第35話 台風一過 その六
文字数 1,661文字
雄太が夢想に耽っていることで、リビングルームに、ふたたび、静寂が訪れている。
その沈黙を破って、久美子さんが口を開く。
「ふふ、ユウタくん、あたしの間抜けな話はね……」
固唾を呑んで、雄太は、久美子さんの煽情的な唇を見つめる。
「……波浪注意報の、『はろう』なの」
「波浪注意報の、はろう……」
オウム返しで、雄太が訊く。
「そう。どうして、『ハロー』って言わないようにしようっていう注意報が出るんだろう……それが、すごく不思議でしょうがなかったんだ」
久美子さんはそう言うと、「ね、間抜けでしょう、ユウタくん」といたずらっぽい目で雄太を見て、ふと奇妙な表情を浮かべた。
あ、また、例の表情だ!
それを見た雄太は、その表情がなぜかひどく残酷で切ないことのように思えてしかたなかった。
それもムリはない。
またしても、久美子さんの面持ちに、憐みのような、慈しみのような、そんな表情が浮かんでいたのだから。
ガクンと肩を落としてうなだれ、雄太はひとりごとのようにつぶやく。
「なんだよ、ちくしょう……やっぱり、そうなんじゃん」
残念ながら、雄太の懸念は杞憂に終わることはなかった。
色をなして、雄太は内心つぶやきを洩らす。
やっぱり、久美子のやつ、オレの話に黙って耳をかたむけながら、オレよりも何か面白い話はないか、というふうに、創作に余念がなかったんだ。それを、あの表情が如実に物語っていやがる、チクショウメ、と。
一方で、久美子さんは「ユウタくん」と含み笑いで言って、「やっぱりって、どういうことかしら」とあくまでも白を切っている。
「あ、あのなあ……」
いかにもくやしそうに、雄太がつぶやく。
「おまえは結局、そういうやつなんだよ」
「あら」と久美子さんは涼しい顔で、「そういうやつって、どういうやつかしら、ユウタくん?」とからかうような口調で言う。
チッ!
思わず雄太は舌を打つ。
ど、どういうやつって、おまえなぁ……。
負けず嫌いにおいて久美子さんは「この界隈一番」ともっぱらの評判。
おまえは、だから、そういうやつなんだよ、と雄太はしかめっ面で吐き捨てるように説明するのだった。
「あら、あたしそんなに有名なんだ」
へえ、それは知らなかったなあ、というふうに、久美子さんは悪びれる様子もなくシレっと言って、コーヒーの入ったマグカップに手を伸ばすと、それを、さも美味しそうにすすった。
こうして、負けず嫌いの久美子さんは、なにかと雄太に対抗心を燃やしている。
はたして、これは、そういう性分由来のものなのだろうか。
雄太は、久美子さんの煽情的な唇を眺めながら、首をかしげる。
するとそのとき、雄太はふと、思い出す。
その答え合わせがしたくて、先日、ぶらっと本屋に立ち寄ったことを――。
何かヒントになるような本はないかな、そう思いながら、何気に手にした本のページをめくっていると、ある件 にふと目がとまって、思わず雄太は、ほお、とうめいていた。
そこには、こんなふうに記されていた。
『相対的ということを念頭に置いて思惟するなら、人間という生き物は高みに立って他者を見下ろし、常に優越感に浸っていたいという、そうした属性を有した存在である』
雄太には、ちょっと難解な文書だった。
それでも、まあ、著者が言わんとしていることくらいは、なんとなく理解ができた。
そのときのことを念頭に置いて、雄太は思う。
その顰に倣えば、久美子も、しょせん、その範疇にすぎないってことだな、というふうに。
それを思えば雄太の頬が勝手にゆるむ。
逆に、そんな雄太を見ていた久美子さんの頬はふいに、こわばる。
「ユ、ユウタ! なにがおかしいのよ?」
「え……な、なんでもないよ」
雄太は口ごもりながら、久美子さんからスッと目をそらす。
そして雄太は、あ~あ、と内心ため息交じりに悔恨の念に駆られる。
オレ、どうしてこんなやつと一緒になっちまったんだろうなぁ、と思って。
もちろん、すごくおっかないから、口が裂けても、それは言えない雄太であったが……。
つづく
その沈黙を破って、久美子さんが口を開く。
「ふふ、ユウタくん、あたしの間抜けな話はね……」
固唾を呑んで、雄太は、久美子さんの煽情的な唇を見つめる。
「……波浪注意報の、『はろう』なの」
「波浪注意報の、はろう……」
オウム返しで、雄太が訊く。
「そう。どうして、『ハロー』って言わないようにしようっていう注意報が出るんだろう……それが、すごく不思議でしょうがなかったんだ」
久美子さんはそう言うと、「ね、間抜けでしょう、ユウタくん」といたずらっぽい目で雄太を見て、ふと奇妙な表情を浮かべた。
あ、また、例の表情だ!
それを見た雄太は、その表情がなぜかひどく残酷で切ないことのように思えてしかたなかった。
それもムリはない。
またしても、久美子さんの面持ちに、憐みのような、慈しみのような、そんな表情が浮かんでいたのだから。
ガクンと肩を落としてうなだれ、雄太はひとりごとのようにつぶやく。
「なんだよ、ちくしょう……やっぱり、そうなんじゃん」
残念ながら、雄太の懸念は杞憂に終わることはなかった。
色をなして、雄太は内心つぶやきを洩らす。
やっぱり、久美子のやつ、オレの話に黙って耳をかたむけながら、オレよりも何か面白い話はないか、というふうに、創作に余念がなかったんだ。それを、あの表情が如実に物語っていやがる、チクショウメ、と。
一方で、久美子さんは「ユウタくん」と含み笑いで言って、「やっぱりって、どういうことかしら」とあくまでも白を切っている。
「あ、あのなあ……」
いかにもくやしそうに、雄太がつぶやく。
「おまえは結局、そういうやつなんだよ」
「あら」と久美子さんは涼しい顔で、「そういうやつって、どういうやつかしら、ユウタくん?」とからかうような口調で言う。
チッ!
思わず雄太は舌を打つ。
ど、どういうやつって、おまえなぁ……。
負けず嫌いにおいて久美子さんは「この界隈一番」ともっぱらの評判。
おまえは、だから、そういうやつなんだよ、と雄太はしかめっ面で吐き捨てるように説明するのだった。
「あら、あたしそんなに有名なんだ」
へえ、それは知らなかったなあ、というふうに、久美子さんは悪びれる様子もなくシレっと言って、コーヒーの入ったマグカップに手を伸ばすと、それを、さも美味しそうにすすった。
こうして、負けず嫌いの久美子さんは、なにかと雄太に対抗心を燃やしている。
はたして、これは、そういう性分由来のものなのだろうか。
雄太は、久美子さんの煽情的な唇を眺めながら、首をかしげる。
するとそのとき、雄太はふと、思い出す。
その答え合わせがしたくて、先日、ぶらっと本屋に立ち寄ったことを――。
何かヒントになるような本はないかな、そう思いながら、何気に手にした本のページをめくっていると、ある
そこには、こんなふうに記されていた。
『相対的ということを念頭に置いて思惟するなら、人間という生き物は高みに立って他者を見下ろし、常に優越感に浸っていたいという、そうした属性を有した存在である』
雄太には、ちょっと難解な文書だった。
それでも、まあ、著者が言わんとしていることくらいは、なんとなく理解ができた。
そのときのことを念頭に置いて、雄太は思う。
その顰に倣えば、久美子も、しょせん、その範疇にすぎないってことだな、というふうに。
それを思えば雄太の頬が勝手にゆるむ。
逆に、そんな雄太を見ていた久美子さんの頬はふいに、こわばる。
「ユ、ユウタ! なにがおかしいのよ?」
「え……な、なんでもないよ」
雄太は口ごもりながら、久美子さんからスッと目をそらす。
そして雄太は、あ~あ、と内心ため息交じりに悔恨の念に駆られる。
オレ、どうしてこんなやつと一緒になっちまったんだろうなぁ、と思って。
もちろん、すごくおっかないから、口が裂けても、それは言えない雄太であったが……。
つづく