第22話 青天の霹靂 第四話
文字数 1,846文字
「優しさ」について考えていたら、ふと脳裏に、ある物語の一節が浮かんきた。
それは、フランスの小説家、ビクトル・ユーゴーの不朽の名作『レ・ミゼラブル』の一節だ。
たしか、こんな感じだった。
『一切れのパンを盗んで牢獄に入れられた主人公ジャン・バルジャンは、十九年ぶりに世の中に出る。ようやく世の中に出てきたジャン・バルジャン。しかし、一切れのパンの盗みにしてはあまりにも長い牢獄生活。当然、彼はそのことで社会を憎み、天を恨んでいる。
それゆえに、彼はたとえ自分が社会に不当を働いたとしても、社会が自分に不当を働いた以上、それはおあいこではないか、と自分に都合よく言い聞かせている。
そんな彼は、食事と一夜のベッドを与えてくれたミリエル牧師が持っていた銀の食器を盗んでしまう。警察に捕まったジャン・バルジャン。
けれど、彼は警察に対して、これはあくまでも牧師にもらったものだと言い張る。それでは牧師に確認しよう、ということで警察は彼を牧師のところに連れていく。
彼が盗んだことを承知で牧師は「これは彼にあげたものです」と証言をして、彼を救ってやる。
このとき牧師は、ジャン・バルジャンに近づき「決して忘れてはいけませんぞ、この銀の器は正直な人間になるために使うのだとあなたが私に約束したことは」と耳元でそっと囁いている。
つまり牧師は、ジャン・バルジャンが将来まっとうな人間になれるなら、ここは噓も方便で、彼を救ってやることこそが〈わたしにとっての優しさ〉だ、と信じたのだった』
と、まあ、こんな感じ。
ここで、ぼくも、コンビニの窃盗事件とこのレ・ミゼラブルの一節とを踏まえながら、〈わたしにとっての優しさ〉について、考えてみようと思う。
その上で、料亭の返事をするのも悪くないな、とぼくは考え直したからだ。
そこで、ぼくはまず、こういう仮説を立ててみた。
ぼくにいま、中学生の息子がいるとする。その彼から、こういう質問を受けたら、ぼくは、どう答えたらいいか――というもの。
彼からの質問は、こんな具合。
「仲のいい友達が、いままさにぼくの目の前で万引きしようとしてるのね。そんなとき、いったい、どういう態度をぼくはとったらいいのかなあ?」
あなたなら、この質問に対して、どういう答えを導き出すだろう……。
ぼくは、ぼくなりに、こういうふたつの答えを考えてみた。
一つは、ミリエル牧師が、ジャン・バルジャンに対してとった行動を参考にしたものだ。
「そういうときは、たとえそれが良くないことだとわかっていても、目をつぶって見逃してあげる。それが、本当の『優しさ』だし、友情ってもんだよ」
――というもの。
そして、もう一つは、こんな感じ。
「いつか大人になって『あのときのキミの忠告のお陰で、ぼくは救われた』と喜んでもらえると信じて、たとえそのときは嫌われたとしても、勇気をふるって『そんなことをしちゃダメだよ』と忠告してあげる。それが、本当の『優しさ』だし、友情ってもんだよ」
――というものだ。
ただし前者の回答には、あきらかな瑕疵がある。
なぜなら、牧師はジャン・バルジャンの良心を信じたからこそ、嘘も方便で彼を救ってやったのだ。それに対して、ジャン・バルジャンは、牧師の「優しさ」の意味を理解していたからこそ、自分の不当を悔い改め、後に、まっとうな人間になることができたのである。
そう考えたとき、道理にもとる行為をしている友達に対して、ただ単に目をつぶって見逃してやるというのでは、本当の意味での「優しさ」には繋がらないのではないか、と思うのだ。
それどころか、その友達は息子の「優しさ」につけ込んで、腹の中では、しめしめとほくそ笑んでいるやもしれぬ。
だとしたら、彼は道理にもとる行為を悔い改めるどころか、ふたたび、同じ過ちを繰り返してしまう懸念すらある。
これでは、息子の問いに対する答えになっていない。
こういう場合、「模範解答」という観点からも、あるいはオヤジとしての面子を立てるという観点からも、後者の方が「正しい」と答えてやるのが適当だと思われる。
ただし、この結論に対しては十分、納得していない自分がいる。
なぜなら、件の「料亭」へのお誘いの一件があるからだ。
あれには、時として、「優しさ」が仇になってしまうという、存外な矛盾が孕んでいた。
となれば、あながちこれが正解とはいえない。
そう思い直したぼくは「優しさ」について、ふたたび、思量を広げてみるのだった。
つづく