第2話 蟷螂の斧 後編
文字数 2,050文字
折りあしく、儂の亭主としての威厳が失墜しかかっているときに、この度こうして、長患いの憂き目に合った。
それだけでも肩身が狭いのに、その上、風呂の世話まで婆さんの手をわずらわせるという始末。
床に伏したまま身体を拭ってもらったり、おまけに、肌着の着替えまでしてもらったりと、なにかと世話をかけてしまった。
そればかりではない。三度三度の飯を食すのにも、婆さんの手をわずらわせるという、だらしのなさ。
それでも、まあ、用を足すことだけは、なんとか自力でこなせた。
あ、それと、寝ることも。もっとも、これは言わずもがな。ほら、だって、儂は寝たきりなのだから……。
ともあれ、かつて命令口調で世話になった「風呂、飯、寝る」が、この度は、頭を下げてやってもらうという、なんとも不甲斐ない羽目に。
若かりしときは偉そうに威張ってふんぞり返っていた。それが、老いぼれて英気が萎えてしまうと、人は、だれかの善意に頼ざるを得ないということを、儂はこの度、しみじみと思い知らされた。
とはいえ、それによって、婆さんの存在のありがたみを改めて認識したのだから、やはり、人生は皮肉である。
と、まあ、このようなわけで、婆さんにつれなくされてしまうのも無理からぬこと。
けれど、それにしたって、歳を取るというのは残酷なもんじゃ――内心ため息をついたら、さっき若干萎えたと思っていた英気が、さらにまた萎えてしまった、ような気がした。
そんなふうに、ため息をついて、しゅんと肩をすぼめていると、だしぬけに、のどかな空気を切り裂いて、「こちらは廃品回収車でございます~」とやたら大きな音声が辺りに轟いた。
もしこのとき、廃品回収車の音声が部屋の中へ入ってこなければ、儂は、もう少し小春日和の暖かみが残った英気を味わうことが出できたのだろう。
が、現実は、この車の拡声器から聞こえてくるやかましい音声とともに、いやおうなしに部屋の中へと入ってきた。
「古くなったテレビ、ステレオ、冷蔵庫など、なんでも無料にて回収しております」
これは、週末のこの時間になると、いつも、どこからか忽然と姿を現す廃品回収車の、その拡声器から流れてくる音声だ。
車は、テープに録音された抑揚のない女性の声を大音量で流しながら、しばらくの間うっとうしいくらい、ゆっくり、ゆっくりと町内を徘徊する。
そして、最後に、こう結ぶ。
「壊れていても構いません! お気軽にご相談ください」
それからしばしの沈黙があり、この耳に触ってやかましい音声が、ふたたび、再生される。近ごろ、これが、毎週同じ時間に同じように、もっぱら繰り返されていた。
ただ、今日はしばしの沈黙の間に、部屋の中が急に、ただならぬ気配を帯びた、ような気がしたではないか。
なんじゃろう、と儂は首をかしげる。
ふいに、思った――ひょっとして、これは婆さんが醸し出している気配じゃなかろうか、というふうに。
そう思って、儂は、婆さんのほうをおずおずと窺った。
見ると、婆さんは儂に眼差しを向けて、なにやら意味深な微笑を浮かべている。
な、なんじゃ、そのいわくありげな笑みは――けげんそうな目をして、儂は婆さんに訊いた。
すると婆さんは、上目遣いに、いたずらっぽく儂を見て、こう言うのだった。
「壊れていても構わないんだってさ、爺さん」
だ、だったら、なんじゃ。儂は内心、気色ばむ。
「なら、ちょっと相談してみようかね」
へ⁈
婆さんの、このひとことに、少しばかり残っていた英気が、見る見るうちに、吹きつかされてゆくのを儂は感じた。その代わりまた、うすら寒い情が、にわかに心にあふれてくるのを儂は感じた。この言いようのない情は、いったい、どこから来るのだろう……。
たぶんこれは――浮かない眉をひそめて、儂は思う。
これまで、婆さんをぞんざいに扱ってきた数多の、その罪の因果がもたらしているのではなかろうか、と。
そう思ったら、ひどくいたたまれない気分になって、儂は、そそくさと婆さんから眼を逸らした。その上で、情けなさそうな息を長く、深く、吐くのだった。
するとまさにそのとき、婆さんが「ありゃ、まあ!」と、素っ頓狂な声を上げるではないか。
いったい、どうしたというんじゃ――いぶかって、婆さんに目をやると、いまだ同じ番組を凝視しているのが見えた。
番組が、どうした?
腑に落ちないという表情で、儂も、その番組に眼差しを向けてみる。
古めかしい陶器。その鑑定中らしい。鑑定価格が、電光掲示板に、大きく表示されている。
「ほう! こりゃ、すごい!」
どうやら、年代物のようで、数百万の値がついている。
眼を丸めて、儂は、婆さんを見る。
二人の視線が絡み合う。
居心地のわるい沈黙。
その沈黙を破って、婆さんがため息交じりに、ぽつりとつぶやいた。
「なんで、こっちの年代物は……全然ダメなんじゃろう」
結局のところ、老いぼれた儂の力では、強者に刃向かうことなど到底ムリのようじゃ。トホホ……。
おしまい