第32話 台風一過 その三

文字数 1,825文字

 
 料理のレシピ本とにらめっこしていた久美子さんは、なんで、声かけるかなあ、という顔をして雄太をジロリとねめつけた。
 ヒ、ヒエッ!
 その瞬間、覚えず雄太はドキッとして、久美子さんから目を逸らしてしまった。
 怖かったのだ。 
 般若顔で睨む久美子さんの表情が、如実に物語っていた。
 あら、あたしはいま、夕飯の献立を考えているさなかよ。あなたのためにね。そういうときには声をかけないっていうのが、わが家の不文律だし、なにより、優しさってもんじゃないかしら、というふうに――。
 もっとも、『台風一過』の話しがどうしてもしたくて、それを承知の上で声をかけた雄太ではあった。
 ただ、意気地なしの雄太は、一緒になって十数年経ったいまでも、こうして久美子さんに怖い顔で睨まれると、それこそ蛇に睨まれた蛙のごとく、情けないくらい、身がすくんでしまう。と同時に、意気込んでいた気力も、すっかり萎える。     
 すると今度は、にわかに弱気の虫が顔を覗かせて、もうどうでもいいや、というふうに、嫌気がさしてしまうのだった。
 
 そればかりではない。性来雄太は人一倍、めんどくさがり屋でもあった。
 そんな雄太は子どものころから、しばしば、こう言って、久美子さんの顰蹙を買ったものだ。
「悪あがきしたってできないってわかってるなら、最近っから、無駄な努力をするのはよそう、って思ってる」
 子どものころから、そんな雄太のことばを耳にするにつけ、久美子さんは「ユウタ、なに言ってんの」と、浮かない眉をひそめて、こう諭していたものだ。
「あのねえ、ユウタ。ユウタのように、最初っからできないとあきらめて、悪あがきもしないし、努力もしないって言うんじゃ、ほんとうに、それが無駄かどうかわからないでしょ。とにかく、ダメ元でいいから、一度は努力してみるの。それも、すぐにあきらめるんじゃなくてね。そこで初めて、その努力が無駄かどうかをきめればいいの。いい、わかった」
 
 この久美子さんの戒めはいまでも、雄太の耳の奥というより、心の襞にくっきりと貼りついている。
 ふと雄太は、それを思い出した。けれどすぐに雄太は、あいつはそう簡単に言うけどね、とため息交じりに力なく首を振って、それを蔑ろにしようとする。
 萎えちゃった気力を、もう一度奮い立たせるなんて、オレにはどだいムリな話しさ、と内心つぶやきを洩らして――。
 なんといっても、人一倍めんどくさがり屋で、意気地なしの雄太であった。それだけに、こうして、半ば捨て鉢な気分になってしまうのも無理はない。
 ただ、そうなると、ちょっとややこしい。
 ウケるにちがいないからどうしても話したい、という積極的な感情と、でも怖そうだからやめとこう、という消極的な感情の、この二つの相対する感情が、雄太のなかでせめぎ合う。
 すると雄太の胸のうちは、暫時、この相克に翻弄され、ひたすら途方に暮れるばかり――。

 そんななか、わけもなく、雄太はふと、ガラス窓の向こう側の景色に目をやった。
 天高く馬肥える秋、とはいみじくも言ったものである。
 蓋しその通りの空が、遠く、高く、清々しいほどに広がっている。
 なんだか、ウジウジしているのがバカらくなるほどの、清々しい空の青さじゃないか!
 雄太は内心叫んでいた。
 自然の妙味が、優しく、ほぐしてくれる。ややこしさに、もつれてしまっていた感情の糸を――。
 すると、半ば捨て鉢な気分までも、シャキッとする。
 いまなら、話せる――さっき、一度はそう思った、おまえじゃないか。
 雄太は自分で自分を鼓舞する。
 それを、なんだ。久美子さんの気迫に気圧され、すっかりたじろいでるなんて、情けないぞ。さあ、話せ、雄太! 話すんだ!!
 妙にそわそわしてくる。
 いまなら、話せるんじゃない――自問する。
 うん、たぶん――そう、自答した雄太は、口から思いきり息を吸い込むと、いったん、それを腹の中に留めておき、やがて、ふうーと鼻孔から勢いよく吐き出した。
 そうやって、気合を入れてから、雄太はしわぶきを、小さく、ひとつ。
 それから、真っ直ぐな眼差しを久美子さんに向けて――と、思うのだが、いかんせん、それは、どうにも気恥ずかしくてしかたない。
 だから、上目づかいで久美子さんを見た雄太は「あ、あのさあ……お、面白い話があるんだよ。だ、だからさあ、レシピ本を見てないで聞いてくれる」とたどたどしく言って、「台風一過」の話をしはじめるのだった。


つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み