第1話 第2章 

文字数 4,659文字

 長年専業主夫をやっていると、季節の変わり目に敏感になる。今年の梅雨は例年よりも大分早い。気象庁は頑なに否定しているが、僕の中では既に梅雨入りである。
 先月の予言通り、この数日毎日件のコインランドリー通いである。この辺りが区内有数の高級住宅地であるせいか、僕と同様に毎日ここにやって来る金銭的余裕のある主婦が何人もいる。
 洗濯から乾燥まで全自動で一回1200円。まず学生さんには手が出まい。独身のサラリーマンでもこれが週三回だとひと月のスマホ代より高くなるので遠慮するだろう。
 故にここを利用する客層と言えば、年収合算で1500万以上の世帯なのではないかな。僕は仕事をしていない、専業主夫。妻の年収が軽く2000万を超えているので、正直この店を贔屓にしていても経済的に何の苦しみもない。
 僕はこのコミュ力の弱さ故、彼女達と会話する事は全くないので予想に過ぎないのだが、彼女達の家庭も相当な稼ぎがあるのだろう。

 そんな中でも僕以外でこの店の皆勤賞が三人いる。

 一人目は以前僕を見てクスクス笑い合っていたうちの一人で、信じられない事に毎日違う服で現れる『クスクス』さん。今日はアバクロの長ティーにスリムジーンズ。スタイルが良いだけにもうちょっと目と目が近ければ主婦の雑誌に登場しそうな雰囲気だ。
 本人もそれを自覚しているのだろうか、この眼の微妙な距離感をカバーすべく化粧に相当お金をかけている模様。特に眼から下の努力には頭が下がる。なのでクスクスさんを見るときはなるべく鼻の辺りを意識して眺める様にしている。

 二人目は先月末くらいからの常連となったやや年配の感じの人。クスクスさんと違い、三日おきに服をローテーションさせている『ローテ』さん。即ち月曜と木曜、火曜と金曜、水曜と土曜が同じ服であり、ローテさんを見れば今日が何曜日なのか確率二分の一で分かる中々便利な人だ。残念ながら日曜日に彼女を見かける事はない。
 本人はその見た目の歳を下げるべく相当な努力をしている様だが結果が伴わず、寧ろ実年齢より老けて見えてしまうという負のスパイラルに陥っている事に気付いていないのが痛い。

 三人目は娘の幼稚園と同じママさん。娘のいっこ下のたっくんのお母さん、『たっくんママ』さんだ。顔立ちは中々素敵で芸能人に間違われそうな感じなのだが、残念ながら「大きい」。体重は下手したら僕と同じくらいかも知れない。
 僕の好みが細身のスレンダーなのでとても残念なのだが、太めが好きな男性なら一目惚れ間違いなし。そんなたっくんママさんは今日もその立派なヒップをひらひらワンピースで誤魔化し、楽しそうに会話している。

 この三人以外にも二日おき、三日おきに訪れる人は多々おり、また二十四時間営業なので僕の与り知らぬ時間帯に常連となっている人も多いだろう。
 だがどれだけ多くの人と時間を共にしようが、僕と知り合いになる事はあるまい。何故なら僕がそれを望んでいるから。
 この洗濯、乾燥を待つ小一時間は、僕が家以外で唯一息抜きのできる実に貴重な時間なのだ。僕は真性の引き篭もりではない。外に出るのが怖いとか通りすがりの人々の視線が痛い、という訳ではない。
 むしろ一人で公園を散歩したり店をチラチラ覗いたりするのが好きだ。これまではそれは夕方の買い物の時間が一人外出の楽しみだったが、このランドリーに通うようになり、昼と夕方の二つの息抜きができるようになり、僕の精神衛生は格段に向上しているのだ。
 一人での外出。これなければ、家事育児そして妻のストレスに押し潰され、全裸の上にコートを羽織り街を徘徊しちゃうかも知れない。
 それ程、ここでの一人洗濯を待つ時間というのが僕の生き甲斐となっているのだ。この二ヶ月ほど、僕的に本当に幸せな昼間を過ごしてきた、昼顔なんて目じゃない程に。

 それが、まさかこんなにも早く崩されるとは思いもよらなかった……

 しとしと雨が街を濡らし空気が体中にまとわりついて気持ちが悪い、そんなある日。大いに足元を濡らしながらいつもの時間に店に入ると、珍しく乾燥機がフル稼働だった。残り時間が一番少ない乾燥機に目星を付け、仕方なくその近くのテーブルでスマホゲームを始める。
 クスクスさん、たっくんママさんがお喋りに夢中になっている所へローテさんが遅れて店に入って来る。ああ、今日は木曜日か。毎週毎週どうもありがとうございます。心の中で手を合わせると、僕が狙っている乾燥機がその仕事を終える。
 僕は立ち上がり、軽く店内を見回すがこの洗濯物の主はいない様子。仕方なく座り直し、主が戻ってきて回収するのを待つ。スマホゲームの主人公のレベルが、待っている間に上がってしまった。早く戻ってきてくれないかな、僕はゲームを一時停止して濡れた街を窓越しに眺める。
 流石にそれを取り込んであげたりする程僕は善人でないし、そんなことをしたら逆に翌日から出入り禁になりそうなので自重する。助け合い精神の通じない世知辛い街にホッとしたりする。

 十五分くらい経ったであろうか。初めて見かける主婦風の若い女性が、傘を閉じながら店内に入って来る。随分と小柄な感じでちゃんと栄養摂っている? 位に細い。顔も小さく目が垂れている。垂れ目でスレンダー。申し分無し。僕に備わっている十二の必殺の特技のうちの『心眼』で彼女をガン見する。
 その彼女が僕の狙っている乾燥機に近付くと、仕上がった洗濯物をイケアの青い袋に荒っぽく放り入れ、あっという間に去っていく。
 三人組が顔を寄せ合って何かささやき合い、プッと吹き出している。今日ばかりは僕もその中に入りたい気持ちをグッと抑え、その乾燥機に近付き我が家の洗濯物を入れようと……

 そこには赤いショーツが取り残されていた。

 こんな場合。
一 拾い上げて忘れ物箱に入れておく
 今のこの状況では最悪手だ。きっと三人は目を丸くして僕の行為をガン見し、僕が立ち去った後、話を五割盛りくらいで語り合うだろう。何ならたっくんママさん経由で、幼稚園中に拡散されるかもしれない。それは大袈裟だが、少なくともクスクスさんをゲラゲラさんに改名しなくてはならなくなるだろう。
二 三人に声を掛けて忘れ物を回収して貰う 
 そんな事ができるなら、今僕はここでこんなことをしていないだろう。それ位のコミュ力があるなら、もっと違う人生を送っているに違いない。平日昼間に、妻と娘の汚れ物がクルクル回っているのをボーッと眺めている様な人生は送ってはいまい。状況的には最も『案件』にならずに済みそうな洗濯肢なのだが、僕が生まれ変わらない限り選べそうもない選択肢なので却下。
三 このまま気づかないフリをして僕の洗濯物と共に乾燥機を回してしまい、乾燥が終えた時点で 状況を確認し適切に行動する 

 うん、今はこれが最適解かな。

 僕は横目で三人を見つつ、しれっと家で洗ってきたバスタオルやキッチンマットなどの自分の洗濯物を放り込み、カードを挿入して四十分乾燥のパネルをタッチする。乾燥機は合点、と云いながら回転し始める。

 テーブルに戻りアイスコーヒーを一口啜りつつ状況を再確認する。あと四十分後に乾燥を終えた時、この三羽のお喋り雀が立ち去っていたら、あの忘れ物箱にそっと入れておけばよい。だがもし一羽でも残っていたらどうしよう…
 今日は持ち帰って後日渡すのも一つの手である。だが彼女は今日初めて見たので、後日再会できる確証はどこにもない。一見主婦の様だったが、普段は夕方ここを利用しているのかも知れない、そうすると彼女とは二度と会う事は無いであろう。万が一再会できたとして、「このショーツこの間忘れていましたよ」と渡せるのか僕?
 それにショーツを持ち帰ったとして、億が一妻に見つかったらどうなるであろう。恐らくあの冷たい目で僕を見下しつつ、それは何、と呟くだろう。そして翌日の朝、スーツケースを転がしながら会社へ行き二度と帰ってこないであろう。銀行のキャッシュカードとクレジットカードは即日使えなくなり、僕と娘は路頭に迷うだろう。

 最近妻の下着の趣味が変わり、黒や赤が増えてきてはいるのだが、サイズ的にこの下着とは合わないし、形状もだいぶ異なっている。今目の前でクルクル回っているショーツは僕が未だかつて見た事のない紐状のモノなのだ。あ、でも似た造りの下着は最近の妻のお気に入りで、洗う時にはネットに入れて傷まないように注意しているなあ。
 さておき。となると残雀時の最善手はやはり「放置」であろう。僕の次の使用者に、問題を丸投げさせていただくとしよう。少なくともこの店には女性の下着を収集するのが趣味、という輩はいない気がするし。

 そこまで考えて、あの主婦っぽい女性と今クルクル回っている赤いショーツの関連性に思い至る。あの細い腰を、小さなヒップを包んでいた化繊の布切れ…
 あ。まずいじゃん、やばいじゃん…
 化繊ならこの四十分の乾燥時間で、その存在に相当なダメージを与える筈だ。簡単に言えば、「縮む」であろう。何なら「溶ける」まであるかも知れない!
 モノは大切に扱いなさいと祖母に躾けられた僕は慌てて立ち上がり、乾燥機の一時停止パネルをタッチする。気持ちよく回っていた乾燥機は「んだよ、ザケンナよ」と言いながら回転を止め始める。
 完全停止してからドアを開け、赤い物体を探す、というか探る。それは直ぐにバスタオルの間から発見され、取り出してみると何とか縮小には至らなかった事が確認される。ホッとしてそのショーツを握り締めたまま扉を閉め、再起動パネルをタッチする。

 痛い視線を数本感じる。横目で伺うと三匹の豚が呆然とした顔で僕を直視している。状況の変化だ。今どうする事が最適なのか? 迷う事なく僕はその赤いショーツをフックに掛けていた僕のランドリーバッグにそっと落とし、何事もなかったかのように席に戻り、ノーパソを眺める。
 その後豚どものブーブー煩い事。こちらに聞こえないように話しているつもりなのだろうが、「赤いー」とか「奥さんのー」とか「いや、御主人のー」とか…
 うるさいな。僕の妻が赤いの履いちゃダメなのか? 僕が赤パン履いたら通報するのか? よっぽど暇な豚どもめ、悔しかったら履いてみろ赤いショーツ。絶対ダンナは気味悪がるからな。因みに僕は妻の下着姿をこの数年見た事がない。ちょっと想像してみて…… 溜息が出た。

 その刹那。垂れ目ちゃんが慌てて店に飛び込んでくる。息を弾ませながら僕が使っている乾燥機を一瞥し、目が見開かれる。その目が絶望の色を帯び始め、そして視線を僕に移す。
 僕は努めて冷静に立ち上がり、フックに掛けていたランドリーバッグを彼女に開けてみせる。彼女は中を覗くと、蒼ざめた顔が瞬時にショーツと同じ程の真赤に変わり、僕を見上げる。
 僕は頷き彼女にバッグを差し出す。彼女は何度も何度も「すみません」を繰り返し、赤いショーツを拾い上げる。屈んだ時に薄い胸元がチラリと見える。気づかれないようにゴクリと唾を飲み込む。
 彼女は拾い上げたショーツを手提げに放り込み、僕にバッタの如く何度も頭を下げ店を去っていった。

 まるで何事も無かったかのように僕は席に戻りノーパソを開く。キーをタッチする指が震えている。三人のセレ豚はしばし茫然とした後、わざとらしく夏休みの予定なんかの話題を話し始める。乾燥が終わるまで僕の指の震えは治まることはなかった。

 この店に通い始めて、最大の事故であった。
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