第20話 青天の霹靂 第三話

文字数 2,130文字

 
  それでも、まあ、いつも状況に距離を置いて柔軟にぼくをさとしてくれる、そんな奥さんのことばである。まして、金言耳に逆らう――というようなことであれば、バチがあたる。
 というわけで、ぼくは、これも見識のひとつだろうと思い直して、奥さんに向けていた尖った眼差しをゆるめた。
 それと、奥さんの「ちゃんと事情を説明して、丁重にお断りするのもある意味、優しさのひとつだと思うんだけどね」ということばが、耳の奥というより、心の機微を微妙にくすぐった。
 「優しさのひとつ」であるなら、優しさはひとつの形だけではなく、むしろいろんな形があるということになる。
 こうして、お誘いを受けた場合、受けようが断ろうが、どちらにせよ、相手を嫌な気分にさせてしまう懸念があるらしい。
 なるべく、他人に迷惑をかけないでいよう――大方の人が、そう思っていることだろう。
 もちろんぼくも、日ごろからなにくれとなくお世話になっている御仁に対しては、迷惑などかけたくないし、それより何より「優しさ」で応えたいと思っている。
  ただ、ぼくは、快く受けることこそが、「優しさ」だと信じていた。だが、自分では「優しさ」だと思っていたことが、時として、仇となることがあるらしい。つまり、「優しさ」には、いろんな形がるということだ。
 そういえば――ふと、ぼくは思った。
 あれなんかも、そうだったな、と……。

 
 あれは、どんよりとした雲から冷たい雨が落ちて、気が滅入ってしまうような一日だった。
 ぼくはその朝、スポーツ紙を片手に、コンビニのレジの前に並んでいた。
 雨のせいだろうか――やけに店内は混んでいて、レジの前にも長蛇の列ができていた。
 ぼくのすぐ前には、片手におにぎりを持った女性が並んでいた。ほどなく、彼女が、やたらそわそわしだしだ。
 ま、無理もないよね、とぼくは内心苦笑交じりに思った。
 朝はだれもが、なにかとせわしないものだ。ことに、これから通勤する人にとっては、ほんの少しの待ち時間でも、そうとう長く感じられ、その焦燥感もひと通りではないはず。この女性も、そうにちがいない――そのように解釈して、ぼくは、彼女の後ろに行儀よく並んでいた。だが――。
 なんと、この彼女、手にしていたおにぎりをブルゾンのポケットに強引にねじ込むと、脱兎の如く、出口に向かって駆け出したではないか!!
 え⁈
 一瞬の出来事だった。女性が逃げてゆく、その後ろ姿。映画かドラマのようなその景色を、呆気に取られて、ぼくは黙って、見送るしかほかなかった。
 わずかな間のあとで、ハッとわれに返ったぼくは、むしょうに、腹立たしくなった。道理にもとる行為をした彼女より、呆気に取られてそこに茫然と立ち尽くしていた、そんな自分が。
 なんで、ひと言、注意しなかったんだ、と自分を強く責め立てた。
  けれど、やがて腹立たしさは薄れ、代わりに、やるせなさがぼくの胸を支配した。
 「万引き」は法律的な規範はもとより、倫理観的な規範からも、すべからく許されるべき行為ではない――むろん、それぐらいのことは認識している。
 その被害によって、知り合いのコンビニ経営者が辛酸をなめている姿を目の当たりにしているぼくだから、だれよりも切実に……。
 けれど、頭では理解しているつもりだが、心情としては割り切れなさを持て余して、首をかしげている自分もいる……。

 
 というのも、世間を見渡せば、不条理な現実が厳然と横たわっているからだ。
 たとえば、七人にひとりの子供が貧困であるという。それが、社会問題化している時代でもある。
 となれば、中には生きていくための悪というエゴイズムで、やむなく、法律的規範にもとる行為を働いている人だっているやもしれぬ。
 これも、昨今の、いや昔からある悲しい現実のひとつの側面だ。それを思えば、その現実から、けっして、目を逸らしてはならないぼくたちだ。
 もっとも、彼女が、そういう事情を抱えている人だったか。それは、もちろん、知る由もない。それより、ひょっとしたら、なんの罪の意識もなく、ただ単に悪を働いた人かもしれない。
 が、何にせよ、犯罪行為をしている人を前にして、黙って見過ごしてしまったのもまた、事実。それだって、つきつめれば不作為という、法律的規範にもとる行為だ。したがって、ヒトのことをとやかく言えた義理ではないぼくでもある。
 それもさることながら、彼女が本当に貧困に苦しんでいる人だったらーーそれを思えば、胸が痛くなる。貧困ゆえに、やむなく、生きるための悪というエゴイズムを働く女性。そういう人たちが、少なからずうごめいている社会。
 そうかと思えば、万引きが横行して経営に苦しんでいる経営者たち。
 できることなら、どちらに対しても「優しさ」のお裾分けをしてあげたい、とぼくは思う。
 でも決定的にぼくは、無力な人間だ。それに、こういう場合、どういう形の「優しさ」をお裾分けしたらいいのか、それがわからない。
 それからすると、「優しさ」って、いろんな形があるし、そして何より、やっぱり、難しい。
 奥さんのひとことで、「優しさ」について考えていたら、その奥深さを、ますます、垣間見たような気がした、ぼくだった。


つづく
 
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