第18話 青天の霹靂 第一話

文字数 1,820文字

 ある日突然、左下の奥歯が、鈍くうずき出した。
 やむなく、ぼくは先日、それこそ、何十年かぶりに、歯医者さんの門をくぐるのを余儀なくされた。
 思った通り、検査の結果は、虫歯。もっとも、ぼくは食後の歯磨きを一日も欠かしたことはない。それだけに、ぼくにとって、まさにこれは『青天の霹靂』だった。
 さっぱり合点がいかないので、歯噛みするほど口惜(くちお)しい。ぼくは、だから自分の歯に向かって、こう毒づいてやった。
 あのさ、毎日欠かさず歯磨いてやってただろ。なのになぜ、虫歯になっちゃうの。冗談じゃないよね、まったく、というふうに。
 ただ、そのとき、激痛が走った。歯が痛いのに、文字通り歯噛みしたからだ。
 やれやれ――つまらなさそうに息をついて、ぼくは自虐交じりにつぶやく。
 いい歳こいて、なにやってんだんか、というふうに。

 
 それはともあれ、ぼくは、この『青天の霹靂』ということばのみならず、そのことばの意味すら、すっかり忘れていた。
 もっとも、これはふだん、めったに使う機会のないことばなので、当然といえば、まあ、当然なのだが……。
 が、それにもかかわず、ぼくはいま、現に、そのことばを口にしている。
 それって、矛盾じゃん――という声が、どこかから聞こえてきそうだ。
 もちろん、理由がある。
 
 
 先日のことだった。
 はからずも、ぼくはその日、街で、学生時代の友人に、ばったりと出会った。
「おう、久しぶり」
「ほんとうに……元気にしてた」
「してた、してた。そっちは」
「まあ、ぼちぼちってところかな」
 そんなふうに、久闊を叙していたら、だしぬけに、彼が、こんなこと言い出した。
「けれど、それにしたって、あいつは、まるでテロリストみたいなヤツだよ、まったく」――と。
 え⁈ テロリストってなんだよ? 穏やかじゃないなあ……。
 ぼくは内心そう突っ込んで、苦笑を洩らしていた。
 だからといって、別段ぼくは不愉快な気分になったわけじゃない。それよりむしろ、頬をほころばせていたくらい。
 なぜかという、かねて彼は、非常にユニークな発想で、さながらエンターティナーのように、ぼくを驚かせたり楽しませたりしてくれていたからだ。
 それだけに、ぼくはその日も、たぶんこれは、何かのネタだろうと思って、彼の次のことばを待つことにした。
 すると、彼は「いまは、笑って話せるんだけどさ」と実際に笑いながら、ことばを、こう継いだ。
「先日、健康診断でポリープが見つかったんだよ。驚いたね。青天の霹靂とはまさにこの(いい)だ。けれど、精密検査の結果は幸いなことに、癌じゃなかった。なので、とりあえず、ほっと胸を撫で下ろしたんだ……でもさ、あれだったよ」
 そこで彼はことばを切ると、ふと眉をひそめて、遠い目をしながら、ことばを、こう継いだ。
「検査結果が出るまで、ひどく憂鬱な気分だったよ。なにしろ、仕事が手につかないほど、やきもきさせられたからね……」
 なるほど、それは身につまされる話だな、とぼくはうなずきながらも、はたして、それがテロリストとどう繋がるの、と首をかしげていた。
 でもそこは、エンターティナーの彼である。ぼくの疑問など織り込み済みさ、と言わんばかりに、ニヤッと微笑んで「実はさ」と言うと、いかにも彼らしく、その疑問を、こう解き明かしてくれたのだった。
 ――検査結果を待つ間、実にやきもきさせられた。でもジタバタしたところで、何かが変わるわけじゃない。こういうことを、だから考えて、気を紛らわしていたんだ。
 よくよく考えたら、「癌」というのは、まったく矛盾したヤツだなぁ、ってね。だってさ、宿主との共生を選ばないどころか、むしろ宿主諸共に自滅する道を選んでるんだぜ、癌ってさ。まったく矛盾したヤツだよね。
 で、そのとき、ふと思ったんだ。それって、あれと一緒じゃんって、ね。何にかというと、ここで、テロリストさ。
 彼らも自爆テロという愚かな行為で、かけがえのない命を自らの手で奪ってる。ほら、だからね――。
 なるほど、癌をテロリストになぞらえたってわけか。いかにもこれは彼らしい発想だな、とぼくは、いつものように、大いに感心させられたものだ。
 それ以来、ぼくの意識にこの『青天の霹靂』ということばが、くっきりと刷り込まれてしまった。あ、それにくわえて、その意味も。
 はからずも、こうして、こん回虫歯になったことで、そのことばが、無意識のうちに、ぼくの口をついていたのだった――。


つづく
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