第2話 第4章

文字数 2,690文字

 帰宅すれど、彩は未だ帰らず。ホッとしつつも大きな溜息が一つ。
 滅多に着ないシャツを洗濯機の奥に放り込み、その上にバスタオルを置く。夕方からかきまくった汗をシャワーで洗い流す、体に付着した高村家の匂いも全力で洗い流す。

 寝巻きに着替え、冷たい麦茶を飲んでいると玄関先でドアの開く音がする。
「全く、急にミーティングなんか入るから。明日に変更しておいたわ。時間は同じく6時。絶対に遅刻は駄目よ、いい?」
 ほんのりと赤い顔の彩が僕の飲んでいた冷たい麦茶を奪い取り、一気に喉に流し込む。一瞬アルコール臭を感じるが、僕はニッコリと笑い、
「分かった。明日は楽しみにしているよ」
 彩はキッと僕を睨み、何も言わずにバスルームへと向かう。
 今日一番の大きな溜息を吐き、何となくスマホを眺める。

 翌日、全ての家事を10時半までに終わらせる。一息つきながらスマホを見るとメッセージが着信している。
『おはようございます。澪ちゃんは今朝も一番に起き出して皆を起こしてくれました。とても助かっていますよ』
 朝からどれだけハイテンションなのだろう、我が娘よ… その様子を思い浮かべながら、先生に返信を認める。
『おはようございます。澪が元気そうでよかったです』
 伊豆高原は行ったことがない、どんな所なのだろう。そう思った瞬間、
『これが宿舎の周りの様子です。皆園にいる時よりも生き生きとして楽しそうです。この写真を送ったことは他の保護者の方には内緒にしてくださいね(絵文字)』
 送られた写真をしばらく眺める。自然溢れた中々素敵な場所である。こんな所に家族で行けたらさぞや澪は喜ぶだろう…か?
 僕は頭を振り、返事を書く。
『素敵な所ですね。保護者の件は承知しました、絶対に口外致しませんのでご安心くださいませ』
 すぐに返事が来て、
『空気もおいしくて本当に良い所ですよ。いつか澪ちゃんと一緒に行きたいですね!(絵文字)』

 ん? 先生は文章を間違えているぞ。この文脈では先生と僕と澪が行くことになってしまう。非日常にいるので、つい間違えてしまったのだろう。これがゆっきーなら遠慮なく突っ込む所だが、そんな失礼をしてはならない。僕は丁寧に、
『それはとても嬉しいですね。ありがとうございます』
 うん。無難な返答だ。これなら先生も間違いに気づくことなく午後を過ごせることだろう。
 ふと時計を見ると、11時を過ぎている!
 慌ててその辺のポロシャツを被り、ジーンズと白のソックスを履き。スマホを引っ掴んで家を出る。百メートルほど行き、ランドリーバッグを忘れたのに気づき、ダッシュで家に戻る。再び家を出る頃には、全身から汗が噴き出ていた。

 11時20分に全身滝汗でコインランドリーに行くと、今日はローテさん…あれ…今日って何曜日だ? 彼女は夏休みに入り毎日来ないから、服のローテーションがわからんくなった…
 僕の顔を見ると、曖昧な笑顔で会釈される。僕はニッコリと笑いながら、
「ご無沙汰しています。お久しぶりですね。どちらか海外にでも行かれてたのですか?」
 その瞬間の彼女の顔。目を極限まで大きく見開いた為、その余波で額の皺が実年齢以上のものとなっている。口を限界まで開けてしまった故その奥に銀歯を認める。今時銀歯…

 ん? ちょっと待て僕。何普通に彼女と会話しているのだろう。

 考え始めた矢先に、ゆっきーが店に入ってくる。
「こんにちは。遅いぞーって、僕も今来たところなのだ」
「うふ、こんにちは。ごめーん」
 この刹那のやり取りを目の当たりにし、ローテさんの顔は更に驚愕の表情を見せる。しばらく僕とゆっきーのやりとりを呆然と見ていたのだが、徐に
「そ、そうなの。ちょっとハワイに家族で行っていたのよ」
 ゆっきーが羨ましげに、
「ワイハー、いいなあー。行ったことないなあ」
「そ、そうなの? 日本語通じるし、とても良いところよお」

 それから僕ら三人は、この夏は嘗てない程の酷暑だのゲリラ豪雨がヤバいだの、どうでもいい事をペチャクチャ話し始めたのであった!
 途中ローテさんが「あなたたち夫婦?」なんて言うから「良く天然物って言われません?」と言い返すと五秒間を置いた後大爆笑したりして、すかさずゆっきーが小声で「ルカニッ」なんて唱えたりしたら、ローテさんは超ご機嫌でこの辺りのランチの美味しい店とか教えてくれて。
 ゆっきーは超真剣な顔でそれを聞き、スマホでチェック入れて
「今度絶対行きますね。バシルーラ!」
 と言うとローテさんは満足げに頷きながら、
「あ、そろそろ行かなくちゃ。またねー」
 と言って店をピョンと出て行き、僕はこれ以上立っていられない程笑うのであった。

「初めてあのおばさんと話さんだけどさ。中々親切で良い人だったわ」
 僕がローテさんの背中を念力で押しながら言うと、
「ねー。色々知ってて為になったわー。ここのイタリアンさ、絶対行こうよ。」
 あれ?
 そう言えば、ゆっきーも普通に喋っていたぞ。割と楽しそうに… え?
「そーなの。不思議。自分でもびっくり。これって、多分さ、」
「多分?」
「ヒッキーと一緒だからだと、思う」
 そう言うと照れ臭そうにそっぽを向く。かわゆい。

 洗濯が終わり、ランドリーバッグを担ぎながら駅前のスーパーに向かう。日差しは残酷な位に僕らを焼き尽くすのだが、不思議と暑さは感じない。歩きながらも会話は途切れることなく、残酷な天使が通り過ぎることも使徒の襲来も、ない。
 ネルフならぬセレブ御用達のスーパーでナポリタンの食材をあれこれ協議し、三十分後に合意に至る。昨夜ご馳走になったので食材費は僕が出したが、ちゃっかりスーパーのポイントはゆっきーがかすめ取っていった。
 片手にランドリーバッグ、片手にスーパーの袋。そう言えば僕は妻と二人でこうしてスーパーで買い物をした記憶が無い。ボストン在住時でさえ、買い物は常に僕一人であった。

 不意にゆっきーが、
「ねえヒッキー。私、喋れたね?」
「ああ、ローテさんと、な。うん。喋ったな。」
「…何、ローテさんって… でも不思議。ヒッキーと一緒なら、何でもできるし、何処へでも行けるかも!」
「大丈夫。俺がいる。安心しろ『ゆきのん』。」
 突然彼女は立ち止まる。唐突に氷の女になり、短い髪を払う素振りを見せながら、
「その『ゆきのん』ってやめてもらえるかしら」
 このノリ。それもちょっとオタク系なノリの良さ。僕は発作的に『ゆきのん』に抱きついていた。駅前の人通りも多い中で。
「ちょっと、ヒッキー、キモい、ウザい、あと、えーと、超キモい!」

 一人の女性をこんなにも愛おしく感じたのは、これが初めてだった。
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