第22話 青天の霹靂 第五話

文字数 1,812文字

 そんなぼくの脳裏にふと、ある単語が浮かんできた。
 それは「イジメ」という、なんとも淋しくて、悔しくて、やりきれない単語だった。
 ため息交じりに、そうなんだよなあ、とぼくは思う。
 とかく、この世は住みにくい――とは夏目漱石『草枕』の一節だが、たしかに、人生は皮肉で、社会は矛盾で満ちていて、ひどく住みにくい。
 漱石の昔から現代に至るまで、とかく、この世は住みにくいものなのだ。
 皮肉にも、「正義」が「正義」として受け入れられないことがある。残念ながら、それが現実の救いのなさでもある。
 自分では「優しさ」や「正義」のつもりで忠告したのに、それを逆恨みされて「イジメ」にあってしまうことが、おうおうにしてあるのだ。
 つまり、「優しさ」とはと問われて、ぼくのように「模範解答」が「正しい」と短絡的にとらえてはダメなのだ。それより何より、それが仇となってしまう懸念すらあるという、そうした見識も持たなくてはならないのである。
 なんといっても、世間には「小さな親切、大きなお世話」という、皮肉的な慣用句さえあるのだから。
 
  
 では、この場合、どう息子に答えてやればいいのか――そうした不可知論的な迷路に、ぼくは迷い込んでしまった。
 その時、ある人の本の中の件が、ふと頭をよぎった。
 さっそく、ぼくは本棚から、その本を引っ張り出して、ページをめくってみた。こう記してある。
「失恋してしまいました。この苦しみから逃れられる方法はないでしょうか。十八歳・男子」といった紋切り型の悩みにはこれも紋切り型の必殺回答技がある。「きみ、つらいだろうが、それが『人生』というものだよ」
 この『人生』さえ使えばたいていのことは逃げ切れるのである。受験に失敗しました――それが人生だ。両親が離婚しました――それも人生だ。彼女とDまでいってしまいました――まあ、人生だ。とにかくね、きみ、人生なんだよ、ね?
 
(中島らも・僕にはわからない〉より
 
 と、まあ、こんな感じ。
 この件は、いつ読み返してみても、クスッと笑ってしまう。相変わらず面白い「オッチャン」やな、と思わずニヤケてしまうのだ。
 でもこの「相変わらず」は、記憶の中で時を止めてしまった。
 なぜなら、面白い「オッチャン」は、もうこの世にはいないからだ。残念ながら、五十二歳の若さで中島らもはその生涯を閉じてしまった。
 そして、はやぼくは、この「オッチャン」の歳に並ぼうとしている。だとしたら、たぶん中島らもは遠い空の雲の上から、こう言って、苦笑しているのではなかろうか。
「オッチャンにオッチャンって、いわれたくないわ」――ってね。
 
 
 それはさておき、ぼくは仮説の質問をこの『人生』の必殺回答技で答えてみるのはどうだろうか、と思いついたのである。
息子:「ぼくはどうしたらいいの」
ぼく:「友達のそんな場面を見て悩む。それも、まあ、人生だ」 
 いや、これはいただけない。これでは息子ばかりか、だれだって説得できやしない。ただ悩むだけの『人生』では、なんの解決にもならないと、だれしもが思うからだ。
 この難問の前では、さしもの「オッチャン」の必殺回答技『人生』も、何の役にも立たないのである。
 とはいえ、ここで気の利いた回答の一つぐらいはしてやらないと、それこそ、オヤジとしての「権威」が損なわれてしまう。
 ぼくは、ふたたび、深い闇の迷路を彷徨いだす。
 
 
 たしかに、「優しさ」というヤツは、人間関係においてはなくてはならないものだ。  
 人と人とを繋ぐ、潤滑油としての役割を果たしてくれるからだ。
 がしかし、「優しさ」はその一方で、こうして、とても複雑でややこしくもある。
 ぼくの単純な頭脳では、だからこんな複雑な問題は到底解決できない――そう匙を投げかけていた。
 ところが、人生、捨てる神あれば拾う神あり、とはいみじくも言ったもので、ぼくの脳裏に、さながら天使のいたずらのような素敵なアイデアが、ふわっと舞い降りてきたではないか。
 これ幸いと、ぼくは屈託のない笑みを浮かべて、息子に、さっそく、こう教えてやるのだった。
「父さんには、どうも、この難問は歯が立ちそうもないらしい。したがって、母さんに聞いてみてくんないかい」
 そうやって、正直に答えてやるのが、きっと〈わたしにとっての優しさ〉にちがいない――姑息にも、そう結論づけて、すたこらさっさと逃げ出す、そんな減点パパなぼくだった。
 
 
つづく
 
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