第36話 台風一過 その七

文字数 2,141文字

 
 二人は同じ町内会に住む幼馴染で、久美子さんは雄太より四歳年上の、いわゆる姉さん女房だ。
 物心ついたとき、雄太はすでに久美子さんから、「ユウタ、ユウタ」と呼び捨てにされていて、それは大人になったいまでもずっと変わらない。
 そんな二人はやがて必然的に、ひとつ屋根の下で暮らしはじめ、さらにまたこれも必然のごとく、雄太は久美子さんの尻に敷かれるようになる。
 考えてみりゃあ、長い付き合いだよなあ。なんたって、オレが幼稚園に通ってる頃からの付き合いだもの……。
 雄太は今年、厄年を迎えた。
 そのようなわけで、二人の付き合いは、ずいぶんと長い。
 時に、雄太はベッドに入って、二人で過ごした歳月を指折り数える、そんな夜がある。
 でも雄太は、とりわけ面倒くさがり屋だ。  
 なので、それは途中で挫折してしまい、ふと気がつけば、「ありゃまあ、朝じゃん」と思わず苦笑することのほうが、どちらかというと、多い。
 
「ねえ、ねえ、ユウタくん」
 またしても、久美子さんが上目遣いで、いたずらっぽく雄太を見てつぶやく。「あのさ、もうひとつ間抜けな話を思いついちゃった……じゃなくて、思い出したの。だから、ねぇ、ちょっと聞いてくれる」
 やれやれ――久美子さんに鋭い一瞥をくれて、雄太はため息をつく。
 こういうのを語るに落ちる、っていうんだよ、まったく、と顔をしかめて。
 またひとつ、久美子の創作が重なるのか――それを思えば雄太のため息は、ますます、深く長くなる。
 そんななか、雄太は、そうだ、と膝を打つ。
 こういうときは、洗車を口実に、この場から逃走するのにかぎる、と思いついて。
 でもなあ、と雄太はすぐに思い直す。
 そもそも、この勘違いした間抜けな話は、オレから言いだしたんだもんなあ、とまたひとつため息を重ねて。 
 そうなのだ。なんのことはない、いまの状況を招いたのは、雄太自身なのだ。
 なにせ、台風一過の空があんまり青かったものだから、つい調子に乗って、過去の間抜けな話を久美子さんにうっかり披露してしまったのが、ことのはじまりなのだから。そうすれば、このような事態に陥るのがわかっていたにもかかわらず……。
 そうだとしたら、と雄太は自分で自分に言い聞かせる。
 聞いてやるしかないんじゃないの、というふうに。
 ただ、そうはいっても、雄太はなんとなくどこか心の片隅に割り切れなさを持て余してもいる。
 さながら、焚き火の燃えかすのような悔しさが、どこか心の片隅でくすぶっているのだ。
 それだけに、思わず雄太は「で、どんな話なんだよ」と、半ば捨て鉢気味に、にべない言い方で訊いてしまう。
 
 もっとも、こういう時の久美子さんは確信犯だ。
 それゆえ、雄太のにべない言い方など、全然、意に介さない。
 それより、間抜けな話だから、ほんとうは、照れくさそうな顔をしなくてはならないのに、むしろ、彼女は自慢げな表情をその面持ちに浮かべてすらいる。
 なんだよ、久美子のやつ、わたしの辞書には「悪びれる」ってことばなんてなくてよ、とでも言いたげな憎々しい顔しやがって――。
 それが、雄太にはむしょうに腹立たしくてしかたない。
「それで、どういう話かっていうとさ」
 そういう雄太の心の事情などお構いなしに、久美子さんが口元をゆるめて、得々と語りはじめる。
「台風や地震なんかの自然災害が生じると、よく電車が『ふつう』になりましたっていう、そんなニュースが流れたりするじゃない」
「え……ああ、流れるね」
「あたし、それをね『普通』と勘違いしていたの」
 久美子さんはそう言うと、「ほら、このふつうね」と人差し指で、宙に「普通」と書いて見せた。
 ふん、「不通」を「普通」と勘違いしたっていう、いま創作したおはなしね、というふうに、雄太は鼻白む。
 ところが、その一方で、なんだか面白そうだから、聞いてみたいな、と大きく矛盾に引き裂かれている自分がいたりもする。
 このように、意気地なしで、面倒くさがり屋で、その上、無節操で、とんとしまりのない、そんな雄太であった。
 
 久美子さんが、さらに話をつづける。
「そのとき、思ったの。あ、そっか、豪雨とか強風とかの影響で電車の運行に支障をきたしてしまったんだな、って。それで、『特急』や『急行』が徐行運転を余儀なくされた結果として、全ての電車が『普通』になってしまったということか、ともね。あたしさ、それを高校生になるまで信じてたの……そしたらさ――」
 久美子さんは、そこで言葉を区切ると、テーブルの上のマグカップを手にとり、そこに注がれているコーヒーを、さも美味しそうにすすった。
 雄太も、久美子さんにつられてコーヒーをすする。
 でもそれは、さっきより、ちょっとぬるくて、妙に苦みが増しているような、そんな気がしてならなかった。
 こんちくしょうめ――久美子さんとコーヒーの苦味に八つ当たりするように、雄太は歯嚙みする。
 それにしても、あれだな――それと同時に、雄太は内舌心を巻いてもいる。
 こんな短時間に、この話をさくさくと創作したっていうのか、と感心して。
 もしそうだとしたら、久美子のやつ、おそろしく機知に富んでいやがる。やっぱり、オレにははなから勝ち目なんてないってことか、とも思って。


つづく
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