第34話 台風一過 その五
文字数 2,250文字
雄太に首をめぐらせた久美子さんは一瞬、奇妙な表情を浮かべた。哀れみのような、慈しみのような、そんな表情を――。
そのいわくありげな表情に、思わず雄太はのけぞってしまう。冴えなく頬をこわばらせて……。
久美子さんは一方、それとは真逆に、頬をほころばせて、上目遣いで、いたずらっぽく雄太を見た。
そういう目つきで見られると、ますます、不安が募る。だから、雄太は、いっそう、のけぞってしまう。
それもムリはない。久美子さんの、この表情といい、この目つきといい、これらは雄太にとって、焦眉の急を知らせるシグナルだからだ。
なんといっても、久美子さんは、とりわけ、負けず嫌いな性分をしていた。
思えば雄太はそれで、幾度となく辛酸をなめてきた。それが、トラウマになっている。なので、彼女に、そういう目つきで見られると、雄太はすっかりうろたえて、思わずのけぞってしまうのだった。
にしても、あれだよな――浮かない眉をひそめて、雄太は心のなかでつぶやく。
オレって、ほんとうに学習能力のない男だよなあ、と自虐交じりに。
情けなくなるから、もう辛酸をなめたくなかった。
それがあって雄太は、いままでずっと、久美子さんに「台風一過」の話しをしてこなかった。いや、だからこそ、できなかった、そう言ったほうが正しい。
にもかかわらず、雄太はうっかり口にしてしまった。それも、さも嬉しそうに頬をほころばせながら、得々と――。
それが、どのような結果を招くか。痛いほどわかっている雄太であったはずなのに……。
とりわけ、負けず嫌いの久美子さんに、得々と、面白そうな話を語れば、間違いなく、それ以上の話をしようと躍起になることなどは――。
ため息交じりに、それなのになあ、と雄太はほぞを噛む。
だからといって、いくらくやんでみたところで、皮肉に引き裂かれた人生は、後悔先に立たず、が理である……。
いま、世界はとても、静かだ。
ことりとも音が立たないほど、不気味なくらいに……。
さっき雄太は、久美子さんに『台風一過』の話をするとき、テレビの電源をオフにしていた。ここはしかも、きわめて気密性の高いマンションの一室である。それだけに、二人がいるリビングルームはいま、居心地の悪い静寂のなかにひっそりと沈んでいる。
そこに持ってきて、雄太の胸の鼓動が、いたずらに高鳴る。ひょっとしたら、久美子さんに聞こえてしまうのではないかと懸念するほど、烈しく、早く――。
その上、この静寂は、どこか危うさを孕んでもいる。
ほんの少しでも触れようものなら、パン! という大きな音を立てて弾けてしまいそうな、そんな危うさを。
ヤバイ、逃げなくちゃ――ふと、そんな強迫観念に雄太は駆られる。
じゃなきゃ、また辛酸をなめる羽目に合うぞ、というふうに、もう一人の自分が脅迫すらするのだ。
わ、わかった。
間髪を入れず、雄太はうなずく。
うん⁈
けげんそうに、雄太は首をかしげる。
うんともすんとも動かない。身体が鉛のように重たくて、どうあがいても……。
どういうことだよ、まったく――舌打ち交じりに、浮きかけた腰をもう一度、雄太はソファーに下ろす。それから、雄太は、改めて、久美子さんの横顔に一瞥をくれる。
すると雄太の視線は、不思議と、吸い込まれるかのように、彼女の唇に向かう。
見たとたん、雄太はドキッとして、だらしなく頬をゆるめた。
ああ、なんて扇情的な、なんて艶かしい唇なんだ。なんともいえず欲情がそそられっちまうよ。
あ、あのさあ、と思わず雄太は自分で自分にツッコミを入れる。
こんなときに、なに考えてんだよ、このターコ、というふうに。
そんな自分があまりにあさましくてしかたないから、雄太は、そんな自分をつまらなそうに笑った。
するとまさにそのとき――。
「ねえ、ユウタくん」
久美子さんの扇状的な唇が、おもむろに動き出した。
「そう、キミの言う通りよ。実はあたしにもあるんだよね、間抜けな話が」
いつもは「ユウタ」と呼び捨てなのに、きょうはなぜか「ユウタくん」とくんづけに変わっている。
やっぱ、危険だ。
雄太は内心そうつぶやきを洩らして身構える。
久美子のヤツ、オレより面白い間抜けな話を見つけたな、そう思って。
いや、待てよ――けれどすぐに、雄太は思い直す。
久美子のヤツ、さっきから、必死になって記憶の糸を手繰り寄せていた。がしかし残念ながら、オレより面白い話は見つからなかった。そこで、ヤツの常套手段として、とっさに、そういう話を創作した、ってことも考えられなくもないよな、と。
いやいや、それはちょっとうがちすぎだよ、ユウタくん。
否定的に、強く首を振って、雄太は自分にこう私語きかける。
いくらなんでも、こんな短時間で、それを考えるのは到底ムリだろうよ、と肩をすくめて――。
周知のように、雄太は臆病者で、めんどくさがり屋だった。しかもそれと同時に、彼は楽天家でもあったのだ。
彼はそこで、こうタカをくくる。
たぶん今日のは、オレに対抗しようとして創作した話じゃないのだろう。それよりむしろ、実際にあった話なんだろう。くやしいけど、オレのより間抜けで、だからもっと面白い。それで、さっき、哀れみのような、慈しみのような、そんな表情を浮かべて見せたんだ、というふうに。
それもさることながら、決定的に雄太はめんどくさがり屋でもあった。
なので、これ以上思量を広げるのが億劫だった、という感も否めないのだけれど……。
つづく
そのいわくありげな表情に、思わず雄太はのけぞってしまう。冴えなく頬をこわばらせて……。
久美子さんは一方、それとは真逆に、頬をほころばせて、上目遣いで、いたずらっぽく雄太を見た。
そういう目つきで見られると、ますます、不安が募る。だから、雄太は、いっそう、のけぞってしまう。
それもムリはない。久美子さんの、この表情といい、この目つきといい、これらは雄太にとって、焦眉の急を知らせるシグナルだからだ。
なんといっても、久美子さんは、とりわけ、負けず嫌いな性分をしていた。
思えば雄太はそれで、幾度となく辛酸をなめてきた。それが、トラウマになっている。なので、彼女に、そういう目つきで見られると、雄太はすっかりうろたえて、思わずのけぞってしまうのだった。
にしても、あれだよな――浮かない眉をひそめて、雄太は心のなかでつぶやく。
オレって、ほんとうに学習能力のない男だよなあ、と自虐交じりに。
情けなくなるから、もう辛酸をなめたくなかった。
それがあって雄太は、いままでずっと、久美子さんに「台風一過」の話しをしてこなかった。いや、だからこそ、できなかった、そう言ったほうが正しい。
にもかかわらず、雄太はうっかり口にしてしまった。それも、さも嬉しそうに頬をほころばせながら、得々と――。
それが、どのような結果を招くか。痛いほどわかっている雄太であったはずなのに……。
とりわけ、負けず嫌いの久美子さんに、得々と、面白そうな話を語れば、間違いなく、それ以上の話をしようと躍起になることなどは――。
ため息交じりに、それなのになあ、と雄太はほぞを噛む。
だからといって、いくらくやんでみたところで、皮肉に引き裂かれた人生は、後悔先に立たず、が理である……。
いま、世界はとても、静かだ。
ことりとも音が立たないほど、不気味なくらいに……。
さっき雄太は、久美子さんに『台風一過』の話をするとき、テレビの電源をオフにしていた。ここはしかも、きわめて気密性の高いマンションの一室である。それだけに、二人がいるリビングルームはいま、居心地の悪い静寂のなかにひっそりと沈んでいる。
そこに持ってきて、雄太の胸の鼓動が、いたずらに高鳴る。ひょっとしたら、久美子さんに聞こえてしまうのではないかと懸念するほど、烈しく、早く――。
その上、この静寂は、どこか危うさを孕んでもいる。
ほんの少しでも触れようものなら、パン! という大きな音を立てて弾けてしまいそうな、そんな危うさを。
ヤバイ、逃げなくちゃ――ふと、そんな強迫観念に雄太は駆られる。
じゃなきゃ、また辛酸をなめる羽目に合うぞ、というふうに、もう一人の自分が脅迫すらするのだ。
わ、わかった。
間髪を入れず、雄太はうなずく。
うん⁈
けげんそうに、雄太は首をかしげる。
うんともすんとも動かない。身体が鉛のように重たくて、どうあがいても……。
どういうことだよ、まったく――舌打ち交じりに、浮きかけた腰をもう一度、雄太はソファーに下ろす。それから、雄太は、改めて、久美子さんの横顔に一瞥をくれる。
すると雄太の視線は、不思議と、吸い込まれるかのように、彼女の唇に向かう。
見たとたん、雄太はドキッとして、だらしなく頬をゆるめた。
ああ、なんて扇情的な、なんて艶かしい唇なんだ。なんともいえず欲情がそそられっちまうよ。
あ、あのさあ、と思わず雄太は自分で自分にツッコミを入れる。
こんなときに、なに考えてんだよ、このターコ、というふうに。
そんな自分があまりにあさましくてしかたないから、雄太は、そんな自分をつまらなそうに笑った。
するとまさにそのとき――。
「ねえ、ユウタくん」
久美子さんの扇状的な唇が、おもむろに動き出した。
「そう、キミの言う通りよ。実はあたしにもあるんだよね、間抜けな話が」
いつもは「ユウタ」と呼び捨てなのに、きょうはなぜか「ユウタくん」とくんづけに変わっている。
やっぱ、危険だ。
雄太は内心そうつぶやきを洩らして身構える。
久美子のヤツ、オレより面白い間抜けな話を見つけたな、そう思って。
いや、待てよ――けれどすぐに、雄太は思い直す。
久美子のヤツ、さっきから、必死になって記憶の糸を手繰り寄せていた。がしかし残念ながら、オレより面白い話は見つからなかった。そこで、ヤツの常套手段として、とっさに、そういう話を創作した、ってことも考えられなくもないよな、と。
いやいや、それはちょっとうがちすぎだよ、ユウタくん。
否定的に、強く首を振って、雄太は自分にこう私語きかける。
いくらなんでも、こんな短時間で、それを考えるのは到底ムリだろうよ、と肩をすくめて――。
周知のように、雄太は臆病者で、めんどくさがり屋だった。しかもそれと同時に、彼は楽天家でもあったのだ。
彼はそこで、こうタカをくくる。
たぶん今日のは、オレに対抗しようとして創作した話じゃないのだろう。それよりむしろ、実際にあった話なんだろう。くやしいけど、オレのより間抜けで、だからもっと面白い。それで、さっき、哀れみのような、慈しみのような、そんな表情を浮かべて見せたんだ、というふうに。
それもさることながら、決定的に雄太はめんどくさがり屋でもあった。
なので、これ以上思量を広げるのが億劫だった、という感も否めないのだけれど……。
つづく