第27話 青天の霹靂 第十話

文字数 1,295文字




 そんなことがあって、ぼくはいま、歯医者に対する恐怖心が、ずいぶんと薄らいでいる。 
 だからといって、それは「怪我の功名」でしかない。
 ぼくはあの日、自らが進んで歯医者に行ったのではないからだ。それより、自分が蒔いた種が契機となって、やむなく、行くことになったのだった。
 それでも、そのおかげで歯医者に対する恐怖心が薄らいでいるから、世の中、何が幸いするかわからないものだ。
 ぼくの上司はあの日、ふだん、滅多に見せない哀憐の情を、その面持ちに表白しがら、不甲斐ないぼくを叱咤激励してくれた。
「優先順位は、歯医者に行くことだ。そして、治療に専念しろ。その後で…」 
 ぼくはそのとき、「その後で……」につづくことばなど歯牙にもかけず、歯医者へと一目散に駆け出していた。 
 その後で――それにつづくことばを、ぼくはあとで知る。
「その後で、得意先に行って、俺と一緒に頭を下げればいいんだ」 
 本当は、そのような優しいことばが脇目も振らず駆けている、ぼくの背中にぶつけられていたのだった。 
 にもかかわらず、ぼくはあの日、歯の痛みに耐えきれず、上司の優しいことばに耳をかすことはなかった。本当に、若かったのだ。あの日の、ぼくは――。
 
 それでも、まあ、治療のおかげで、なんとか痛みも和らいだ。
 そうすると、心に余白ができる。できると、花鳥風月を愛でる余裕すらできるのだから、人間とは、なんとも現金なものだ。
 ふとぼくは、空を見上げる。抜けるような空の青さが広がっていた。そこに、歯を彷彿とさせる白い雲が、ぽつんと、一つ浮かんでいた。
 おぞましいことに、ぼくはそれを眺めながら、こういう不埒なことを考えていたのだった。
「こんなことなら、さっさと歯医者に行って、治療しとけばよかったんだ……」
 
 歳を重ねるというのは、過去の苦痛の思い出を一つ一つ重ねていく算数の足し算のようなものだと、常々、ぼくは思っている。
 積み重ねられた思い出は、ひっそりと佇む路地裏のその、アスファルトの路傍に降り積もる雪のように、粛々と心の底に降り積もり、厳然として、そこに凍りつく。 
 眠りについていると、時に、それが氷解して思わず頭を抱え込みたくなるような、そんな夢を見る夜が、ともすれば、ぼくにはある。  
 そこには、かつての不甲斐ないぼくがいて、すごい剣幕で、あの上司に叱咤されている。
 するともういけない。ベッドの上で何度も寝返りを打って、いっこうに眠れない夜を過ごすのを余儀なくされてしまうのだ。 
 そんな夢を見た次の朝、目覚めると、ぼくはおうおうにして、こう思う。 
 もしも、あのイベントが成功裏に終わっていたら、ぼくは、いったいどうなっていたことだろう、というふうに。 
 そうすれば、たぶんぼくは相も変わらず歯医者には行かずに、むしろ市販の薬に頼って、憂鬱な「虫歯」の痛みと格闘していたのではなかろうか、と。 
 ただ、そのときはそれで痛みを一瞬押さえられたとしても、いずれ「虫歯」は宿主をのっぴきならない状況に陥らせる懸念があるという。 
 そのことを、ぼくはのちのち、思い知らされることとなる。 
 
 
つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み