第5話 第2章

文字数 4,392文字

 数日後。コインランドリー井戸端メンバーにアウトレットのセールに誘われる。なんでもフランス製のフライパン類が半額以下になっているらしい!
 年末の日曜日、既に大掃除を済ませた我が家のリビングで寛ぐ彩にその旨を伝えると、
「ふーん。井戸端会議仲間って… ま、勝手にすれば。」
「澪も連れて行くよ」
 彩は真顔で、
「それは許しません!」
「へ? どうして?」
「アウトレットでしょ、中国人だらけじゃない。コロナウイルス移されたら大変だから。絶対に許しません。」
 出た、得意のヘイト発言。僕は呆れ顔で、
「それって、中国の武漢で流行ってるって噂のやつだろ? 昔のSARSとかと一緒だって。」
「いいえ。コロナは必ず日本だけでなく世界中に蔓延し、パンデミックになります。」
「だからって、中国人にそんな言い方…」
「いいから。行くなら貴方だけにして。そして帰宅後は即シャワー浴びて着ていた服は廃棄して。それからマスクをして行って。分かった?」
 ダメだこりゃ。パンデミックって、なんのS F映画だよ…
 寝室から恨めしそうな澪の視線を感じる。すまん澪。パパは負けた。一度も勝ったことないけど。今更ながら城一郎に勝てない創真の気持ちに共感する。

「へー。奥さん、過激なこと言うのね。それにしても、そんなウイルスが蔓延するなんてちょっと考えられないわ」
 ローテさんが呆れ顔で言い捨てる。
「大昔のスペイン風邪の頃じゃないんだし。今は防疫体制もちゃんとしてるし。中国の医療だって世界の先端でしょ。有り得ない、有り得ない」
 クスクスさんも笑い飛ばす。
 たっくんママはそんな二人の高説をなるほどと頷きながら歩いている。そして、
「でも、もし本当にそれが流行ったりしたら、昭和の頃のトイレットペーパー騒動とか起きちゃったりして。」
 僕、ローテさん、クスクスさんは大笑いする。
「アレか、スーパーからトイレットペーパーが無くなるってか。何それウケるー」
「ティッシュも全部無くなっちゃったりして? それじゃエッチできなくなるー」
 四人で爆笑だ。
「逆にさ、今のうちにマスクとか買い溜めておいてさ、そん時になったらネットで高く売れたりして?」
「それ有り! お金持ちになれるうー」
「じゃあそのお金でみんなで温泉旅行にー あ、お店あそこじゃない? うわ… 凄い人…」
 店内に入るのに二十分待ち。その間もコロナ話で僕らは大盛り上がりであった。

 大荷物を抱えての帰宅後。玄関に仁王立ちしている彩の指導に従い、荷物の消毒、僕の消毒、それから入浴。バスタオルを巻いてリビングに出ると、本当に玄関に着ていた服がゴミ袋に入れられている…
 夕食の支度をし、澪を呼びに行こうとすると、
「いいのよ。あの子は放っておきなさい」
 なんだ? ひょっとして僕のいない間に一戦交えたのか?
 全く会話のない二人での夕食を終え、後片付けを終えたタイミングで、
「ちょっと、こっちに来て。話があるのよ」
 澪とのことか。全く二人とも大人気ない。二人のこの相性の悪さの原因はただ一つ。真実はいつも一つ! そう、物の考え方、すなわち性格が全く同じであるからだ。
 二人とも非常に攻撃的な性格であり、議論となると相手を論破するまで決して諦めない。粘り強く外堀を埋めていき、更には念には念を入れて内堀まで埋めてしまい、最後に総攻撃を一点集中でかけてくるのだから、たとえ僕がのぼう様であっても万に一つの勝ち目はない。
 今日は一体なんで喧嘩となったのだろう。僕は渋々リビングのソファーに腰掛ける。

「これを見て頂戴。あの子、こんなものを見ていたのよ」
 そう言って家族共有のP Cを僕に放り投げ…は流石にしなく、乱暴に手渡す。
 画面を見て、背筋が凍り付く。
 それはゆっきーが投稿しているエロイラストのサイトであった…
 彩が舐めるように僕を眺める。
「あの子が、こんなのに興味を持つはずないわよね? これ、貴方よね。」
 息が止まる。呼吸ができない。肺が痙攣する。嘔吐前の苦い唾液が喉に込み上げてくる。
「こんな社会の底辺の人種が集うサイトに、自分の夫が出入りしているとは。流石の私も、さっき嘔吐してしまったわ。」
 口の中が苦くて酸っぱい唾液でいっぱいになる。
「私が、妻が土日祝日も関係なく深夜まで働いているというのに。貴方が、夫がこんなサイトをニヤニヤしながら楽しんでいる。そして未就学の娘までが興味津々でのめり込んでいる。よくも、私の家庭を、こんなに腐らせてくれたものね。」
 彩が目に涙を溜めながら、僕を責める。
「更に悍ましいのが。この醜悪な淫らなイラストの作家、貴方の知り合いなんだって?」
 カーソルを何度かクリックし、ゆっきーのイラスト集を表示させる。
 僕はソファーから立ち上がり、便所に駆け込み先ほど食べたものを全て吐き出す。吐き尽くす。
 何度もうがいをし、歯を磨き、ヨロヨロとリビングに戻ると彩は赤ワインのボトルを開けている。

「澪から大体の話は聞き取ったわ。さあ。話してください。この人と貴方のご関係を。」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 何を後悔すれば今の状態を回避できたのだろう。
 それは、きっと。
 あのコインランドリーに行き始めたのが全てだったのだろう。もし僕が洗濯をずっと家でしていたなら、井戸端三人嬢との出会いも、そしてゆっきーとの出会いも発生しなかった。
 あのコインランドリーに行きさえしなければ、今こうして彩に糾弾されることもなかったろう。
 あのコインランドリーに行きさえしなければ。
 だが、不思議と後悔の念は全く湧いてこなかった、逆に、
 もし僕があのコインランドリーに行くことがなかったのなら、
 今僕に漲りつつあるこの思いは生涯生まれなかったであろう。
 ローテさん、クスクスさん、たっくんママ。更に、佳代子さん、花音ママ、翔大ママ。更に、美代先生、そして。高村雪乃の顔が脳裏に行き来する。
 生まれてこの方初めての感情が僕を満たす、そうこれはあの時に見た、僕が学生時代に家出した時に鹿児島の桜島で見た、あの噴火の如し…
 僕は立ち上がり、彩に指を突きつけて叫ぶ!

「お前が、俺を裏切ったんだろうが!」

 彩は凍りついた。初めて見る硬直した顔だ。僕の噴火は勢いを増す。
「みんな知ってるぞ。お前があの男と未だに付き合ってることを!」
 彩は一瞬ハッとした表情となるが、次第に冷めた顔付きになっていく。
「何が仕事で遅くなる、だ。何が土日も仕事だ! そいつと一緒にいるんだろうが! ええ?」
 何故か彩は不気味な笑みを浮かべ、僕を嘲笑うかのように、
「それが何?」
 僕は言葉を失い、立ち尽くす。

「士郎のことと、この淫乱オンナのことが、何の関係があるの? 私が聞いているのは貴方とこのオンナの関係。論点をずらさないでもらえるかしら。」
 士郎… そう、ネットで晒されていた青年実業家、立花士郎。若くしてネット通販サイトを立ち上げ、今や総資産数百億円。貧しい農家の生まれ育ちで、苦学の末、奨学金で東大に行き……
 ちょっと待て… 貧農? 奨学金? それって彩と…

「ハアー。いいわ教えてあげる。そうよ。士郎は私の同志。二人とも貧しい家に生まれ、親は日々の生活を維持するので精一杯、子供に愛を注ぐ余裕なんてなかった。惨めだった、抜け出したかった、ねえ貴方。給食費を滞納したことがあって? ウチも士郎の所も、あったわ。それがどんなに屈辱だったか想像できる? たった数千円の給食費が引き落とせない口座しかない家の子であることを? それでも食べたわ、私も士郎も。そして誓ったわ、絶対に這い上がってみせる。二度と貧しい思いはしないって。貴方は私立の中高一貫校。私も士郎も、都立に県立。貴方は予備校に通っていたわよね、私も士郎も全部独学。親の脛齧りの貴方と私たちは全てが根本から違うのよ。全部、自分の力。己の刀で道を切り開き、己の知識と努力でここまで這い上がってきたの。正直に言うわ。貴方のご両親、大嫌い。貴方をこんなくだらない人間に育てた、生ぬるい親が大嫌い。無職の三十歳の一児の父親がいやらしい画像を昼下がりから眺めている? 男狂いの色ボケババアに言い寄られていい気になって園の手伝いに勤しむ? こんなカスみたいな人間を育て未だに肯定している親? 馬鹿じゃないの。生きてる価値あるの? まあいいわ、アンタとその両親のことは。で? この生きてる価値もないオンナとアンタとの関係は? このオンナはどれくらいクソ人間なのかしら? ゆっきー69さんとやらは?」

「やめろよ…」
「ハア? 何がよ?」

「ゆっきーを… クソ人間だと? 思い上がるなよ、ふざけるんじゃないよ! ゆっきーはなあ、台東区の小さい工場の二人兄妹の妹だよ、貧しいながらも親と兄の愛情をたっぷり受けて育ったんだよ。お父さんは何度も不渡を出しては何度も這い上がってきたんだよ。それでも子供への愛情を注ぐことは忘れなかった。借金してまでゆっきーを名門私立に入れてやったよ。けれど元々芸術肌だった彼女は人と交わるのが苦手、社会に出るのが苦手。家族の愛に守られた家に引きこもり己の生きる道を探っていたんだよ。卒業し親の勧めで結婚し。それでも己をずっと探していたんだよ。探し疲れ諦めかけた頃、僕と出会ったんだよ。僕と出会い、互いを感じ合い、互いを知り合ううちにやっと己の生きる道を見つけることができたんだ、それがこれさ。君が蔑むこれさ。いいじゃないか、社会の底辺で這いつくばったって。そこで己を曝け出し、貧しいながらも一人で歩いていけるならそれで十分じゃないのか? 僕はそんな彼女を応援したい、支えていきたい。今みたいな裕福な生活は諦めるしかないけれど、澪には貧しい思いをさせてしまうけれど。でも僕はー」

 寝室ドアの細い隙間が大きく開かれ、澪がリビングに飛び出して大声で叫ぶ。
「ミオも!」

 彩は澪をキッと睨みつけ、
「あなたも言いたいことがあるのかしら」

「ミオも! パパといっしょにゆっきーとくらしたい。ゆっきーはほめてくれるよ。ミオをちゃんと見てくれるよ。ミオのはなしをちゃんときいてくれるよ。パパはずっとほめてくれる。ちゃんと見ててくれる。でもミオはホントは、ママにもほめてほしかった、ママにも見ててほしかった。ぎゅうってだきしめてほしかった。まい日いっしょにねてほしかった。お金なんかいらない。ぜいたくなんてどうでもいい。高きゅうレストランなんて行きたくない。それよりママのつくったハンバーグがたべたい。そしたらミオは言うよ、とってもおいしいって。ママありがとうって。ミオのために…ごはん、つくって、くれて…あり…がと…って…」

 号泣する澪を優しく抱きしめる。
 彩は僕らを見下ろし、貶すような、そして満足そうな顔で一言。

「あなた達。この家から、出ていきなさい。」
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