第9話 悪業の猛火 其のニ

文字数 1,806文字

 
「ここまで逃げてきたらもう安心だぜ、って言ってたじゃない……それも、あんなに自信ありげにさ」
 窓の外の景色をうらめしそうに眺めながら、太っちょが非難めいた口調でつぶやいた。
「だというのに、窓の外は、この吹雪……これじゃ、安心どころか、むしろ命すら落としかねないよ」
 太っちょはそう言うと、しゅんと肩をすぼめて、うなだれた。
「せいぜい一週間の我慢さ――」
 そう瘦せっちょは、自信ありげに言っていたのだ。
「もうすぐ、その一週間だよ……ほんとうに、吹雪はおさまるのかね」
 そんなふうに、太っちょが疑心暗鬼になるのも無理はない。
 この山小屋に逃げ込んできてから、はや六日。それにもかかわらず、吹雪は、いっこうに、おさまる気配を見せない。それよりむしろ、その勢いはいや増すばかり。
 一方、囲炉裏の中で薪が爆ぜるのを苦々しく眺めながら、これを聞いていた痩せっちょは頬に含羞の色を浮かべて、内心つぶやきを洩らす。
 ああ、たしかに、言ったよ。これまで、この山小屋が一週間以上、吹雪に閉ざされたっていう記録はないんだ。だから俺は、そう言ったまでよ、というふうに。
 極寒のさなかに、この山小屋に逃げ込むにあたって、瘦せっちょは、その辺の事情を実に念入りに調べていた。そうした情報を得ていたので、瘦せっちょは、あえて積極的にこの雪深い山中に分け入っていたのだ。
 
 
 ところが、悠久の大自然は、あまりにも冷酷だった。いつまでも窓の外で猛威を振る、この吹雪のように――。吹雪は、山小屋をつつんで、遠くから、ヒャーという女の悲鳴のような音を集めて、やって来る。
「腹でも満たさなきゃ、やってられねぇや」
 そう言って、太っちょは、傍らに置いたリュックの中から缶詰めを取り出した。
 はちきれんばかりの食料を詰めたリュックを背負って、二人は、ここまで逃亡してきた。したがって、つつましくしてさえいれば、たぶん食料は、十日くらいは持つのだろう。
「だからといってさ」と太っちょは、いかにもやりきれないという感じで力なく首を振って、つぶやく。
「いずれ、薪がなくなって凍死するのなら、こうして腹を満たしたところで骨折り損のくたびれ儲け、ってヤツさ」
 いつもなら、瘦せっちょはムッとして、ここで太っちょの頭を一発はたいているところだ。
 そうやって、つぶやいている割には、缶詰めの中身を一心不乱に頬張っているのだから。
 きょうはけれど、瘦せっちょは黙って、それを聞いている。よほど、この山小屋に逃げ込んできたことを、彼は恥じているらしい。
 それもそのはず。
 なにしろ、この山小屋にたどり着く前まで、瘦せっちょは「あの山小屋へ逃げさえすれば助かるんだ」と自信ありげに言っていたし、山小屋にたどり着てからも「ここまで逃げてきたらもう安心だぜ」と、これまた自信ありげに言っていたからだ。
 しかしながら、現実は、彼の思惑に齟齬をきたす。猛威を振るう吹雪は、山小屋に逃げ込んだ二人の命を、無情にも、奪おうとすらしていた――。
 
 
 こんなはずじゃなかったんだがな……。
 瘦せっちょは、理性的な男だった。がしかし、さしもの知性を誇る彼も今回ばかりは下手を打ってしまった。
 それゆえ、太っちょに非難めいた口調でつぶやかれても、むしろ、頬に含羞の色を浮かべるばかり。ただ内心舌を打ってため息を洩らして。
 だが、それで割を食ったのは、太っちょだ。
 太っちょは瘦せっちょを信頼して、ここまでついてきた。それなのに、このありさまである。ほんとうは、だから、舌を打ってため息をつきたかったのは、太っちょのほうだった。
 そんな太っちょは、小屋の中に積まれてある薪を眺めて、複雑な笑みを浮かべる。
 見ると、薪は、ほとんど底を尽きそうになっているからだ。
 もしこのまま、吹雪がおさまらなかったら……。
 そう思いながら、太っちょは窓の外の景色と薪とを交互に眺める。
 ますます、吹雪は猛威を振るっている。にもかかわらず、山小屋の中の薪はほとんど底をつきそうになっている。この皮肉が可笑しくて、太っちょは複雑な笑みを浮かべるのだった。
 天網恢恢疎にして漏らさず――だしぬけに、そんなことばが、太っちょの頭をよぎる。
 天は、悪いことをした者総じて、必ず、罰をくだすのだという。 
 その通りになっちまったな。
 ため息をついてうなずくと、腹が満たされた太っちょはなんだか、まぶたが重くなってきた。


つづく
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