第1話 蟷螂の斧 前編

文字数 1,196文字


 街はきのう、冷たい雨にひっそりと沈んでいた。
 きょうはけれど、天気は一転して、空からぬくもりのある陽の光が降り注いでいる。
 そんな小春日和の、のどかな昼下がり――。
 開け放った窓から、風とは呼べない気持ちいい空気が部屋の中なへ流れ込んでくる。しかもそれが、儂の心の中にまでしっとりと流れ込んでもくる。
 晩秋とはいいながら、透き通った空の青さから降り注ぐ暖かい陽の光は、儂の心に英気すら連れてきてくれる。若きしころの漲(みなぎ)った英気が、たしかに、儂の心の中に帰ってくるのだ。
 そればかりではない。ひどく気が滅入っていた気分を、きょうの天気のようにスッキリと晴らしてもくれる。
 こうして、心が晴れやかになれば、つい口も軽(かろ)やかになってしまう。
「にしても、いい天気じゃのう、婆さん。こうも陽気がいいと、英気までもが養われる気分じゃよ」
 いつになく、明るい顔と口調で、儂は婆さんに語りかけた。だが――。
 なんとか鑑定団というテレビの再放送の視聴に余念がない婆さんは、つまらなさそうな顔で儂をチラ見するだけで、なにも応えてくれずに口をつぐんでいる。
 この婆さんのつれない態度に、今まで養われていた英気が若干萎えてしまった、ような気がした……。
 
 
 生きている以上、いいこともわるいこともやってくる。けっして、どちらか一方ということはない。ただ、カミサマは意地悪で、どちらかというとわるいことを寄越すことの方が、多い。
 もちろん、儂もその例外ではない。
 現に、儂のところにもやってきた。婆さんにつれなくされても仕方ないような、そんなわるいことが……。
 では、どんなわるいことがやってきたかというと、なんのことはない、風邪をこじらせて、長く床に臥してしまったのだ。それで婆さんの手をずいぶんと煩わせてしまった。それで、いくら婆さんにつれなくされたとしても、返すことばがないのだった。
 もっとも、かつて英気が漲っていたころは、そんなことはなかった。たとえ今回のように婆さんの手は煩わせたとしても、それはそれと遠慮なく割り切って、「おい、風呂、飯、寝るぞ」と、いつもの命令口調で接したものだ。
 ところが、すっかり気力が萎えてしまったいまは、それどころの騒ぎじゃない。
 仮にいま、そういう横柄な態度をとったなら、向こう見ずに闘いを挑む蟷螂の斧の如しで、たぶん、いや、きっと、愛想をつかされて、とっとと出て行かれるのがオチだ。
 最近は、だから、いくら婆さんから「爺さん、ゴミ捨てといて」とにべもない言い方で頼まれても、「はい、わかりました」と、むしろニッコリ微笑んでうなずくしかない……。
 ただ、そうはいっても、やっぱり、釈然としないところがあるには、ある。
 したがって、そういうときは、自虐交じりに「♪わたし馬鹿よねぇ、おばかさんよねぇ」と口づさんで、どうにかこうにか、折り合いをつけている。

 
つづく
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