第4話 第1章

文字数 3,733文字

 長かった夏休みが終わりを告げ、幼稚園の新学期が始まる。

 ずっと澪と毎日を共にしてきたので、澪のいない生活に心にポッカリと穴が… とは相ならなかったのは。そう。ゆっきーと二人の時間が増したからなのだ。
 僕らは毎日、コインランドリーで会い、お喋りをし、時にはランチを楽しみ、時には高村家でランチ試作会を楽しみ、その後二人黙々とゲームに勤しみ、ふと時計を見ると二時半で慌てて園に走って行きー
 そんな日々が始まったのだ。

 そんな生活においてちょっと面倒なのが、優馬ママの執拗なお誘いだ。ランチやお茶に誘われるのだが、正直僕はゆっきーと一緒にいたい、ので断りたいのだが、優馬ママは澪にも良くしてくれるし園でも僕に色々アドバイスをくれたりと、とてもいい人なので断りきれず何度かランチやお茶を共にする。

 そんなある日、ケーキを焼いたから味見をして欲しいと言うので、それは遠慮なく、と連絡すると今から家に来てほしい、とのこと。家は歩いて十分弱なので、園でも料理上手と評判の優馬ママ手作りケーキを楽しみに伺うことにする。
 ちなみに優馬ママは関口佳代子さん、と言い年は僕より少し上らしい。幼稚園から有名名門女子校に学び、大学卒業後に家族ぐるみで付き合っていた男性と結婚し以来ずっと専業主婦なのだとか。生粋のお嬢様だと知り、ああこんな女性は都市伝説ではなかったんだと感心した覚えがある。
 そう言えば花火を買いに行った時も割と世俗から離れた言動で僕らの笑いを取っていた、例えば衣類の卸問屋で吊るされた服の値段を見て、
「これ、古着なのよね」
 その時一緒にいた翔大くんママによると、彼女が来ていた服は十万円以上するブランド品だったとか。
 文房具の卸に行った時。
「このボールペン、本当にこのお値段なの?」
 と言い、その消せるボールペンを黒、赤、青と箱買いし、文房具屋開くのですかと皆に爆笑されてたり。

 思い出し笑いしながら送ってもらった住所を辿ると…
 でか。白亜の豪邸が目の前に現れたではないか! 表札の『関口』を確認し、震える指でインターフォンを押すと、門が自動で開き僕は腰を抜かしそうになる。これ、現実社会に存在するんだ、アニメの社会特有のデフォルメではなかったのだ。緊張しながら感心してしまう。

「急にお呼びたてしてすみませんでした、いらっしゃい真田さん」
 あの… それ部屋着なんですか? と言うような薄いピンクのワンピースから綺麗な足がスッと伸びている。細身の彼女に完璧に似合っているので恐らく特注で作らせたものだろう。そして浅草橋や花火大会の時とは違い、完璧なフルメーク。高そうな化粧品をふんだんに使っていらっしゃるようだ、直視を憚れるほどの美しさに立ちくらみを感じる。
「どうぞ、こちらに」
 リビングに案内してもらうのだが。廊下が車通れんじゃね? 程広い。天井がマサイ族がジャンプしても届かない程、高い。壁には高価そうな絵画、コーナーには高価そうな置き物。表現が月並みになってしまうほど、庶民生活から隔絶されたハイソな環境だ。

 リビングには車が一台買えそうな高価なソファー。恐る恐る座ると、目の前のテーブルにカットされたケーキと、何故かシャンパンが冷やされている。
「真田さん、飲まれないんですよね、でも一口だけでも。よく冷えておりますのよ」
 外がクソ暑かったので、よく冷えたというキーワードに敏感に反応してしまう。そのシャンパンのボトルをよく見ると、誰もが知ってる超高級シャンパンではないか!
 彼女は惜しげもなくグラスにその黄金の泡を注ぎ、僕に差し出す。
 僕は酒が飲めない、厳密に言えば酒を飲まない、が正しい、学生時代の新歓コンパで無理矢理飲まされて意識がなくなって以来、飲まないだけなのだ。体質的にはむしろ強いかも知れない、何せその時僕が飲んだ量は、焼酎二本だったのだから。

 震える手でグラスを受け取… あれ、渡す手も震えているよ。二人でグラスを掲げ、乾杯。なんと優雅な昼下がりなのだろう、豪邸の豪華なソファーでドンペリピンク。その雰囲気だけで酔っ払ってしまいそうだ。
 グラスを一口飲んでみる。
 うま! なにこれ?
 真横に座っている優馬ママに
「これ、信じられないほど美味しいです!」
 と言うと… わお、ママさんは既に一気にグラスを空けていた!
 何だか申し訳ないので、僕も一気にグラスを空ける。喉越しがあの時の焼酎とは大違いだ、喉をツルツル通っていく感触で、喉の奥で泡がプチプチ弾ける感覚に感動してしまう。
 さすがセレブ、こんな美味い酒を普段呑みしているとは。と感心していると、
「あら、お強いじゃないですか! さ、どうぞ!」
 あっという間にグラスは満たされ、自らのグラスにも注ぎ入れ、二回目の乾杯。その後、数回の乾杯の後、ボトルは空になり僕の意識は徐々に遠く、遠くに…

 スマホのアラームがけたたましく鳴る音でハッと意識が戻る。時計は二時半を示している、やばっ 意識が戻ったものの、ここが何処なのか全くわからない、ふと肩の重みと高貴な香りによって、ああここは優馬ママのリビングだ、と思い出す。
 ああ、何ということだろう… 折角家に呼んでくれたのに、爆睡してしまうなんて、それにママさんが焼いてくれたケーキも手付かずのまま…
 優馬ママを揺り動かし、
「申し訳ありません! 人の家で爆睡してしまうなんて… 礼儀知らずで、本当にすいませんでした!」
 ママは寝起きの可愛い顔で、
「ああ、私もつい寝ちゃいました…」
「僕、澪のお迎えに行かないと。関口さんは?」
「あ、ウチは今日はお手伝いさんが…」
「そうですか、僕は今から行ってきます。今日は本当に申し訳ありませんでした、このお詫びはいつかちゃんと」
 そう言って僕は立ち上がり、彼女に深々と頭を下げてリビングを出る。危うく家の中で迷子になりかけるも何とか玄関に辿り着き、靴を履いていると、
「また、ケーキ焼きますから、来てくれますか?」
「今度はちゃんと頂きますよ、今日は本当にごめんなさいっ では!」
 そう言って玄関を飛び出した。

 全力で園に走って行き、何とか辿り着く頃には全身汗だくで、見るも鬼舞辻な姿だったろう。そんな僕を澪が呆れ顔で、
「お・そ・い!」
「ごめん、ごめん!」
 その隣で、美代先生もプンプンだ。
「遅くなるなら園に一報入れていただかないと。澪ちゃん、心配してたんですよ!」
 美代先生にバットの如く何度も頭を下げる。呆れ顔で僕を眺める美代先生の表情が、突如一変し、能面の如き冷徹な表情になり、
「澪ちゃん、ちょっとお父さんにお話あるから、園庭で遊んでいてねー」
「はーーい」
 澪が園庭に残っている居残り保育の仲間の元に駆け去ると、
「真田さん。ちょっと。」
 僕は体育館の裏、ならぬ園舎の裏に呼び出される…

「真田さん。お酒飲んでました?」
 僕はゴクリと唾を飲み込み、固まる。美代先生が僕に近寄り、口の辺りの匂いを嗅ぐ。
「目真っ赤ですし、お酒臭い!」
 先生の能面が女系から怨霊系に変化する。さらに先生は僕に接近し鼻をクンクンさせると、
「香水の匂い… 一体昼間から、何してたの! ねえ、ちゃんと答えて!」
 怨霊系から鬼神系に変化する。怖い、目に涙が溜まっていく。
「まさか、昼間っからキャバクラ? そうでしょ、そうなのね! 信じらんない!」
 僕は首を横に振るも、まさか関口家で優馬ママと昼寝していたとは言えず。
「ちょっと、唇になんかついてる。」
 先生がポケットからウエットティッシュを取り出し僕の口を拭うと、赤い紅が付着している!
「これ、ねえ、どう言うこと? キャバクラじゃなくて、風俗? ねえ、何なのよ!」
 僕は完全に脳内白化となり、ただただ首を振るだけである。
「真田さん。いくら奥さんがアレだからって… こんなこと許されると思ってんの?」
 だから、キャバクラだの風俗だなんて行ったことないのに… でもそれだと、優馬ママとの… ああ、やはり酒は身を滅ぼす。もう二度と口にすまい。固く決心するも、
「このこと、奥さんや澪ちゃん、他のお母様方に知れたらどうするの! 私からみんなに話そうか?」

 ヒッ 僕は小さく悲鳴をあげる。涙が頬を伝うのを感じる。
「泣いたって、ダメなんだから。あーあ、どうしようかな、話そうかなあ」
 僕は先生の両肩に手を置き、お願いです、もうしません、許してくださいと何度も謝り続ける。
「ちょ、離してください! 人に見られたらどうするの!」
 僕は先生から飛び去り、土下座しようとすると、
「あーあー、そーゆーのいいですから。わかりました。今度だけは大目に見ます。」
 ありがとうございます! 僕はそう叫んでいた。
「だから、声デカいって! もう、子供みたい。その代わり、今度の土曜日。ウチの大掃除手伝ってもらいますから。タダでコキ使いますから。いいですね?」
 僕はイナゴのように首をカクカク振る。イナゴのそんな姿見たことないけどね。
「花音ちゃんが澪ちゃんと遊びたがってるから、花音ちゃんのお宅に預けてくるといいですね。ああ、このことは絶対他のお母様や奥様には内緒ですよ。でないと、キャバクラの件バラしちゃうから。」

 二度と、二度と酒なんて飲むものか!
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