第5話 蛙の子は蛙 前編
文字数 2,377文字
あんなに暑かった夏の名残はもうどこにも見られない。そんな十月初旬の、その週末――。
ぼくが住むマンションのほど近くに豊かな水量をたたえる、わりと大きな川が流れている。
その土手の上を、ぼくは小学三年生の息子の翔太を連れて散歩していた。
おだやかな秋色の風がそよと土手の上を渡って、二人の頬を優しく撫でていく。
いまは、過ぎ去った酷暑とやがてやってくる厳冬の狭間にある、そこはかとなくゆかしい季節のさなか。
そんな休日の、のどかな昼下がり――。
川面にふと、ぼくは目をくれる。見ると、午後のやわらかな陽の光がちらちらと煌めきながら、さざなみに、あわく、ゆれている。
しばらく、その川面を見るともなく見ながら、ぼくたちは歩いていく。
するとそのときだった。だしぬけに、「わあ!」という、大きな声の塊が、土手を渡る風に乗って耳にとまったのは――。
いったい、なんの声だ⁈
ぼくはけげんそうな顔で、声がするほうに眼差しを投げる。
すると、河川敷に整備された瀟洒なグランドが目に入る。
どうも、そこで野球の試合が行われているらしい。何分、きょうは試合するにはおあつらえ向きの日和だ。つまり、いましがた耳にとまった声は、そこから聞こえてきた歓声のようなのだ。
あんのじょう、近づくと、少年野球が行われていた。
よし、ちょっと見ていこう――内心つぶやいた瞬間、「行くぞ、翔太!!」とぼくはもう、土手の斜面を小走りに駆け降りていた。
グランドに降り立って思わずぼくは「お!」と声をあげる。
一塁側のベンチの隅っこ。そこに、観戦用のベンチが設えてあるのを発見したからだ。しかも、運良く空席。
「あそこに座って観戦させてもらおうよ」
つぶやいたぼくは、さっそく、翔太と肩を並べて腰をそこに据えた。ひとつ息をついて、それからぼくはスコアボートに目をやる。
えーと、ちょうど三回の裏が終了したところだな。で、スコアは?
13対12。
「ほぉ」とぼくは感嘆の息に乗せてつぶやく。
「こりゃ、かなりの乱打戦だな」
カキーン!!
つぶやいたとたん、鋭い金属音がグランドに轟いた。
四回の表の攻撃がはじまったらしい。ピッチャーが投じたボールを、バッターが見事にはじき返したのだ。
その打球を目で追う。澄み渡った青い空に、白球が、高々と立ち昇ってゆく。
ぼくは「お」と声をあげて、腰を浮かせる。
これはけれど、平凡なセンターフライ。なので、浮きかけた腰をベンチにおろそうとしたその次の瞬間、思わずぼくは「あ」と口をぽかーんと開けていた。
平凡なフライだったのだ……。
それなのに、センターくんがバンザイをしてボールを取り損ねて、後逸してしまったではないか。つま先立って、ぼくはボールの行方を目で追う。
ボールは転々と、グランドの後方にある藪の中に吸い込まれていった結果として、ランニングホームラン!!!
それによって、スコアは、14対12に。
もちろん、これは草野球。したがって、プロ野球のようにスコアボートに安打数や失策数が掲示されることは毛頭ない。
それだけに、どのような試合展開で、このようなスコアになってしまったのか。それこそ、それは藪の中。
でもこれって、あれだな――いまのプレーを見てぼくはふと、思った。
これは乱打戦というより、もしかすると、そう思った瞬間、いやいや、とぼくはすぐにかぶりを振る。
たまたまさ、たぶんいまのは。だから次は、きっと大丈夫さ。
ぼくは自分にそう言い聞かせて、改めて、グランドに眼差しを戻した。
カキーン!!
鋭い金属音が、またひとつ重なった。
今度もぼくは「お」と声をあげて打球の行方を追う。
なんだ、ショートゴロか。ま。これは簡単に処理できるだろう。今度は、しっかりな!!
ぼくは内心ショートくんに声をかける。
だが、どうも、心の中でつぶやくだけではあきたらなかったとみえる。現に、ぼくは声を出して励ましていたのだから。
「ショートくん! しまっていこうぜ!!!」
もはやわが子のプレーを見守る親御さんのような心持ちだった。
それでだろう。膝の上に置いた拳に、妙に力が入る。握ったその拳に、汗すら滲んできた。だが――。
親の心子知らず、とはいみじくも言ったものである。なんと、このショートくん、まさかのトンネル……。
さっきのセンターフライといい、今のショートゴロといい、ごく簡単なフライとゴロ――が、それにもかかわらず、この体たらく。
それだけじゃなかった。よりによって、カバーに入ったレフトくんまでもが転がってきたボールをあらぬ方向に蹴飛ばしてしまうという、おまけつき。
相手側すれば、さながらリボン付きの豪勢なプレゼントをいただいたような、けれど、味方からすれば思わぬ出費を余儀なくされたような、そんなさっぱり合点のいかないお粗末なエラーだった。
これで相手側は難なく、ノーアウト二塁のチャンスを得た。
なんのことはない、やっぱり、これって――ぼくの中で疑念が、大きく膨らむ。
乱打戦というより、むしろ、ただの泥試合だったのでは、という疑念が。
カキーン!!
ふたたび、グランドに打球音が轟く。
見ると、平凡なゴロ。
ところが、またしても、エラー。ははは……もう、笑うしかない。
乱打戦と思いきや、ただの泥試合。疑念は、にわかに真実に。
グランドでは、それが如実にわかるような、いただけないプレーが。
今度のエラーはサードくんだった。平凡なゴロを、実にあっさりトンネルしてしまったのだ。それによって、二塁ランナーが、一気にホームに生還。
スコアはこれで、15対12に。
いったい、何点入るんだ――そう思った瞬間、はからずも心の声がグランドに向かって表白されていた。
「おい、少年たち!! とてもじゃないが、陽が暮れちまうぞ!」
つづく
ぼくが住むマンションのほど近くに豊かな水量をたたえる、わりと大きな川が流れている。
その土手の上を、ぼくは小学三年生の息子の翔太を連れて散歩していた。
おだやかな秋色の風がそよと土手の上を渡って、二人の頬を優しく撫でていく。
いまは、過ぎ去った酷暑とやがてやってくる厳冬の狭間にある、そこはかとなくゆかしい季節のさなか。
そんな休日の、のどかな昼下がり――。
川面にふと、ぼくは目をくれる。見ると、午後のやわらかな陽の光がちらちらと煌めきながら、さざなみに、あわく、ゆれている。
しばらく、その川面を見るともなく見ながら、ぼくたちは歩いていく。
するとそのときだった。だしぬけに、「わあ!」という、大きな声の塊が、土手を渡る風に乗って耳にとまったのは――。
いったい、なんの声だ⁈
ぼくはけげんそうな顔で、声がするほうに眼差しを投げる。
すると、河川敷に整備された瀟洒なグランドが目に入る。
どうも、そこで野球の試合が行われているらしい。何分、きょうは試合するにはおあつらえ向きの日和だ。つまり、いましがた耳にとまった声は、そこから聞こえてきた歓声のようなのだ。
あんのじょう、近づくと、少年野球が行われていた。
よし、ちょっと見ていこう――内心つぶやいた瞬間、「行くぞ、翔太!!」とぼくはもう、土手の斜面を小走りに駆け降りていた。
グランドに降り立って思わずぼくは「お!」と声をあげる。
一塁側のベンチの隅っこ。そこに、観戦用のベンチが設えてあるのを発見したからだ。しかも、運良く空席。
「あそこに座って観戦させてもらおうよ」
つぶやいたぼくは、さっそく、翔太と肩を並べて腰をそこに据えた。ひとつ息をついて、それからぼくはスコアボートに目をやる。
えーと、ちょうど三回の裏が終了したところだな。で、スコアは?
13対12。
「ほぉ」とぼくは感嘆の息に乗せてつぶやく。
「こりゃ、かなりの乱打戦だな」
カキーン!!
つぶやいたとたん、鋭い金属音がグランドに轟いた。
四回の表の攻撃がはじまったらしい。ピッチャーが投じたボールを、バッターが見事にはじき返したのだ。
その打球を目で追う。澄み渡った青い空に、白球が、高々と立ち昇ってゆく。
ぼくは「お」と声をあげて、腰を浮かせる。
これはけれど、平凡なセンターフライ。なので、浮きかけた腰をベンチにおろそうとしたその次の瞬間、思わずぼくは「あ」と口をぽかーんと開けていた。
平凡なフライだったのだ……。
それなのに、センターくんがバンザイをしてボールを取り損ねて、後逸してしまったではないか。つま先立って、ぼくはボールの行方を目で追う。
ボールは転々と、グランドの後方にある藪の中に吸い込まれていった結果として、ランニングホームラン!!!
それによって、スコアは、14対12に。
もちろん、これは草野球。したがって、プロ野球のようにスコアボートに安打数や失策数が掲示されることは毛頭ない。
それだけに、どのような試合展開で、このようなスコアになってしまったのか。それこそ、それは藪の中。
でもこれって、あれだな――いまのプレーを見てぼくはふと、思った。
これは乱打戦というより、もしかすると、そう思った瞬間、いやいや、とぼくはすぐにかぶりを振る。
たまたまさ、たぶんいまのは。だから次は、きっと大丈夫さ。
ぼくは自分にそう言い聞かせて、改めて、グランドに眼差しを戻した。
カキーン!!
鋭い金属音が、またひとつ重なった。
今度もぼくは「お」と声をあげて打球の行方を追う。
なんだ、ショートゴロか。ま。これは簡単に処理できるだろう。今度は、しっかりな!!
ぼくは内心ショートくんに声をかける。
だが、どうも、心の中でつぶやくだけではあきたらなかったとみえる。現に、ぼくは声を出して励ましていたのだから。
「ショートくん! しまっていこうぜ!!!」
もはやわが子のプレーを見守る親御さんのような心持ちだった。
それでだろう。膝の上に置いた拳に、妙に力が入る。握ったその拳に、汗すら滲んできた。だが――。
親の心子知らず、とはいみじくも言ったものである。なんと、このショートくん、まさかのトンネル……。
さっきのセンターフライといい、今のショートゴロといい、ごく簡単なフライとゴロ――が、それにもかかわらず、この体たらく。
それだけじゃなかった。よりによって、カバーに入ったレフトくんまでもが転がってきたボールをあらぬ方向に蹴飛ばしてしまうという、おまけつき。
相手側すれば、さながらリボン付きの豪勢なプレゼントをいただいたような、けれど、味方からすれば思わぬ出費を余儀なくされたような、そんなさっぱり合点のいかないお粗末なエラーだった。
これで相手側は難なく、ノーアウト二塁のチャンスを得た。
なんのことはない、やっぱり、これって――ぼくの中で疑念が、大きく膨らむ。
乱打戦というより、むしろ、ただの泥試合だったのでは、という疑念が。
カキーン!!
ふたたび、グランドに打球音が轟く。
見ると、平凡なゴロ。
ところが、またしても、エラー。ははは……もう、笑うしかない。
乱打戦と思いきや、ただの泥試合。疑念は、にわかに真実に。
グランドでは、それが如実にわかるような、いただけないプレーが。
今度のエラーはサードくんだった。平凡なゴロを、実にあっさりトンネルしてしまったのだ。それによって、二塁ランナーが、一気にホームに生還。
スコアはこれで、15対12に。
いったい、何点入るんだ――そう思った瞬間、はからずも心の声がグランドに向かって表白されていた。
「おい、少年たち!! とてもじゃないが、陽が暮れちまうぞ!」
つづく