数、彼氏何それっ? て感じ。大学生活もその延長でやってたら親がブチ切れてー」
ほとんど今と変わらないじゃん、思わず僕は吹き出す。
「うん。それはキレるわ。それで?」
「大学卒業前にお見合い? みたいなのさせられて、それが今の旦那。ね、全然面白くないでしょ」
「いや、ある意味… 現代ではかなーり珍しいのでは? で、旦那さんどんな人なの?」
ゆっきーは立ち上がり、テレビ棚から写真立てを一つ持ってきて僕に見せる。二人で直立不動のポーズの写真だ。どこか新婚旅行なのか、異国情緒あふれた街並みをバックに緊張感いっぱいの二人の硬い顔にちょっと笑ってしまう。
旦那さんはかなり年上のようだ。何年前かは知らないが、この時点で三十歳は超えているに違いない。背は低くゆっきーよりも少し高いほど。顎の張った四角い顔で眼鏡をかけている。
「十歳年上。真面目。堅物。仕事中毒。実際メチャ頭良いし、能力はあると思うんだけどねえ」
「何その上から目線… 仕事は何をしているの?」
「銀行。だから、やたらケチ臭い。」
成る程。見た感じもそうだし、この家が醸し出す雰囲気もそんな感じだ。僕が納得していると、ゆっきーはハーと溜め息をつきながら、
「なんだけど、だからこそ? 漫画とかアニメとかゲームを全否定。彼の中ではそんなものは子供の見るものすること、社会的には全く不要なモノ。昔はそんなもの無かったから良い時代だった、なのに今はー、みたいな感じ。」
「うわ… 昭和の匂いがする…」
ゆっきーは突如身を乗り出し、吠える!
「まあ私だってギリ昭和な訳ですよ。でもね、時代は変化するってーの。進化するのが人間だっつーの。生物は強い個体や賢い個体が生き延びるのではなく、変化に柔軟な対応が出来る種が生き延びるんだっつーの。それがこれっぽっちも解ってないんだよっ!」
「成る程、引き籠りというのもこのストレス社会に対する必要不可欠な生き方であると? ある意味究極の防御姿勢である、と?」
「そうそう! そうなんだよ。ストレス耐性が弱い人間が無理矢理外に出たら、プレッシャーに押し潰されてしまうんだよ。ある意味引き籠りは己を守るための正当な手段であり私みたいなのが生き延びるための最適解なのですよ!」
「成る程、成る程。僕も対人恐怖症を抱えているのであり、そんな僕が生きていくためには僕が無理に人に話しかけるのではなく僕が人に接しなければいいんだ。それは弱さでも逃避でもなく、僕という種の生き延びるための術なんだ。」
「わかるわかる! 無理してコミュニケーション取る必要なんて、今のこのI T化の進んだ社会では全く不要だね。必要な時に必要最小限のコミュニケーション。これでいいんだよ!」
食事はとっくに終わっており、白熱した議論は時の経過や汗塗れの鬱陶しさを忘れさせる。他人には言えない心の思いを互いにぶち撒け合い、僕らは何となく心が軽くなった気分に浸る。
「それはそうと、ゆっきーのイラスト、見せてよ」
議論が一息ついたところで、僕が切り出すと、
「見る? 見ちゃう?」
卓越した家事能力を持つ僕らは、議論しながらも手を休めることは無い。したがって食器の片付けは既に終わっている。
エプロンを外した彼女は、
「じゃあ、こっちおいでー」
と僕を寝室に誘う。てっきり寝室から画集か何かを持ってきてくれると思っていたので、思わず硬直してしまう。寝室、すなわちゆっきーが毎晩寝ている場所。人間が最も無防備となる場所。そして、浴室以外で人が最も生まれたままの姿となるべき場所…
そんな僕の動揺を知らず、彼女はサッと寝室に入っていく。僕は全集中の呼吸で精神の乱れを抑え込み、何とか落ち着いて彼女の寝室に入る。
ベッドが二つ、並んでいる。片方はキッチリと整えられており、片方は枕も寝具もとっ散らかっている。言われるまでもなく、後者がゆっきーのベッドであろう。思わず笑ってしまうと、緊張が少し解けた気がする。
ウォークインクローゼットの奥の方から、彼女は何冊かのスケッチブックを引っ張り出し、ベッドの上に放り投げる。
「うわ、懐かし過ぎる… これ高校時代に描いたやつかも」
ベットの上で彼女は懐かしそうにスケッチブックを開く。僕はそれを上から眺めていると、
「お座り、ここ」
とベッド上に誘われてしまい、またもや心拍数は三桁を超える。恐る恐る彼女のベッドに乗ると彼女が僕にひっついて、これこれ見てごらん、とささやく。
近い! 柔らかい! 温かい! ゆっきーのスケッチブックどころじゃなくなりそうな僕は、会得したばかりの全集中で呼吸と心拍を整え、落ち着いたところで差し出されたその絵をそっと眺め…
思わず絶句した。
これは素人の夢絵日記などではない。恐らく見る人が見れば即座にその才能を看過する筈の、紛れもない『ホンモノ』の絵であった。
僕みたいな素人こそ解る。ホンモノの実力は素人の心を動かすことが出来るのだ。ゴッホ然り、ゴーギャン然り、葛飾北斎然り、岡本太郎然り。
「ねえ、この絵とか、人に見せたことないの? 例えば学祭とかで展示したとか?」
「ない。一切ない。てか、見せない。見せなかった。見せられなかった…」
「どうして…?」
ゆっきーは俯きながら僕の肩に顎を乗せる。
「だって… もし否定されたら… アタシ多分その場で死んでたよ。自分を否定される… 怖いって。見せられないって」
他人による自己否定。これ程恐ろしいものが他にあるだろうか。僕だって怖い、未だに怖い。
「そんな… そっか… じゃあさ、今は? 今なら人に見せられる?」
「だから… 見せてんじゃん。」
「お、おう」
「で。どうかな?」
一直線の視線を僕に発射する。頬が触れんばかりの近くで見ると、ビックリするほど大きな瞳が僕を伺っている。
「良い、と思う。僕はプロじゃないからよくわからないけど。でも、ゆっきーの絵は凄いと思う。ただ上手いだけじゃない、人の心を揺り動かす何かを感じる。正直この絵なんかは技術的に拙さを感じるけど、でも何かが、何かを訴えているのが手に取るように解る。」
彼女が僕に飛びかかる。僕は仰向けになりベッドの上で宙を仰ぐ。彼女は顔を僕の胸に埋め両手をしっかりと僕の首に回す。
程なく啜り泣きの声が聞こえてくる。鼻を啜る音も同時に聞こえてくる。啜り泣きは暫くすると嗚咽に変わり、僕のシャツは彼女の涙と鼻水でビショ濡れになる。
後頭部を優しく撫でる。そっと撫でる。嗚咽は啜り泣きに戻り、やがて静かな鼾が僕の胸を震わせる。