第5話 第7章

文字数 3,817文字

 離陸後、ベルトサインが消灯し、二人は早速空弁を攻め始める横で、僕は彩からの手紙の封を切るー

 このパンデミック前夜においてあなた方が健勝なのは幸いです。こちらも恙無く過ごしています。さて早々に退去してもらい助かりました。早速業者を選定し部屋の改装に入ります。高知県に新居を構えるとは想定外でした。さぞや田舎なことでしょう、健闘を祈ります。

「余計なお世話だっつーの。」
 つい独り言をこぼしてしまう。

 新しい門出を祝う代わりに、当面の生活費を多めに振り込んでおきます。新生活の門出の足しにすると良いでしょう。

「おお、これは助かる!」
 遥か上空から下界の彩に感謝の念を落下させる。

 これでようやく貴方と縁が切れると思うと安堵の念を禁じ得ません。はっきり言って私は貴方が大嫌いでした。

「…おい。今更、何なんだよ…」
 喧嘩売ってるのかよ。薄々わかっちゃあいたけれど、こうして活字にされると結構ズドンと来るものだ。

 初めてゼミの新歓コンパで貴方と話した時。こんな劣った人間が我がゼミに入ることが信じられませんでしたし、許せませんでした。挙動不審な仕草、意味不明の言動、全く覇気を感じさせない怠惰な風情。はっきり言って嫌悪感しか持てず、なのであのような言動をしたことは理解できるかと思います。

「できねえよ。全然理解不能だよ。何様だよ。全く」
 不意にあの日の彩が蘇ってくる。直視することを憚れるほどの圧倒的な美しさ。自信に満ちた物言い。そしてー僕の心を破壊させた罵倒の数々。本当に酷い女だったな、僕は苦笑いしてしまう。

 貴方が無断欠席を続けていることを知り、初めはなんと軟弱でひ弱な精神の持ち主だろうと蔑んでいましたが。欠席が二週間を超え、教務課から真田くんは家族も音信不通状態だと聞かされことの重大さに初めて気づきました。私の指導、進言のせいで精神的に病んでしまうとは。住所を教務課に聞き、貴方の実家に行って事態の深刻性に私はショックを受けたのです。このままでは貴方は藤村操になってしまうのでは? 強引に家に上げてもらい、貴方の部屋に入り机の上に巖頭之感が残されていないか気が狂ったように探しました。

「なんじゃ、巖頭之感? 誰じゃ藤村操?」
 全く。それにしても、どうして彩はそんなつまらぬ男にここまで… これは長年の謎であり、答えを知らぬままこうして機上の人となってしまったのだが。

 遺書らしきものはなく、数日おきに生存確認の連絡がきていると母親から知らされ、私は号泣しました。そしてその時気づいてしまったのです、そんなクソみたいな貴方に私が恋してしまっていたことに。

「…………」
 なにを… 言っているんだ… この女は…
 僕は頭が真っ白になる。彩が、僕に恋していた? 全くもって信じられないし、信じたくもない。これ程のハイスペックを誇る大学有数の美女が、どうしてこんなクソみたいな僕に…?

 貴方は否定するでしょうが。実は貴方は相当なイケメンでした、今でも、です。

「ば、ば、馬鹿じゃね!」
 思わず絶叫していた! 澪はお茶をこぼし、ゆっきーはカツを喉に詰まらせた。二人に心からの詫びを入れつつ、ゆっきーにこの一文を読んでもらう。

「うん。フツーにイケメンだよ。初めて会った時、カッケーって思ったよ」
 この人が言うと怪しくなるので澪に聞いてみると、
「だからユーマママがロックオンしたんだって。あと、みよせんせいでしょ、かおんママでしょ、しょうだいママ、コインランドリーのおばちゃんたち、あとそれからー」
 …取り敢えず、先を読み進めよう…

 それに、優しく愛に満ちた両親に育てられた結果の癒しに溢れたその性格。一見優柔不断にも見えるけれど、どんな傷を負っていても貴方のそばにいれば必ず癒される。そんな貴方への恋に、その時はっきりと気づいたのでした。なので貴方が無事に帰ってきた時、貴方を離すわけにはいかない。そう決意し、貴方と付き合い始めたのです。就職が決まり社会人になり、留学が決まった時。私は一人でボストンに行く勇気も自信もありませんでした。でも貴方と一緒なら行ける、貴方が側にいればM B Aも必ず取得できる。そう判断し、貴方をボストンに連れて行きました。結果は私の予想通り、上位の成績で無事に取得できたのです。余りに嬉しかったので、あの夜の過ちは気にもしていなかったのに。帰国後に妊娠が判明した時には目の前が真っ暗になりました。知っての通り、私は子供が大嫌いだからです。故に澪が生まれてからもどうしても澪を愛せませんでした。そして。それ以上に私は澪を許せなくなっていったのです。それは、貴方の愛を澪が一身に受けていたからです。

「…なんて、こった…」
 全身の血が引いていくのを感じる。目の前が暗くなってくる。慌てて窓の外の空の景色を眺める。肉親の憎悪。背筋が凍る思いである。

 同時に私は気づきました。親と子の愛の絆。この私が唯一持っていなく、恋い焦れつつも憎悪の対象でしかなかった、親子の愛。貴方と澪は私には眩しすぎました。同時に憎くて仕方ありませんでした。澪を愛する貴方を許せませんでした。貴方を愛する澪を激しく憎悪しました。どうすることもできずもがき苦しんだあの頃、私は例の青年実業家に出逢います。そして、私は救われたのです。ご承知の通り、彼も親の愛には恵まれず不幸な幼年時代を経て社会の成功者になりました。この人なら私の苦しみを分かってくれる、この人は私を決して苦しめない。そう気づき、私は貴方たちから離れる決心をしたのです。

「…なんて…こと… 」
 言葉にできなかった。全く知らなかった、彩の苦しみ、もがき、苦悩を…

 簡単なことだと思っていました、貴方と離れることは。私と士郎の関係が分かれば、貴方は私から消えていくと思っていました、でも貴方はそれを知りつつ離れていかなかった。全く気づかない素振りでこれまで通り私に接しました。私は泣きました。余りに辛く切なくて彼の胸で号泣しました。それから心を鬼にして、貴方に嫌われようとしました。家事を全て押し付ける。ダメでした。育児も全て放棄し帰宅を遅くする。それでもダメでした。約束のドタキャンを繰り返す。やっぱりダメでした。どんなに貴方に嫌われようとしても、貴方はその器の広さと心の優しさで私を許してしまうのです。万策尽きたかと思っていた頃、まさかの事態が起こりました、それは貴方が他の女性に興味を示したのです。信じられませんんでした、誠意が服着て歩いているような貴方が、他の女性それも既婚の女性に興味を示すとは。

「マジか…どうしてそれを…」
 知っていたのか? 気づいていたのか? それもまだ夏前に…

 私はその一筋の光に賭けることにします。貴方が更に彼女に惹かれるように仕向けます。同時に彼女の身辺を精査し、貴方にぴったりの女性と判断しました。それからは貴方と彼女が共にいる時間を長くするためにドタキャンを繰り返したりわざと時間を空けたりします。結果、私の狙い通り、二人の距離は一日毎に縮んでいったのです。あと一息、そう思った頃、彼女の才能に気付きました。イラストレーターとして大成するに値する能力を確認し、私の知り合いに頼み彼女の作品を取り上げてもらうよう話を進めました。結果はご覧の通り。少しジャンルは違う方に行ってしまいましたが、彼女はあっという間にカリスマイラストレーターにのし上がりました。準備は整いました、そしてあの夜。私は貴方に離縁を申し出ることができたのです。

「そ、そんな… まさか…」
 全てが? 彩の掌の上の出来事だったと言うのか? 確かにゆっきーとのことは全てがタイミング良すぎた感は否めない。それにこんなに簡単に商業化が進むとは思ってもみなかった。それが全て…
 背筋に冷たい汗が流れ落ちる。

 本当はあの家も貴方方に住んでもらうつもりでした。しかし新型ウイルスの発生により計画を修正し、早く東京近辺から去ってもらうことにしました。このウイルスは大変危険であり、都会にいたらその影響は計り知れないものとなるからです。あなた方の危険回避のためこちらで色々移住先を探している最中、あなた方が独自で移住先を見つけた時には驚きと喜びを同時に感じたものです。やはり貴方と彼女は、最高のカップルだと。

「……」
 言葉もない。ただただ、視線だけが彩の綴った文字を上下する。僕と澪は、どれほどの憎しみとそれに相対する愛を彩から受けていたのだろうか。

 そして今日。あなた方は旅立ちます。今後数年間、都会はウイルスの影響で危険かつ住みずらい環境となるでしょう。どうか新天地で澪を健やかに伸び伸びと育て上げてください。どうか、貴方の愛を十善に澪に注いでやってください。決して私のような人間に、澪を育てないでください。これは私からの最後のお願いです。

「うっ… うっ…」
 視界が急に滲んでくる。鼻水を啜る音が機内に響く。そんな僕をゆっきーはそっとしておいてくれる。

 もう二度と会うことはないでしょう。澪も私と会うことはないでしょう。私からの餞別は既述の通りです。そのお返しは、山と積んであるこのトイレットペーパー類でよしとしましょう。正直これは大いに助かりますので。

 手紙はここで終わっていた。最後の一文に涙ながらに吹き出してしまう。

 真田彩。旧姓、山本彩。この人間の偉大さを僕はまだ半分しか気づいてないのだろう…
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