第29話 青天の霹靂 最終章
文字数 1,264文字
もっとも、ぼくらが上司の悪口を言うとき、そこには、不完全な存在である人間が、完全な存在である神を畏怖するのに似た心情が紛れていたのではないか、というふうに、思えるのだ。
もちろん、あの上司の叱り方は、けっして褒められたものではない。いまなら、間違いなく「パワハラ上司」という、レッテルを貼られるのにちがいない。
ただ、あの上司には――ふと、ぼくは思うのだ。
あの上司なりの自負があったのではなかろうか、というふうに。
偉そうに言うだけの仕事をこなしてきたからこそ、俺は
だからこそ、ぼくたちは彼の存在を畏れながらも、その実、心のどこかで尊敬しているという、このふたつの愛憎の中で引き裂かれていたのだろう。
かつて、叱咤する上司を前にして、ぼくは、こう自分に言い聞かせて、その不条理な嵐をやり過ごしたものだ。
これは、ぼくの将来を期待してくれているからこその、叱咤だぞ、と自分に都合よく。
そういうポジティブな心持ちであったので、あの嵐をなんとかやり過ごすことができたし、こうして、半人前ながらも、なんとか営業職をこなすことができているのだろう、とぼくはいまなら思えるのだ。
ただ、そうはいっても、ぼくはどうしても、思わずにはいられない。
できることなら、もうちょっと手加減してくれたらなよかったのになぁ、とね……。
それでもやっぱり、ぼくはいまだに歯医者が苦手だ。
待合室の長椅子に腰を下ろして順番待ちをしていると、妙に心がざらざらして、なんとも落ち着かない気分になってしまう。
ふだんのぼくなら、美しい女性を前にすると、鼻の下をだらしなく伸ばしているところだ。
だが、歯医者は、その範疇ではない。順番がようやっとまわってきて、受付の美しい女性から「どうぞ、中へお入りくださぁい」と明るく声をかけられても、ぼくの表情は曇ったままだ。
やっぱ、歯医者はねぇ、というのが、どうも、本音らしい。
それだけに、ぼくは食後の歯磨きを、ちゃんと欠かさずに行ってきたのだ。柄にもなく、けなげに……。
にもかかわらず、なんの因果か知らないが、このたび、ぼくは「虫歯」というテロリストに、急襲されてしまったではないか――。
『青天の霹靂』とは、前触れなく突然に生じて人を大いに驚かせるような衝撃的な事件や出来事のことをいう――とのことだが、このたびの「虫歯」は、ぼくにとって、まさにそれであった。
毎日、歯磨きしていただけに、これは、いったいどういうことなんだ、とぼくはさっぱり合点がいかなかった。
だからといって、文字通り歯嚙みをすることはない。そう、学習していただけに……。
それでも、「虫歯」を等閑に付すと、最悪の場合、「歯を没す」ることになってしまうらしい。
それが、ぼくは怖かった。
そこで、ぼくは先日、それこそ何年かぶりに、嫌々ながらも、歯医者の門をくぐっていたのだった。
おしまい