15.悪い夢

文字数 6,403文字

 光の全くない真性の暗黒の中、手探りと足探りでゆっくりと進む。自然が造形した隧道(ずいどう)には、這うようにして進まなければ通れない箇所もあった。が、むしろ時折現れる開けた空間の方がやっかいだった。巨大な暗闇の中では、ヴァールがあらかじめ準備していた明かりを灯しても、ほんの少しの闇を押し退ける効果しかなかった。フライハイトは、ヴァールの持つ灯りについて行くだけだったが、先導するヴァールは記憶を頼りに進んでいるらしかった。その記憶を信じてはいたものの、同じ場所をぐるぐる回っているのではないか、或いは二度と外へ出られないのではないかと思うときもあった。
 視覚が役に立たず、逃げ場のない閉じた空間の中で、フライハイトは経験したことのない原始的な恐怖を覚えていた。つい先刻、最愛のものを亡くし、生活も人生も壊れてしまい、心はこれ以上ないという打撃を受けたはずだった。たとえこの先が暗闇の世界だとしても、自分はすでにその中にいるのだという気がしていたにも関わらず、この闇が恐ろしいと感じている。
 終わり無くどこまでも続く暗闇の中、フライハイトは先を行くヴァールの疲労のためか、ひどくなっていく引きずるような足音と荒い息づかい、時折地形の変化を知らせる掠れた声、そして自身の息づかいと鼓動の音を聞きながら黙々と進んだ。
 緊張と単調の合間で、様々な思いが湧き上がってきた。フェルトと幼い息子のことが、振り払っても押さえ込んでも浮かんでくる。心にある痛みはあまりに強すぎて麻痺してしまい、やがて記憶に抗う力さえ失って、知らぬ間に涙が流れてきて止まらなかった。
 妻や息子の思い出と共に、これまでの事が脈絡なく頭に浮かんでは消えた。村のこと、リンドやその他の人々のこと、両親のこと、自分のこと、そしてヴァールのこと。前を行く友は、かつてこの暗黒の道を、先に何があるのか、出口があるのかさえわからないまま一人で進んだのだ。その時の彼は、見えない先に進むことよりも、後に戻ることの方が恐ろしかったのだろうか。何を求め、何を目指してここを歩いたのだろう。
 記憶や思考が千々に乱れ、現れて、フライハイトの周囲をしばらく漂い、そして燃え尽きて消えていった。やがて胸の中にあったもの全てが消え、彼の心は空っぽになった。
 ヴァールはぜいぜいと不穏な呼吸を(かす)れさせながら、それでも進む足を止めようとしない。フライハイトも、何も考えず、何も思わず、無心に足を動かした。ただ闇雲に体を動かし、まるで自分自身を、感情を持たない道具のようにして、ただひたすら歩き続けた。
 ふと、静寂の中に、フライハイトは自分とヴァール以外の息づかいを聞いた。それは背負った魔物の肉体が発する命の音だった。汗が吹き出している背中にその熱が伝わったのか、魔物の体も熱くなっていた。彼はそれを落ち着かない気持ちで聴き、感じていた。背中に息づいている命は、この形のわからぬ暗闇のように、謎めいて恐ろしかった。
 自分は何を運んでいるのだろう。
 どれほど進んだのか、暗闇の中で時間と距離の感覚は完全に失われていた。疲れ切った筋肉が痙攣(けいれん)を起こし始めた。前を行くヴァールの呼吸がひどく荒い。フライハイトは荷物を背負ってはいたが、ただ後ろをついていくだけの彼よりも、先導するヴァールは肉体の疲労もさることながら、道を見極めようと神経を集中させ続けているために、精神的な消耗が激しいのだろう。それでもヴァールは休もうとはしなかった。フライハイトも自分の物とは思えない重い体を引きずるように、どこまでも続く暗闇の中、黙々とヴァールの後を追った。
 しばらくして、肌に変化を感じた。それまで湿った生ぬるい空気しか感じられなかったが、ふいにかすかな風を感じた。が、その風を感じて一瞬、安堵と期待を覚えてから、それ以上の変化は中々起きなかった。再び単調な行程が続き、まるで永遠にここを歩き続けることが、無力で愚かな自分に課せられた罰なのだろうかなどと妄想めいた考えに取り憑かれ始めた頃、冷たい風が今度はさっきよりもはっきりとした流れを伴って、体を撫でていくのを感じた。その温度はやがて周囲の空気に混ざりこんでいき、しばらくするとかすかな波の音を自分の耳が聴いているのをフライハイトは知った。
 先を進んでいるヴァールの体が影のように見え始めた。前方にかすかな光があるのだ。ふいに隧道(ずいどう)は狭い穴から大きな空間に出た。そこはすでにその広がり具合がわかる程度の明るさがあった。障害をおった足を引きずり、ふらつくように前を行くヴァールのその先に、白い砂浜と明るい空が広がっているのが見えた。
 二人を捕らえ、飲み込もうとしていた暗闇が周囲から後退していき、光が彼らを包み込んでいく。その光は肉体の中にまで達し、命に新たな力を与えていくようだった。フライハイトは力強い足取りで洞窟から外へと出た。
 それは今までに見たこともない美しい光景だった。海がどこまでも広がり、波が銀色の光をきらめかせている。空には無数の星が瞬き、冴々とした光を放つ細い月が浮いていた。夜だったのだ。絶対暗黒の世界から抜け出てきたフライハイトには、夜の空さえ昼のように明るく感じられた。
 砂浜に足を踏み入れた途端、ヴァールはばったりと倒れた。フライハイトもその場にへたり込んだ。精根尽き果てて、しばらく力の抜けた体を休ませていると、フライハイトは聞き慣れない音に気づいた。それは穏やかに波が寄せては返す音だった。静かで優しい響きに聞き入っていると、強張った体と心から緊張と痛みが遠のいていく気がした。そのまま眠り込みたい欲求を押しのけて、フライハイトは残った力を振り絞って起き上がり、ヴァールの側へ行った。ヴァールは驚くほど一度にやつれてしまった顔を苦しげに(ゆが)めていたが、ここがまだ落ち着ける場所ではないらしく、ゆらゆらと体を揺らしながら起き上がった。
「大丈夫か」
 フライハイトが問うと、言葉を返すのも億劫(おっくう)らしく、曖昧(あいまい)にうなずいただけだった。そして夜には黒く見える瞳でフライハイトの背中に視線を向けた。魔物の様子を訊いているようだった。
 フライハイトは耳をすますように背中に少しだけ頭を傾けた。夜はひっそりとしていたが、洞窟内部の自分の血の流れる音さえ耳障りなほどの静寂から比べれば、様々な音で(あふ)れている。波の音、風の音、砂の音、水をきらめかせる月光さえ音を発している気がした。それらが美しく調和した響きに、自分たちの声と鼓動が重なる。フライハイトはその中に魔物のかすかな息遣(いきづか)いを聞いていた。
「よくわからないが、生きてはいるようだ」
 それでもその命の音の頼り無さに、一度様子を確認した方がいいような気がした。ヴァールも同意する。いずれにしろ夜が明ければ、この恰好で歩き回る訳にはいかない。
「もう少し先の森の中に泉があるはずだ。そこまで行こう」
 ヴァールが言い、二人は気力を振り絞ってその場所を目指した。
 集中力の途切れ始めたらしいヴァールが目測を誤って少し迷ったものの、どうにか泉を見つけることが出来た。それはほんの小さな泉で、周囲を背の高い樹木に囲まれているために水面のほとんどが影になっている。が、所々に月の光が射し、風に揺れる葉の動きに水面に映る白い光が乱舞している様子は美しく神秘的だった。
 知られてはいない場所らしく、周囲の様子から、過去に人がこの泉に近づいた形跡もなければ、ふいに誰かがやってくることもなさそうだった。
 ヴァールに助けられながら、魔物を背から下ろして草の上に横たえた。連れ出された時と同じ、首と腰と膝の部分を折り曲げて丸まっている姿は胎児のようだった。こびりついて固まった汚物が幾重にもまとわりつき、海水に洗われて所々からもつれた髪が覗いている様子は、気味の悪い繭にも見える。
 今更ながら、フライハイトは目の前に横たわる存在に困惑を覚えていた。これはマクラーンの魔物と呼ばれている存在であり、ブロカーデに生きる者にとって、恐怖と嫌悪の根源であり、長い年月の間人々の心に根付いた畏怖によって目に見えない支配を続けてきた生き物だ。さらにフライハイトにとっては、特別で複雑な想いを抱かせる近寄りがたい神秘的な存在だった。それが、簡単に人の手によって運ばれ、汚物の固まりのような姿で無防備に自分の前に転がっていることが現実離れしていて、どう理解したらよいのかわからない。
「しかし、ひどい匂いだな」
 ヴァールが無造作に魔物に触れながら、今気付いたかのように言って口許を押さえた。フライハイトの困惑をよそに、彼には戸惑いも(おそ)れもないようだった。
 ヴァールの指示で、フライハイトは魔物を水際に運んだ。渡されたナイフで張りついているものを慎重に削ぎ落としていく。意識がないのか、眠っているのか、体を支えていないとそのまま倒れてしまい、何をしても何の反応もない。
 地を()うほど長く伸びた髪はもつれ放題で、がちがちに凝固した汚穢(おわい)と絡まりあい、どうしようもなく、肩の辺りで短く切り落とした。水でこねながら洗うと、それは泉の水面に反射する月の光に似た白い色をしていた。
「黒髪のはずなんだが」
 ヴァールはつぶやいて、しばらく考え込む顔をし、何事か納得したらしく一人うなずいた。それを見てフライハイトは眉を寄せた。彼の記憶では、それは白でもなく黒でもなく、銀色をしていた。子どもの頃、マクラーンへ冒険に出掛けた日に見たそれは、雨の雫と光の演出だったのかもしれない。けれど、黒色ではないことは確かで、それをヴァールも見ているはずだった。
 髪をときほぐすと、痩せた小さな顔が現れた。口は舌を噛むことを防ぐためなのか、鉄球で出来た(くつわ)を噛まされたままだった。その大きさに、魔物は口を閉じることができず、時折、細い息が風のような音になった。それを外そうとしてフライハイトは思わず息をのんだ。胃の()に重いものが落ちるような感覚がする。
 魔物の口の中に入れられた鉄球は鉄の串に通されていて、その串は両頬を貫いていたのだ。串の両端は鎖で頭に固定されていた。ヴァールに手を貸してもらいながら、そのおぞましい器具を外していく。皮膚を貫通している串は錆びて、ざらついている。動かせば耐え難い痛みがあるはずだろうに、意識は全くないのか、瞳を閉じたままの魔物は反応しない。串を慎重に抜き取り、口に手を入れて、鉄球を取り出す。開いた口の中に整った歯が並び、舌があるのを見て、不思議な気がした。魔物が人と全く変わらない形を持っていることが、フライハイトの戸惑いを深めた。
 首につけられていた鉄の輪は錆びていて難なく外すことができた。がちがちに固まった汚物を元は衣服であったらしいものと共にはぎ取っていく。魔物の肌があらわになるにつけ、フライハイトの戸惑いに恐れが混じっていく。
 まるで、これは人のようだ。
「これは、人なのか?」
 意識した質問というより、動揺が押し出した言葉だった。彼の心の奥底を揺るがせる恐れは、魔物が魔物であるからではない。魔物が人であったなら、村人の行為の正当性が失われること、その人物に行った身の毛のよだつ残忍な所業そのものに対する恐怖だった。それは、あってはならないことだった。
 しかし、フライハイトの動揺を気遣うこともなく、ヴァールはあっさり肯定した。
「ああ、こいつは人間だ。魔物とかいう怪しいもんじゃあない」
 フライハイトはその答えを既に頭のどこかで予感していたが、当たり前のような口調で聞かされると、やはり衝撃を受けた。濡らした布で汚れを落とした首筋の滑らかな肌の感触を手に感じる。フライハイトの手はそれが自分と同じ生き物だと理解していたが、それでも尚、感情は簡単にそれを受け入れようとせず、何とかヴァールの言葉を否定する材料がないかと記憶をまさぐった。
「そんなはずはない。これは、五百年も生きている。人間であるはずがない」
 マクラーンの魔物は村の中で五百年の時を生きているのだ。それはこの存在が魔物であることの証拠だった。フライハイトは一瞬、その事実に(すが)りたいような気さえした。
「いいや、魔物じゃない。こいつは魔術師なのさ。こいつらは肉体の時間を止めて、人よりも長く生きる。特殊ではあるが、まあ、人であることに違いはない」
「魔……術師……?」
 子どもの頃にヴァールから教えられた言葉を思い出す。しかしそれは子ども時代の不思議な物語であって、現実ではないはずだった。
「魔物の血を引いているという?」
 フライハイトが問うと、ヴァールは目を細めて陰気に笑った。
「いや、それはただの巷説だ。魔物なんていうものは元々、存在しない。当然そんなものの血を引いた生命などいやしない。が、魔術師は実在している。ちょっとばかり特殊な人間だから、魔物の血がどうとかという噂がまかり通っているんだろうな」
「魔物は、いない?」
 フライハイトは愕然とした。足元が揺れる。自分の中で残り少なくなっていた「当然あるべきもの」が、最後の音を立てて崩れていく。生きてきた暮らしも世界もすっかり壊されてしまったというのに、これ以上なにがあるというのだろう。
「それに、五百年じゃない」
 ヴァールは教え諭すような声で言い、フライハイトを強い視線で見つめた。その強さは、揺れるフライハイトを支えようとしているようだった。
「三十年だ。エテレイン……こいつの名前だが、このマクラーンの魔物、つまり魔術師エテレインがあそこへ幽閉されて、三十年しか経っていない」
「三十年? そんな馬鹿な。マクラーンの魔物は村ができた五百年前からあそこにいると……。五百年の間、ブロカーデの人間が食事を運び続けたと……、そうじゃないのか?」
 ヴァールは一瞬、目を伏せて、視線を戻した。そこにどこか哀れむような表情があり、フライハイトは再び強い不安を覚えた。その先を聴きたくないような気がしたが、知らずに済ますことはできなかった。
「あの村は出来て、まだ三十年しかたっていない」
「嘘だ」
 フライハイトは即座に否定した。無論、実際に五百年前を知っている訳ではない。けれど両親や村の大人たちから、自分も含め子どもたちは皆先祖の話を聞いて育った。そして彼もまた子どもたちに村の歴史を語ってきた。ブロカーデがあの場所に五百年もの昔から存在するということは、疑う余地のない真実だ。
「フライハイト。お前は先祖の墓がどこにあるか知っているか?」
 唐突な問いにフライハイトは戸惑う。祖先の墓なら共同墓地にあるに決まっている。けれど、両親の墓は知っているが、会ったことのないブロカーデで生まれて死んだ筈の祖父母、そのまだ先の祖の墓がどこにあるのか、考えたことはなかった。漠然と、両親の眠る場所にあるのだろうと思っていた。そこに、両親以外の墓標は無かったにもかかわらず。
「あそこの墓場には、新しい墓しかない。墓標のある墓は全て、俺でも知っている名前のものしかない。昔、掘り返した時に見た骨は、古いとしてもせいぜい数十年ぐらいしかたっていなかった。数百年も前のものなんて、どこにもなかった」
 フライハイトの思考は停止した。ヴァールの言葉が遠くから聴こえてくるような気がした。言っていることが飲み込めない。おかしい。あり得ない。そんなはずはない。これは悪い夢を見ているのだと思った。そうに違いない。
 惚けたようにヴァールを見つめながら、フライハイトは夢の出口を探していた。
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