第19話 青天の霹靂 第二話
文字数 1,473文字
彼の「癌」の検査結果待ちではないにしろ、虫歯の痛みに悩まされる日々もまた、実に憂鬱なものである。
ことに、食事の際はなおさら、それが顕著になる。
そもそも「歯」は、食物を噛み砕いて体内に栄養を与えるという機能のためだけに、存在しているのではないのか。
然 るに、「虫歯」になってしまった「歯」は、その役目をまるで果たそうとしない。それどころか、むしろ、宿主に苦痛ばかりを与えようとする。これでは、あの癌と一緒ではないか。
それを思えば、さっぱり合点がいかないし、やっぱり、歯噛みするほど口惜しい。
でも学習したから、文字通り歯噛みはしない。ただ、毎日欠かさず、ちゃんと歯磨きしていただけに、それこそ歯痒い話である……。
おまけに、歯の痛みは、人を、なにかと捨て鉢な気分にもさせる。
こんな時に、だから、何かややこしいことを考えたり、あえて行動したりするのはとても、鬱陶しくて仕方がない。
けれど、こういう時に限って、ややこしい話が、それこそ振って湧いたように舞い込んできたりするから、人生というのは一筋縄ではいかないようだ。
「いい料亭をみつけましてね。これから一緒にどうですか?」
甘いものを口にするのが苦痛なときにかぎって、どうかすると、こんな甘い誘いを受けたりする。
しかも、誘ってきたのが、日ごろから、なにくれなくお世話になっている、大切な御仁。
そのようなお方に対して、「すいません、ちょっと虫歯になっちまいましてね。それで、今、なにを食っても、鬱陶しいさなかなんですよ。というわけで、後日ご連絡くだされば――」というような断り文句など、畏れ多くてとても、口にできない。
それもさることながら、なんといっても、あの「料亭」である。
りょうてい――。
ああ、なんて、素敵な響きだろう。この響きだけで、ぼくはもう、夢見心地。
まして、近ごろ、懐が寂しいぼくにとって、とんとご無沙汰の場所でもある。
それと、「高級」とか「格式」ということばの前には、つい尻尾を振ってしまうのが、神ならぬ人間の悲しい性というもの。ことに、ぼくみたいな、その辺の空き地の雑草のような人間の場合は、それがなおさら。
したがって、ついぼくは、こんなふうに自分に都合よく言い聞かせてしまう。
こいうときは、あれだ。自分の事情に上手く折り合いをつけるのが大人ってもんだ。とか、快くお受けするのが人としての優しさってもんだ、とかなんとか言って。
だとしても、しょせん、それは建前にすぎない。本音としては、料亭だったら、きっと美味しいものを味わえるに違いない。だから、少々歯が痛いからって何を言ってる。我慢して行くぞ。
そんなふうに、あさましい食い意地が、歯の痛みをねじ伏せようとしているのに過ぎない。
「そういうわけだから、お誘いを受けようと思うんだ」
垂涎 のぼくは、結局のところ、奥さんにそう告げて、行く気満々でいた。
けれど、それを聞いた奥さんは「ねえ、今回はお断りしたほうがいいんじゃないの」と眉をひそめなて、こう諭すのだった。
「だって、歯が痛いんでしょう。きっとあなたのことだから、食べるときに歯がうずきだして不機嫌な顔しちゃうと思うのね。それって、かえって相手に失礼になるんじゃないのかしら。こういう時は、ちゃんと事情を説明して、丁重にお断りするのもある意味、優しさのひとつだと思うんだけどね」
おいおい、きっと、あなたのことだから――それって、ちょいと口が過ぎやしねぇかい。
唇をとがらせながら、ぼくは、奥さんの美しい顔をきつくねめつけた。
つづく
ことに、食事の際はなおさら、それが顕著になる。
そもそも「歯」は、食物を噛み砕いて体内に栄養を与えるという機能のためだけに、存在しているのではないのか。
それを思えば、さっぱり合点がいかないし、やっぱり、歯噛みするほど口惜しい。
でも学習したから、文字通り歯噛みはしない。ただ、毎日欠かさず、ちゃんと歯磨きしていただけに、それこそ歯痒い話である……。
おまけに、歯の痛みは、人を、なにかと捨て鉢な気分にもさせる。
こんな時に、だから、何かややこしいことを考えたり、あえて行動したりするのはとても、鬱陶しくて仕方がない。
けれど、こういう時に限って、ややこしい話が、それこそ振って湧いたように舞い込んできたりするから、人生というのは一筋縄ではいかないようだ。
「いい料亭をみつけましてね。これから一緒にどうですか?」
甘いものを口にするのが苦痛なときにかぎって、どうかすると、こんな甘い誘いを受けたりする。
しかも、誘ってきたのが、日ごろから、なにくれなくお世話になっている、大切な御仁。
そのようなお方に対して、「すいません、ちょっと虫歯になっちまいましてね。それで、今、なにを食っても、鬱陶しいさなかなんですよ。というわけで、後日ご連絡くだされば――」というような断り文句など、畏れ多くてとても、口にできない。
それもさることながら、なんといっても、あの「料亭」である。
りょうてい――。
ああ、なんて、素敵な響きだろう。この響きだけで、ぼくはもう、夢見心地。
まして、近ごろ、懐が寂しいぼくにとって、とんとご無沙汰の場所でもある。
それと、「高級」とか「格式」ということばの前には、つい尻尾を振ってしまうのが、神ならぬ人間の悲しい性というもの。ことに、ぼくみたいな、その辺の空き地の雑草のような人間の場合は、それがなおさら。
したがって、ついぼくは、こんなふうに自分に都合よく言い聞かせてしまう。
こいうときは、あれだ。自分の事情に上手く折り合いをつけるのが大人ってもんだ。とか、快くお受けするのが人としての優しさってもんだ、とかなんとか言って。
だとしても、しょせん、それは建前にすぎない。本音としては、料亭だったら、きっと美味しいものを味わえるに違いない。だから、少々歯が痛いからって何を言ってる。我慢して行くぞ。
そんなふうに、あさましい食い意地が、歯の痛みをねじ伏せようとしているのに過ぎない。
「そういうわけだから、お誘いを受けようと思うんだ」
けれど、それを聞いた奥さんは「ねえ、今回はお断りしたほうがいいんじゃないの」と眉をひそめなて、こう諭すのだった。
「だって、歯が痛いんでしょう。きっとあなたのことだから、食べるときに歯がうずきだして不機嫌な顔しちゃうと思うのね。それって、かえって相手に失礼になるんじゃないのかしら。こういう時は、ちゃんと事情を説明して、丁重にお断りするのもある意味、優しさのひとつだと思うんだけどね」
おいおい、きっと、あなたのことだから――それって、ちょいと口が過ぎやしねぇかい。
唇をとがらせながら、ぼくは、奥さんの美しい顔をきつくねめつけた。
つづく