第1話 第3章

文字数 3,082文字

 そのうち僕は、コードレスイヤホンを耳にはめ店に行くようになった。何故ならあの後、主にたっくんママさんが僕に話しかけるようになったからだ。夏休みは何処かへ行くの、今夜のおかずは何にするの、澪ちゃんを何時に迎えに行くの、などなど……
 黙れよ。ほっとけよ。話しかけるなよ。と言えない僕は、伏し目がちでボソボソと対応する。そして洗濯物の乾燥が上がると即取り出し、軽く頭を下げ店を後にする。
 行く時間を今後変えようかと真剣に悩んだのだが、僕の生活リズムは簡単に変えることはできず、それならなるべく彼女達に話しかけられないように防御力を上げよう、そう思ったのだ。
 それから店に入るときに彼女達の誰かがいたら、僕は軽く黙礼するようになった。しんどい。そして容易に話しかけられないように、今まで以上にノーパソとスマホゲームに集中する素振りをするようになった。しんどい。それでも何かと話しかけてこようとするので、いつからか寝たふりをするようになった。しんどい。

 僕の大切な一人の時間が狭霧山での修行の如し、と思いはじめてからひと月が過ぎ、梅雨は明け夏休みに入る。澪の通うやえざくら幼稚園は、夏休みもプールやら夏祭りやらと何かとイベントが多く、長期間田舎に帰ったり海外に逃げる事もままならない。
 基本子供が家に居るので、自然と主婦や主夫の単独の外出は減り、それに従い自分一人の時間は激減する。撮り溜めたアニメも中々観れず、スマホゲームの主人公のレベルもちっとも上がらない。
 それでも僕はコインランドリーには澪を連れて行き、待ちの間に一緒に漫画を読んだりノーパソで動画を観たりしている。
 それまで僕の秘密の部屋、変な石ころはないけれど、だったこの店に澪といると、それはそれでこうして中々楽しい。

 三人組が揃うことはめっきりと減り、一人も来ない日も増えてきた七月の終わり。何の前触れもなく垂れ目ちゃんが店に入ってくる。
 彼女は僕に気付くとハッとした顔をして、慌てて頭を下げる。
 僕も硬い笑みを浮かべ軽く頭を下げる。
 髪をショートに切りそれが実によく似合っている。短パンから細くて綺麗な長い脚が僕の目を惹きつけてやまない。
 彼女が青いバッグから洗濯物を全自動機に放り込み、カードを入れてパネルをタッチする。バッグをフックに掛けて僕達の隣のテーブルに座る。手提げからスマホを取り出し、指を滑らせ始める。
 動画に集中している娘を気遣うフリをして、彼女を全集中で観察する。ショートヘアから出ている形の良い耳。うっすらと産毛に覆われた柔らかそうな頬。二重に垂れながらも美しい流線型を描いている両眼。ツンと尖った鼻。同じくツンと尖った顎……

 決して万人受けする美人ではない。一般的評価は中の上、と言ったところだろう。だが僕にとってはストライクゾーンのど真ん中。僕の自慢のシュートがど真ん中に入り御幸にライトスタンドに運ばれた気分だ。涎が出ていないか心配になり口に手をやるとー
「お嬢さん、幼稚園、ですか?」
 スマホを弄りながら彼女が不意に声をかけてきた。想定外の出来事に僕は一瞬息が止まる。ひょっとしたら心拍も停止したかも知れない。
「え、ええ」
 僕は声にならない声で呟く。
「ね、年長なのです。」
 彼女も負けじと小さな声で、
「いいですね、ウチは… その、子供居なくて…」
「ええ、まあ、娘は良いです。」
「……」
「……」

 天使が通り過ぎる。それも行列で通り過ぎて行く。彼女も相当コミュ力が低そうである。申し訳なさそうに彼女はスマホを弄りだす。僕もホッとしながら娘の観る動画を覗き込む。

 ああ、びっくりした。まさか急に彼女が話しかけてくるとは。あれ程コミュ力弱そうなのに必死で頑張って僕に何とかやっと声をかけたに違いない。
 何故声をかけてきたか、そんな理由を思い浮かべる余裕は僕にはなく、あとはひたすら二度と話しかけてきませんように、と思いつく限りの神様に祈っていた。
 十分以上過ぎただろうか。もう、大丈夫だろう。もう今後二度と彼女が話しかけてくることも、彼女と会話をすることも無いだろう、そう確信したとき。

「っとおー、はぐれ、キター」
 スマホを弄りながら、垂れ目さんが目を輝かし呟くのを聞き逃さなかった。
 思わず、彼女を見た。
 そして目が合った。
 少年、いや少女の目だった。
 
 思わず僕は、
「はぐれ、こんな場所に?」
「ですよね、初めてですよ出てきたの!」
「僕のにも、出てくるかなっ?」
 僕もスマホを取り出し、彼女と同じゲームのアプリを立ち上げる。
「えー、やってるんですかあ?」
「やってますよお。そっちレベル幾つ?」
「45かなー。でも全然進まない最近―」
「凄いじゃん、僕まだ43だよ。『盗賊』入れてる?」
「レベル20まで上げて元に戻したよー、スキルはちゃんとゲットしてー」
「きようさプラス、なー」
「それなー」

 動画に見入っている娘を放置し、それからずっとゲームの話に盛り上がる。不意に彼女が
「あの、おかしいですよね、こんなおばさんがゲームに夢中って…」
 僕は首を振りながら
「僕もさ、妻から子供じゃないのだから、いい加減にしなよって言われてて。でもやめられないんだよなー」
「ですよねえ、私もダンナに内緒なんですよー バレないように一切課金してませんけど。って、課金するようじゃダメですけどね」
「だよね! 課金はダメ、絶対!」
 二人で吹き出す。笑うと更に目が垂れて、僕は胸がキュンキュンしてしまう。
「そうだあ、名産品集めってしてます?」
「いや。僕引きこもり専業主夫なもんで、他人と関わるの苦手なので…」
「何それ、おもろ過ぎ。ちなみにID何さんですか?」
「勿論、『ヒッキー』ですよ」
「えーと、あーー、有った有った。ともだち登録しちゃおっと。で、」
「えーと。『ゆっきー』さんね。よろしくねって、僕、実は初めての友だち登録かも。」
「マジですか? どんだけ引き篭もり? ウケるー」
 彼女はケラケラ笑う。澪がさすがに何事かとこちらをチラリと眺める。

 瞬く間に時は過ぎ、僕らの洗濯は完全に終了していた。僕らはずっと色々なゲームの話題を話し込みながら洗濯物を取り出して畳み、必要ないのにシワを伸ばし、ついていない埃を払い…あとは店を去るだけとなる。
「今日は取り忘れ、無い?」
「あーーー、もーー 忘れてたのにー 恥ずかしいーー」
 その困ったような笑顔に僕も顔が綻んでしまう。そして何故だか心臓の鼓動がいつもの倍以上になる。
「そんじゃ、またー」
「はーい。またー」
 彼女が何度も僕に手を振りながら店を出た後、動画に夢中の澪の尻を叩き、僕らも店を出る。どうやら彼女の家は僕の家と反対方向の駅の方らしい。傘をさした後ろ姿がやがて蕭々と降る雨に消えていく。
「で。あの人はだれなの?」
 ギョッとして澪を見下ろす、そして澪の悪戯っ子のキラキラした目を見て確信する。こいつ動画見てるフリしてずっと聞いていたな。
 彼女との経緯を包み隠さず話すと、
「パパがあんなにたのしそうに人とおはなししているの、はじめてみた! なかよくなれるといいね」
 娘に道ならぬ恋路を応援されようとは…

 帰宅すると尻ポケットのスマホが震える。ゲームアプリを開くと『ゆっきーさんからのメッセージを受信しました』とある。
 心臓が口から出そうになる。指の先が汗で濡れている。何度もシャツで拭くのだがそのシャツも濡れていて用を成さない。本気で澪に読んでもらおうかと思ったが、ギリギリの所で踏みとどまり、一時間後に勇気のバッチを握りしめ黄金の鶴嘴を振るい、ようやく開封したのだった。
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