第4話 鳶が鷹を生む 後編
文字数 2,496文字
そうだ、この目は 早く、例のやつで――という、あの目だ。
はいはい、とわたしは内心ため息をついて、スマホを手にとる。
実は息子は最近、わたしに匙を投げていた。
わたしはもとより、自分が語彙力が低いというのを自覚してるし、認識している。それだけに、たとえ息子に難しい言葉を尋ねられても、まるっきり応えられない。そんなわたしを見て、息子は突然、考えた。そして、閃いたらしい。
まったくあてにならないわたしに頼るより、スマホの辞書機能に頼ったほうがよっぽどましだ、ということを
そう、毎晩のように、こうして息子がわたしの前に現れるのは、なんのことない、スマホが目当てだったというわけ――。
けれど、それにしたって、さっぱり合点がいかないわね。人間のわたしより、機械のスマホのほうが大事だなんて……。
でもそれは、まあ、身から出た、えーと……あ、そう、錆だから仕方ないのか。わたしは若きしころ、まったくといっていいほど勉強しなかったのだから……。
ただ、そうはいっても、わたしは今回の一件で僥倖にめぐりあえてもいた。
というわけで、災い転じて……あれ⁈ と、とにかく、あれよ、こういう言葉がわからないときはこれでさくさく調べることができるという、そんな僥倖にわたしはめぐりあえていたの。
え! いまごろ?
という声が、どこかから聞こえてきそうだ。
まあ、そう驚くことなかれ。
わたしは語彙力が低いのもさることながら、かなりの機械音痴でもあるのだから……。
うん⁈ でもちょっと待って――ふと、わたしは首をひねる。
なぜなら、彼には先日、国語辞典を、それも、けっこう奮発してとびきり高いやつを買ってあげたばかりなのだ。
「ぼくは、スマホのほうがいいんだけど……」
そのとき、息子はそう言って、唇をとがらせていた。
けれど、そのときはパパが「スマホは中学生になってからにしろ。いまはママの使って辛抱してればいいんだ」と言って、息子の要求を拒んでいた。
そうよ、先日買ってあげた事典で調べればいいのよ、というふうに、わたしは非難めいた眼差しで、息子を見る。
見ていると、ふっと、わたしの頬がほころんだ。ひょっとして、これはあれじゃない、と自分に都合のいいように思って。
たぶん息子は、わたしにまだ甘えたいんだろう、と。だからこうして毎晩、わたしのところへくるんだわ、とも。
なんだ、キミ、可愛いじゃん、うふふふ。
そんな妄想を勝手に弄んでいたら、ふいに、息子の視線がわたしの美形(?)に、鋭く、突きささっているのに気づいた。
はは、そうでした、そうでした。ちょっと待っててくださいね、いますぐ調べますからね、とわたしは内心苦笑しながら、スマホを手にする。
え〜と、雨だれ石をうがつ――それを、ヤホーで検索。あったわ、どれどれ。小さな努力でも根気よく続けてやれば、最後には成功する、とある。
「へぇ、こういう意味だってさ」
さっそく、息子に検索した内容を見せてあげる。
「ふーん、小さな努力でも根気強くね。なるほど、そういう意味か。わかった、ママ、ありがとう」
ちょこんと首を垂れると、息子は自分の部屋に、そそくさと戻っていくのだった。
やれやれ、とわたしは深く、ため息をつく。
ただ、そうやってため息をつきながらも、わたしは、まんざらでもない様子で彼の後ろ姿を見送る。
だって、心なしか頼もしい背中に見えてくるんだもん。もしかすると、これって、鳶が、あれっ⁈ えーと、なんだったっけ――そうだ、こういうときこそ、スマホ、スマホ。
えーと、あった、これだわ。なになに、鳶が鷹を生む。そう、これだわ。きっと、これにちがいないわ。将来が、楽しみだね、うふふふ。
といって、親バカかもしれないけど……。
その翌日――。日曜日の昼下がり。
頭上を見上げると、そこには雲ひとつない空の青さが広がっていた。その青さが、とりわけ目にまぶしくて仕方ない。なんといっても、最近、やたら天気が悪かったからだ。
きょうは、久しぶりに、格好の洗濯日和となった。それで、そうとうたまっていた洗濯物を、わたしは朝から、額に汗しながら、せっせと、洗っていた。やがてわたしは、それを干そうとして、ベランダに出た。
あれ? 息子が、ベランダの隅っこにしゃがみ込んで、なにかやっている。
キミは、そこで、なにを?
わたしはけげんそうな顔をしながら、背中越しに、ひょいと、彼の手元を覗き込んだ。
え! ジョロ⁈
見ると、彼はジョロを片手に、なにかに向かって、ちょろ、ちょろ、と水を垂らしている。
「いったい、キミは、そこでなにをしてるの?」
わたしは思わず訊いてしまう。
すると息子は、わたしのほうに、ゆっくり、首をめぐらせて、神妙な顔と口調で言った。
「あのさ、小さな努力でも根気よくつづけていれば、最後には成功するんでしょ」
「え! あ、う、うん……」
それって、昨夜の、あれね――。
「だったらさ、こうして毎日、地道に水を垂らしていたら、いずれ、この石にも穴が空くんじゃないのかなぁ、って思ったんだ」
息子がジョロで垂らしていた先にあったのは、どこで拾ってきたのか、わりと大きな石だった。
ふーん、なるほどね――って、感心している場合じゃないわ、とわたしは内心苦笑する。そして、自分に言い聞かせる。
こういうときは感心してないで、キミ、ちょっと変わってるわよ、って呆れて見せなきゃいけないんじゃないの、と。
だって、そうしないと、将来、ろくでもない大人になっちゃうわ。たとえば、どこかの国の首相のバカ息子のように、とんでもない不謹慎をしでかし、それで、周りの人たちから嘲笑されるという大人に――。
あ、でも、あれだわ、とわたしはすぐに思い直す。
なぜなら、わたしも幼少の折、母から「あんた、ちょっと変わってるわよ」と呆れられて、いまにいたっているのだから。
だとしたら、これは、あれね。鳶が鷹を生むというよりは、むしろ、カエルの子は、えーと、あれ⁈ また、わかんないや――ま、いっか。後で、スマホで調べれば……。
この章、おしまい