第1話 第4章

文字数 4,128文字

 夏休み本番は主夫にとって残酷な日々である。朝、出勤の妻と娘に朝食の用意。妻を見送り即座に部屋、浴室、洗面所の掃除。汗まみれの服や寝具の洗濯後、家干し以外の物を携え娘とコインランドリー。
 気がつくと昼。娘に昼食を作りその片付け。外に遊びに行きたいとごねられ、区民プールを却下し近くの公園へ。熱中症対策の為一時間おきに十分休憩。作ってきた冷たい麦茶はすぐになくなり、三回目の休憩時には公園に隣接したカフェでアイスクリーム、僕はアイスカフェラテ。帰りに駅近のスーパーで買い物、帰宅後夕食の準備。
 五時過ぎに妻から「夕食は要らない」とのラインが来てメニューの変更。食後片付けを済ませてから娘を風呂に入れ、絵本を数冊読んでやり寝かし付けて時計を見ると九時半。

 自分の時間なぞ一秒も無かったので、やっとのことでスマホを開く。酒もタバコもやらない僕の息抜きはスマホゲームだ。そしてここ最近はゲームそのものだけでなく、『ゆっきーさん』とのやり取りが何よりの生き甲斐となっている。
 毎晩互いの一日を愚痴り合う。どうして今年の夏はこんなに暑いのか。どうして野菜の値段がこんなに高いのか。どうして旦那(女房)はこんなに遅いのか。どうしてはぐれメタルがこんなにも出ないのか。

 七月の終わり頃。明日から澪が幼稚園のお泊まり遠足で、二泊三日で伊豆高原に行くので、その準備について愚痴ると、
『なら明日コインランドリーで一緒に心の洗濯しなくては!』
『この薄汚れた心をきれいに! いいね、十一時頃でいいかな?』
『おけ。それまでにレベル上げとけー』
『ムーリー、これから準備して弁当の下拵えをしなければならない…』

 そんなやり取りを終え、明日の澪の弁当の準備を終える頃に、日付は明日になる。玄関のドアが開く音がし、しばらくして妻の彩がダイニングに酔い覚めした白い能面のような顔で入ってくる。
「おかえり。澪のお泊まり遠足、今日からだよ」
「そう。ねえ、冷たいお水ちょうだい」
 コップに冷蔵庫の冷たいお水を注ぎ、彩に渡すとそれを一気に飲み干し、
「明日(今日)の夜、この間接待で使ったフレンチに行くわよ。六時に予約しておいたから。」
 フレンチか… あまり好きではない、気取って食べるのは緊張するからだ。
「うん、わかった。場所は?」
「恵比寿。後で場所送るから。」
 そう言うと寝室に入って行く。そして風呂にも入らず寝てしまったようだ。

「じゃあね、行ってくるよ。ママとのデート、がんばってねー」
 澪が意地悪な笑顔で僕に向かって笑顔を送る。僕はバスに乗り込む澪に手を振り、どうぞ三日間何事もありませんようにと、十二の必殺の特技のうちの『心祈』を繰り出す。
「真田さん、緊急時の連絡なんですが、お母さんの携帯よりも…?」
 ああ、そうだった。入園時の緊急連絡先が彩の携帯番号だったので、今もそのままになっていたのだ。
「えっと、僕の、携帯番号で、お願いしましゅ」
 ちょっと噛んでしまう。先生との会話は園ママよりも遥かに緊張してしまう。僕が先生に番号を告げると、ちょっとかけてみますねと自分のスマホで僕の番号をプッシュする。
 僕のスマホが鳴動し、見知らぬ番号が表記されている。
「それ、保存しておいてくださいね。これからも何かあればお父さんに連絡しますので。」
 頷きながら、受信履歴から住所録に新規登録する。えっと、美代先生の苗字は田中、っと。そう言えば妻以外の女性の連絡先は美代先生が初めてだ。いつもジャージ姿なのと僕の苦手な『先生』なので、正直一度も女性として見たことはなかったが。今日はいつものジャージではなく、白いポロシャツに細身のジーンズ、白のスニーカーだ。あれ知らなかった、美代先生ってこんなに細い人だったんだ。悪くないな、微かにキュンとしながら、澪と美代先生のバスを両手を振りながら見送るのであった。
 集まっていたママ達が三々五々に散っていく。そんな中、一人のお母さんが僕の所にそっと歩いてくる。

「真田、さん。あの、関口です、関口優馬の母です」
 振り返ると、これまた美代先生にも負けず劣らずスレンダーな髪の長いママさんが、すまなさそうに佇んでいる。
「あ、えっと、この間はうちの澪が、乱暴して、申し訳ありません、でした」
 途切れ途切れでなんとか言い切る。手汗がすごいことになっている。
「そのことなんですが。ウチの優馬が先に澪ちゃんのお尻を触ったらしく… 本当に申し訳ありませんでした」
 長い髪が地面に着いちゃうって! 程に頭を下げられてしまう。
「澪ちゃんが怒るのは当然ですよね、大事な娘さんのお尻を… なんとお詫びしたらよいか…」
「全然、気にしないで、くださ、い。ね」
 僕は二、三度頭を下げ、その場を逃げ出すように立ち去る。無理無理。あんな綺麗なママさんとあれ以上会話するんなんて。
 マンションに着きエレベーターに乗ると、脇がぐっしょり濡れて気持ち悪かった。

 クーラーをつけっぱなしにして出てきた部屋に戻ると、その涼しさに心底ホッとする。朝から気が動転することが二件も発生し、動悸が止まらない。汗が引いた所で家事に取り掛かっているうちにようやく緊張が収まってくる。
 美代先生って、小柄で細くてよく見ると可愛らしかったな。顔も小さくてなんかゆっきーにちょっと雰囲気似ていたな。
 優馬ママさんは噂では超いい所のお嬢様だとか。良家出のスレンダー美女って、神様はどれだけ彼女に与えてんの! 不公平だろ! と叫びたくなるほどだ。

 掃除をしながらふとリビングの窓を見ると、目尻が垂れ涎を垂らしそうな僕の間抜け顔が写っている、恥ずかしい。
 ちょっと気分良く掃除をし、洗濯に取り掛かる前にチラリとスマホを見ると、彩からメッセージが着信している。
『今夜の住所です。遅刻は絶対に禁じます。ドレスコードに注意しなさい。』
 僕は大きな溜息を吐き、ブルーな気分となってしまう。嫌だな、面倒臭いな。着ていく服を考えるのが憂鬱だな。脂っこい料理、本当に勘弁なんだよなあ…
 イヤイヤ病を発症しつつも家事をこなし、ふと時計を見ると十一時を過ぎている。スマホを見ると、ゆっきーが『家を出ましたよー』とメッセージを送ってきたので、慌てて洗濯物をバッグに詰め、コインランドリーへと向かう。
 空はどんよりと曇り、いつ雨が降り出してもおかしくないのだが、スマホで調べると夕方までは雨雲がかかることは無さそうである。ただその蒸し暑さだけが僕の心を湿らせ重くする。

 店に入ると、たっくんママさんが独りスマホを弄っている。目が合ったので黙礼して通り過ぎようとすると、
「今日からお泊まり遠足なんですよね、ウチのは来年なんですけど、準備とかやっぱり大変でしたか?」
 夏休みに入り店でヘッドフォンをしなくなっていたのが不幸だった。軽く溜息をつきながら適当に答えると、それからダラダラと会話が続いてしまう。
 洗濯機に服とバスタオルを放り込みカードを滑らせパネルをタッチし、たっくんママさんからなるべく離れたテーブルに陣取りスマホを開く。
 ゆっきーが居なくて良かった。ホッとする一方で時計を見ると十一時半、店には未だ僕とたっくんママさんしか居ない。何か用事でもできたのだろうか。
 たっくんママさんは洗濯を終え、その巨体を揺るがしながら軽く会釈をして店を出て行く。その直後、ほぼ擦れ違う感じでゆっきーが入ってくる。

「どーも」
「どーも」
 そう言えば会うのはあの時以来で、直接話すのもあれ以来だ。ほぼ毎日ゲーム内で会話はしているのだが、こうして面と向かうと中々言葉が出てこない。彼女も同様でその挙動は相当不審だ、人のことは言えないが…
「雨、大丈夫、かな?」
「夕方までは、多分。」
 …全く話が弾まない。彼女はパネルをタッチして洗濯を開始すると、僕の隣の隣のテーブルに着き、徐にスマホを操作し始める。
 僕もこれ以上話を続ける自信が無く、スマホを開く。そしてゲームを開く。

『なんか、私達変だよねww 会話チョー続かねー(爆笑)』
『それなー。なんかリアルだと結構キツイわー。それよか、ゆっきー用事でもあったの? 遅かったじゃん』
『それがさー、時間通りに来てたんだけど、よく居るデブが居座っててー 入れんかったww』
『あれな! 娘の園の後輩のママさんなのよ。俺に話しかけて来るウザい奴。思わず「ラリホー」唱えたくなったわ』
『それ「ザキ」の間違えじゃなくて? ww』
『うわ… ゆっきー、酷え… 仲間タヒっても中々教会行かないタイプっしょ? 草』
 隣からリアルな笑い声が聞こえて来る。

「ちゃんと行くし。即行くし。」
「ホント? でも世界樹の葉っぱ、ケチるでしょ?」
 ゆっきーは吹き出しながら、
「え… なんで知ってんの?」
「実はさ、俺も中々使わないし。そんで溜まる一方―」
 突然たっくんママさんが入って来る。僕たちは絶句し硬直する。ママさんは僕たちを交互に見やり絶句する。僕は口を開けたまま会釈する。ゆっきーさんは澄まし顔でスマホを弄りだす。
「えっと… 忘れ物しちゃって… どこかな… あー、あったあった、良かったー。それじゃ澪ちゃんパパ、さよなら…」
 引き攣った笑顔で僕に挨拶し店を出て行く。何度も振り返りながらー
『やべ。話聞かれてたか? みおちゃんパパさん ww』
『ゆっきーがデブなんて言うから戻って来ちゃったよーって、その呼び方、草』
『ザオリク唱えたっけ? ww』
『パルプンテやろ 草』
 顔を上げると目が合い、僕らは爆笑する。

 互いの洗濯が終わり時計を見ると十二時半過ぎである。僕は昼食を食べない派なので、これから家に戻りアニメでも観ようかなんて考えていると、
「ランチ、食べない派なんだよね…」
 僕は驚いて
「え、なんで知ってるの?」
 彼女はうつむきながら
「こないだメールで言ってたー」
「そっか、書いたかー」
「あの、さ…」
「な…に?」
 重度のコミュ障に陥る僕達。
「午後は… 何するの?」
 僕は脇汗を感じながら、絞り出すように呟く
「家で、アニメ、観たりとか…」
「そっか。」
「うん。」
「じゃ、また、ね…」
「うん、また、ね…」

 彼女が出て行った後、額からの汗を拭いながら深い溜息をついてしまう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み