39.王の遺言

文字数 5,586文字

「アゴーニア大司祭」
 驚きの声が広間の人々の間を広がっていった。その名がうわ言のような響きで人々の口から繰り返し漏れると、まるで一つの祈りの詞のように広間の空気を震えさせた。
 かつての大司祭アゴーニアは三十年前の事変の一年後、職を辞していたが、その後どうしているのか消息を知る者はいなかった。
 老化やその他の理由で力を失った時、魔術師は宮から下がることになる。しかしそのまま人の世に住まうことが難しく、大抵は世捨て人のような余生を送ることになった。司祭の場合は、特殊性こそ魔術師と変わらぬものの、その後の運命は違ったものになる。老いても指導者として宮に残るか、あるいは地方の町や村で祭司として過ごすことも出来た。しかし中には魔術師と同様にそのまま隠遁してしまう者もいることはいたが、司祭の長まで勤めた者の消息が絶えることは(まれ)であった。
 それ故、まだ老いてはいても能力の衰えの兆候すらなかったアゴーニアが後継者も定めぬまま引退したこと、その突然の引退を公表したのがハイマであったこと、そしてそれが公になった時にはすでに大司祭の姿が消えていたことなどから、様々な憶測が流れたのは確かだった。
 またアゴーニアは前王の今際(いまわ)の声を聞いた一人であり、第二王子を王位に譲るという王の意思を確認した、言うなればディランが王たるに値することを証明する公平な審判者でもあった。
 それ故、大司祭の失踪に近い引退後の行動を不審に思う者は多かったが、当時それを口に出せる者はいなかった。
 そのアゴーニアが三十年の時を経て、人々の前に現れたのだ。
 老大司祭は痩せ衰え、枯れ枝のような体をしていたが、誰かの助けを必要ともせず、ゆっくりとではあったが、確かな足取りで静かに前に進んだ。人々の驚きが作るざわめきと落ちつかない空気が静まる。姿そのものは三十年前とそれほど変わらなかった。上背のある体を真っ直ぐに伸ばし、薄黄色い色をした短く刈った髪と顎髭も、徳性から滲み出る柔らかな物腰と無条件に人々の仰望を集める威厳も、当時のままだった。
 ただその瞳は白濁し透明度を失っていたが、視線は真っ直ぐにハイマをとらえていた。その瞳は静かで、ほんのわずかな悲しみと哀れみがあった。
 ハイマは炎のような輝きを宿した瞳で老いた司祭を凝視していた。その顔に侮蔑が刻まれていた。が、大司祭は、彼女が自分を鏡にして己の運命を見つめているのを知っていた。その運命がどのようなものであるか、アゴーニアにはわかっていた。
 老人の視線が、今やまるでがらくたのような王ディランに向けられた。司祭の表情がかすかに陰り、その白く濁った瞳から涙が落ちた。
「私は……、過ちを犯してしまった」
 アゴーニアのしゃがれた声で囁くように言った言葉は静まり返った空間に響いた。人々の心臓の鼓動が一つになりその声に打たれて大きく脈動し、空気を震えさせた。
「あの日、ラオネン様が身罷(みまか)る時の事……」
 人々は息を殺して司祭の声を待った。
 ハイマは両腕の肘を反対の手でそれぞれ支えて、冷たい微笑を緩く浮かべ、傲然(ごうぜん)とした面持ちで顎をかすかに上げていた。しかし、その顔の色はいつにも増して白く、皮膚の下の血管が透けてみえた。そこに様々な彼女の心の内が見え隠れし、美と醜が複雑に入り組み、危ういバランスを取り合っていた。
「アゴーニア」
 ハイマの口からどこか妖艶な響きをした声音で司祭の名前が放たれた。変わり果てたデュランを見つめていたアゴーニアははっとした。ざわっと肌が震える。見てはいけないとわかっていたが、老司祭は抗いがたく視線をハイマに向けた。霧が掛かった世界にちかりと赤い光が見えた。光は薄ぼんやりしたアゴーニアの視界の中で鮮烈な色彩を放った。その色は彼の脳の中にしみこんで行った。
 老司祭は言葉を紡ごうとしたがそれは喉の奥で絡まってしまった。必死で言葉を探そうとしたが、脳の中で赤い色をしたものが蠢いている感覚に、アゴーニアは戦慄するばかりだった。それきり言葉は形をなさず、感覚だけが体を行きつ戻りつした。様々な悪夢が生々しい感覚を伴って蘇ってくる。
 アゴーニアは抗うことを止め、自分の意思でハイマを見た。魔女と呼ばれる魔術師はうっすらと笑っていた。その黄金色の瞳に赤い炎が火の粉を散らしながら燃えていた。美しい、アゴーニアは純粋にそう思った。が、その美しさは、哀しいと思った。哀しみに、心は惹かれるが、奪われることはない。
 地下の光の全く射さない迷宮で、暗闇と、自分自身の中から産まれる底のない闇の魔物に苦しみ続けてきた。死よりも苦しい地獄のような三十年の月日をただ生きた。何より彼を今もなお最も苦しめているのは、自分自身の行いに対する悔悟だった。それ以外の苦痛など、大したものではない。ハイマが彼に思い出させようとしている恐怖の記憶など、今実際に彼の中にある苦痛の前には何の効力もなかった。
 同時に司祭は自分に向けられたハイマの力を感じとることによって、彼女の魔術師としての力がすでに衰えていることを知った。
 瞳を閉じると暗闇があった。しかしそれは真の暗闇から比べれば明るいほどだった。彼は自分の心の中に巣くっている暗闇に、そしてこの国を覆っている暗闇に光を与えたかった。自分が三十年もの昔に、その原因をつくってしまったのだから。
「あの時、王は何も言い(のこ)しはしなかった」
 アゴーニアは震える声ではあったが、決然と言った。
 息を飲む人々の声の後、ざわめきが二重三重の波となって広がっていく。そのざわめきが鼓動となって広間の空気を大きく振動させ、天窓にはめ込まれているガラスが不気味な音を奏でた。
「何故なのです? 何故、大司祭様はハイマ様の言葉を肯定したのです? 王が、デュラン様が王位継承者だと、お認めになったのです?」
 大臣の一人が泣き叫ぶような声で問い(ただ)した。
 アゴーニアの顔が苦痛に歪む。それはハイマの何らかの力によるものではなく、彼自身の中にある闇から生まれた苦痛のためだった。老司祭は、食いしばった歯の間から震える溜息を吐き出した。
「私は、私は、あの方が……、ファステン王子が……、王に、相応しくないと……考えた。それ故、私は…ハイマがつくり出した…王の遺言を…認めてしまったのだ」
 どよめきが大きくなる。口々に人々は何かを叫んでいたが、はっきりと意味のある言葉にはならない。
「何故なら……、ファステン王子は……、あの方は……」
 アゴーニアが言いかけた時、玉座に座るデュランが(うめ)き声を上げた。その小さな声に、騒然としていたその場が凍りついたように、時間が止まったかのように、静まり返った。
「陛下?」
 ハイマが問いかける。
 玉座でぼろ屑のように座っていたディランが、まるで傀儡のようにぎこちない動きで背中を伸ばした。垂れていた頭が上げられ、目が見開かれ、広間の中空へ視線が向けられる。人々は王が見ている方へ視線を向けたが、そこには何もなかった。
 王の瞳は驚愕と恐怖で見開かれていた。全身がががくと震えはじめ、唇が丸く開かれる。その唇が声なく何かを呟いた。
 ミーネは王の口がエテレインの名を(つむ)いだのを見た。王はエテレインの及ぼす何らかの力によって、悪夢を見ているのだろうか。咄嗟に背後を振り返ったが、ヴァールたちの姿はない。
 デュランは見開いた瞳から涙を一筋零した。全身が一度、大きく震え、空気が抜けるような音が喉の奥から絞り出され、そしてがくりと玉座に沈んだ。
 ハイマが慌てて近づいた時には、すでに王はこと切れていた。
 女魔術師は無表情にその顔を見つめた。そして広間の方を振り返った。ローブの裾が(ひるがえ)り、黒い炎のように見えた。
 人々は何が起こったのか本能的に察していながら、それを認めることができず、ぼんやりと何かを待っていた。
「国王陛下、崩御」
 ハイマが宣告した。人々は息をつめたように、王と魔術師を見つめた。嘆き、哀しみの声を上げる者も、他のどのような感情から生まれた声も上げる者は誰一人いなかった。場は恐ろしいほどの静寂で硬直していた。
 命の火が絶えた王は玉座の上で、本当のぼろ屑となってしまった。
「新国王陛下アングスト」
 ハイマはその場の異様な雰囲気を無視し、何事もなかったかのように、王子に向かって手を差し伸べた。当の王子はただ床に伏し、子どものように小さく丸まって震えるだけだった。
 人々の多くはどうしていいのかわからないといった顔つきでぼんやりしていた。
「アングスト王子を王と認める訳にはいかぬ」
 人々の中から誰かが叫んだ。その声に人々は動揺したが、すぐにそれに同意する声があがると、彼らは皆そちらへと傾いた。
「認める訳にはいかぬ?」
 ハイマが容赦のない冷たい声で問い返すと、にわかに起こった人々の興奮は再び後退した。しかし大臣の一人が前に進み出て、半ば倒れるようにして平伏した。
「恐れながら、アゴーニア大司祭のお言葉を聞いた今、アングスト王子を王と認めるにはいささかの疑問がございます」
「疑問……とな?」
 ハイマの声には明らかな怒りがにじんでいた。彼女に面と向かって楯突くものはこれまでいなかったのだ。その事に彼女は腹を立てた。それが意味することに、激怒していた。
「私は前王の遺言を確かに聞いた。ディランが王に違いはあるまい。それとも私の言葉が信じられぬと申すか?」
 鞭のように鋭い声に、平伏した男はさらに頭を下げた。しかし、簡単には引かなかった。
「いえ、いえ、ですが……」
「ディランは正当な王である。したがってそのただ一人の王子であるアングストが継承者であり、王位はアングストに渡ったのだ」
「しかし……」
「しかし、何だ?」
 ハイマの目が細まる。男は見えていないその視線を全身に感じて縮こまり黙った。それ以上、言葉を発すると心臓が止まるような気がした。
「しかし、デュランを王と認める訳にはいかないのだよ」
 ミーネが男の後を引き取るように言った。
「そうではないか? こうしてアゴーニア大司祭が、前王の遺言などなかったと証言されておられる。ならば、正当な王位継承者は第一王子ファステン様だ」
 ハイマの目が金色の光を放つ。ミーネは体の中の彼自身のほとんどを構成している憎しみを持って、その輝きを撥ねつけ、魔術師を睨み付けた。
「愚かな」
 ハイマの口からどこか吐息に似た声が呟くように言い、顔をゆがめながら同じ言葉を呪詛のように二度三度と繰り返した。その表情は笑っているのか怒っているのか判別できない。
 女魔術師はふいに表情を消して、ミーネを冷やかに見据えた。
「どちらにせよ、ファステンは既に亡い。私はそれを確認している。どちらにしろ継承者は王の血を引くこのアングストしかいないのだ」
 ファステンが死んだというハイマの明言に人々の動揺が広がった。それは川の底に流れ着いた岩が急に増した水量に絶えきれず、かすかに揺らぐような重く静かな動揺だった。第一王子の死は風説として囁かれてきたが、事実ははっきりと伝えられていなかったからだ。誰もが半ばそれを諦めに似たやる瀬なさと共に認めてはいても、噂として受け入れるのと、事実として受け入れるのとでは重さが違っていた。
 ハイマはゆっくりと階段を下りてきて、婉然と笑った。赤い髪がふわりと揺れ、ローブがなびく。まるで赤い炎と黒い炎をまとっているように見えた。平伏していた男がそのままの恰好で、何か奇妙な昆虫のように地べたを這いずって慌てて後ろへ下がった。
 ミーネはハイマを睨んだままその場を動かず、肩をかすかにすくませて、独特の歪んだ笑みを顔に刻んだ。瞳が鈍く光っている。
「ファステン王子が亡くなっているとしても、その者を王位継承者とするのは無理があろう」
 ハイマは応えず、せせら笑うような微笑を浮かべ、ミーネの前まで歩み寄った。ミーネと共に白の扉を越えてきた男たちは怖じ気づいたように少し後退する。その場で身じろぎもしないミーネは鼻孔に女の匂いを嗅ぎ取った。濃厚な花の匂いに混じって匂う彼女の獣に似た官能的な体臭からは、血とかすかな腐敗の匂いが感じられるような気がした。
「その男はさっきも言ったが、アングストではない。王家の血など一滴も流れてはいないのだ」
 ハイマがミーネの前に立つ。人々は声無く二人を見つめていた。ミーネは魔術師の顔を静かに見つめた。少し、目眩(めまい)がした。
「お前は一体、何者なのだ?」
 ミーネの唐突な問いにハイマは笑みを消した。
「ファステンが正当な王であるなら、そもそもデュランの魔術師であるお前はただの年老いた魔術師だ。王の魔術師ではない者に、王位継承にまつわる政に係わる資格はなかろう?」
 ハイマの顔にさっと怒りがよぎった。
 強い感情はすぐに彼女の顔からかき消されたかに見えたが、ミーネは続いてハイマの形相が変化するのを目の当たりにして息を飲んだ。美しく若いその顔が一度に老け込み、痙攣を起こしたように歪むと、まるで獣のような顔つきになった。引き結んだ唇から牙が覗いてでもいればそれは人ではないものに見えたかもしれない。肉食獣を思わせる金色の瞳から、ぎらぎらとした輝きがまるで光のように放たれた。ミーネでさえ、彼女の全身から燃え上がるようなその激しい憎悪に似たものに、いや憎悪そのもののオーラに戦慄し、たじろいだ。彼はそれが自分に向けられたものと思ったが、すぐにそうではないことに気づいた。
 彼女は、()の気配を察したのだ。
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