第30話 台風一過 その一

文字数 1,897文字


 日曜日の朝――。
 リビングルームのソファーに腰を下ろした雄太は、食後のコーヒーを啜りながら、テレビのニュース番組をぼんやりと眺めていた。
 コマーシャルが終わり、画面が天気予報のコーナーに変わる。そのとたん、画面の中が、パッと華やいだ。と同時に、雄太の頬もだらしなく弛む。
 とりわけ、お天気お姉さんの中で雄太がお気に入りの、その彼女が登場したからだ。
 実はこの彼女、最近、巷のオジサンたちの間でも人気がうなぎ登りだという。
 小柄で美人ではなかったけれど、彼女は、心映えが優しく人好きのする柔和な顔だちをしていた。そこのところが、オジサンたちにもっぱら評判。
 手前味噌ながら、彼女のそうした評判を聞くにつれ、つい雄太は目尻を下げてしまう。
 世間のオジサンたちもわりといいセンスしてんじゃん、と一人悦に入って――。
 こうして、容姿の良し悪しではなく、彼女の人間性が評価されることが、なにより、雄太にとってはご満悦だったのだ。
 やっぱ、オレ、昭和の人間だなあ――そう自虐気味に思いながらも、内心ほくそ笑んでいる、そんな雄太であった……。
 
 彼女が登場したことで、いままでぼんやりとしていた眼差しが、にわかにシャキッとなる。
 でも、あれだよな――苦笑を含みながら、雄太は思う。
 オジサン、オジサンって、他人事のように言ってるけど、オレだってもう、すっかりオジサンだもんな、と。
 もっとも、雄太がそう自覚し、認識したのは、つい最近のことだ。
 それまでは、会社の若い事務員の女の子に、「まだ若いですよ、村田さんは」と言われて、「そうお」とまんざらでもない顔をしていたものだ。
 ただ、そんな雄太を、奥さんの久美子さんは沈着冷静な眼差しで眺めていた。
 なにしろ、彼がウチに戻って、その話を久美子さんにすると、「馬鹿じゃないの。それって、社交辞令にきまってるでしょ」と一笑に付していたのだから……。
 だからといって、雄太はそれをおいそれと認めたくなかった。自負があった。自分ではまだまだ若いという、いささか意固地な自負が――。
 それだけに、近所の子どもに「ねぇ、オジサン」と呼ばれようものなら、オトナゲなく色をなして、こう反論するのだった。
「あのね、オジサンじゃないでしょ、お兄さんでしょ。だから、お兄さんと呼びなさい、お兄さんと」
 がしかし、そんな雄太もある日、とうとう、オジサンと認めざるを得なくなる。
 めずらしく、風呂上がりに鏡の中の自分を意志的に見つめていたら、「ありゃ、額の生え際が……」――ずいぶんと心許なくなっていることに気づいたからだ……。
 それ以来、雄太は、近所の子どもに「ねぇ、オジサン」と呼ばれても、素直に「はい」と返事をするようになっている。
 
「今日は特段、空が青く澄んでいますね」
 屈託のない笑みを浮かべて、お天気お姉さんが弾んだ声で言う。
 たしかに、昨日と打って変わって、さながら彼女の笑顔のようなすがすがしい空の青さが、画面いっぱいに広がっていた。
 昨日は、気が滅入ってしまうような、どんよりとした空模様だったのだ。その空から降り落ちる冷たい雨が、鬱陶しいほど、一日中街をひっそりと濡らしていたのだから……。
 それを思えば、今日は、蓋し彼女が言う通りの空模様になっている。
 こういうのを、あれって言うんだよ――心得顔で、雄太はつぶやく。
 月とスッポン、鯨に鰯、ってな、というふうに。
 
 その表情のまま、お天気お姉さんが、さらに、ことばを継ぐ。
「まさしく、台風一過の青空が広がっていますね」
 台風一過――それを耳にすると、雄太は居ても立っても居られないような胸のうずきを覚えてしまう。
 そんなとき、いままでゆるんでいた頬が、たちどころに、こわばってしまうのが自分でもよくわかった。
 トラウマだった。雄太にとって、「台風一過」は――。
 それを聞くと、雄太は自らの過去へと遡行し、間抜けだった少年雄太との対峙を余儀なくされる。
 少年時代にはだれもが、思わず頭を抱え込みたくなるような、そんな気恥ずかしいことの一つや二つあるものだ。
 もちろん、雄太も、その例外ではない。
 あれは、雄太がまだ、年端のいかないころのこと――。
 雄太は往時、台風一過」の「いっか」を、気恥ずかしながら、「一家」と勘違いしていたのである。
 なので、雄太は日曜日の朝に「台風一過」を耳にすると、条件反射的に、「サザエさん一家」を脳裏に思い浮かべてしまうのだった。
 そうすると、いつもなら、あまり気にもとめない日の暮れを、その日に限っては、今か今かと待ちわびるようにして過ごしてしまう、そんな少年雄太であった。


つづく
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