第6話 蛙の子は蛙 中編

文字数 2,469文字


  目の前でプレーしている少年たちはエラーの連続だった。
 だが、だからといって、少年たちには落ち込んでいる様子など微塵も感じられなかった。
 いや、それよりむしろ、屈託のない笑みを浮かべて「ドンマイドンマイ」とか、「オーライ、つぎ、つぎ」とか、それぞれがそれぞれを励ましあいながら、無心に、白球を追いつづけていた。
 それだけに、ぼくの心情の表白などは、グランドを吹き渡る風に舞って、あえなく空の彼方へと消え去るほど。
 だとしても――内心バツが悪かった。つい調子に乗って、心ないヤジを飛ばしていたからだ……。
 それでも、まあ、ひたむきな少年たちの姿を見ていたら、すっかり濁世の垢に塗れてしまったぼくの心も幾分綺麗になった、ような気がした。
 
 
 あ、いっけねぇ――いまさらのように思い出して、ぼくは内心苦笑を洩らす。
 ほら、だって、ぼくは隣に座っている翔太のことを、すっかり忘れていたのだから――。
 とってつけたように、ぼくは「と、ところでさ、翔太」と、いささか気まずそうに声をかけた。
「いよいよ、あれだな。四年生になったら、このお兄ちゃんたちみたいに少年野球チームに入れるな」
 翔太はいま、三年生。だから、少年野球チームに入れるのは来年からだ。四年生にならないとチームに入れないというのが、この街の不文律だった。
 それに――と、ぼくは思っている。
 家でゲームばかりしてるより、外で、こうして運動するほうがよほど健全でいいや、というふうに。
 そんな親としての希望もあるし、なによりぼくも野球が好きだった。だから翔太も、こうしてグランドでプレーしている少年たち同様に、来年からチームに入って、野球をするものだと信じて疑わなかった。だが――。
 翔太はグランドをぼんやりと眺めたまま、なぜか口を閉ざしている。
 どうした? 翔太。おまえ、野球は嫌いじゃなかったろう。
 ぼくは腑に落ちないという表情で、翔太を見る。
 だっておまえ、昨年のクリスマスに「パパ、野球のグローブ買って」とせがんで、あんなにぼくを喜ばしてくれたじゃないか。なのになぜ、押し黙っているんだよ……。
 いぶかった眼差をして、いまだ面影に幼さが残る翔太の横顔を、ぼくはジッと見つめた。
 二人の間に一瞬、居心地の悪い沈黙。
 やがて、沈黙を破って、翔太が蚊の泣くような声で、ぼそりとつぶやいた。
「ぼく……やらない」
 
 
 え⁈ や、やらないって、野球をか――。
「どうして、やらないんだ」
 思わずぼくはきつい口調で訊いてしまう。
「だって……ぼ、ぼく」
 そこで翔太は言い澱む。
 二人の間に、ふたたび、居心地の悪い沈黙。
 沈黙の居心地の悪さに耐えきれなくなったぼくは、それから身をかわすように、先に口を切る。
「……なあ、どうしてだよ、翔太。父さんに、そのわけを話してくれよ」
 けれども翔太は黙って、ぼくを上目遣いで見つめるだけ。
 どのような表情をしたらいいかわからなくて、ぼくはなんだか、しゅんとする。
 と、そのとき、ふとぼくは思った。
 そういえば、こんなふうに翔太と二人っきりで向き合うことなんて、いままでなかったなぁ、と。
 どうせ、いずれ話さなきゃいけないんだ――翔太の小さな心が、ちょっと背伸びしたらしい。
 その沈黙を破って、先に口を開いたのは翔太のほうだった。
「だって、だってさ……ぼ、ぼく、このお兄ちゃんたちより、もっとヘタクソなんだもん」
 
 
 え⁈ そうなの……思わずぼくは、絶句。
 野球が好きで、チームに入りたい願っている少年たちは、三年生になると友だち同士でキャッチボールをはじめる。
 振り返れば、ぼくもそうだった。翔太がグローブを買ってほしいとせがんだのも、たぶんそういう理由からだろう。
 そこで翔太は、自分の実力を自覚し、認識してしまったというのだろうか――。
「ぼく、このお兄ちゃんたちより、もっとヘタクソなんだもん」という、悲しい現実を……。
 それを認識したときの、翔太の心情。それを慮ったら、ぼくの胸が鈍くうずいた。
 うん⁈ これって?
 どうも、そのうずきが導火線になったらしかった。
 
 
 「おまえ、ほんとうに、ヘタクソだなあ……」
 振り返れば、気恥ずかしくて思わず頭を抱え込みたくなってしまう――そんな過去の苦痛の思い出が、ぼくには、ある。
 日常生活のふとした瞬間にそれが蘇らないようにと、心の倉庫にしまって厳重に鍵をかけている、そうしたいたたまれない思い出が……。
 ところが、厳重にかけていたはずの倉庫の鍵を破って、それがいま、ひょっこり、顔をのぞかせてしまったらしい。
 翔太のことが身につまされ、どうやら、その鍵は冗談のように脆く壊れてしまったようなのだ。
 そう、実はぼくも、少年野球チームの口さがない監督やコーチから、「おまえ、ほんとうに、ヘタクソだなあ」と冷然と嘲笑された、そんな過去の苦痛の思い出があったのだ。
 
 
 改めて、ぼくはグランドに目をやる。それから、グランドでいまプレーしている少年たちに向かって、ぼくは心の中で懺悔する。
 ごめんな、少年たち。これまで、キミたちのことをさんざんバカにしちゃって。なにを隠そう、ぼくは自分のことを棚に上げて、キミたちのことをけなしていたんだ。
 そもそもぼくには、人のことをとやかく言える資格などないんだ。キミたちと同様に、ぼくはとても、野球がヘタクソな少年だったんだから。
 いや――キミたち以上に、ヘタクソな少年だった、と思う。たぶん翔太と同様に……。
 キミたちはまだ、ぼくよりましなほうかもしれない。だって、こうして試合に出てるだろ。ぼくなんて、目も当てられないほどヘタクソだったから、一度たりとて試合に出ることができなかったんだ……。
 それでも、なんとか上手くなろうと、必死に努力を重ねたんだ。でもさ、現実はそんなに甘くなかった。いや、むしろ、残酷だったよ。なにせ、ぼくは背番号すらもらえなかったんだからな……。
 そんなふうに、野球に於いては箸にも棒にもかからないような実力のまま、ぼくは現在(いま)に至っている――。


つづく
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