31.隠れ里

文字数 8,848文字

 山間にある隠れ里めいた村についた時、フライハイトはすでに意識がなかった。治療を施すため、すぐに一軒の家に運びこまれたが、ヴァールは頑として傍らから離れようとせず、エテレインと共にフライハイトのいる部屋に落ちつくことになった。
 ルックスと名乗った山賊の頭目が、彼らを客として扱うと決めた通り、扱いは丁重なもので、山賊たちはうってかわって友好的だった。医者がルックスに伴われて現れ、すぐさまフライハイトの肩を手当てし、掌の傷を調べた。
「あんたたちは、あの“ブロカーデ”から来たんだろう?」
 フライハイトの様子を見つめているヴァールに、ルックスが訊いた。ヴァールは無言のまま、男の方を見ようともしなかった。その顔に肯定も否定も浮かばないのを見て、ルックスは続けた。
「あんたの病気のツレは、あんたに“彼を連れて逃げろ”と言ったな。つまりそこにいるキレイなのは女じゃなく男だ。あんたたちはいかにも訳ありな男三人のグループという訳で、その組み合わせは、俺たちの間じゃあちょっとした噂だ」
 盗賊の類は世の表裏の事情に通じている。そして、表に住んでいる普通の人々が思っている以上に、彼らの組織は統制され、機能的だった。利害関係のあるなしに関わらず、同類の組織と繋がっているだけでなく、表の社会にまぎれ、重要な機関の中に潜り込み、情報を収集する。情報こそは、彼らの生業の土台を支えるものだった。この国で、最も総合的に状況を把握しているのは、彼ら盗賊だった。
「ということは、そこにいるのが魔術師なのか?」
 ルックスはかすかに緊張を帯びた声で言いながら、エテレインを顎で示した。百戦錬磨の彼であっても、魔術師をこれほど近くで見るのは初めてなのだ。
 その言葉に反応して、フライハイトを診ていた医者が振り返った。魔術師はベッドに横たわり、瞳を閉じたまま身じろぎもしない。訊くまでもなく、それが魔術師であると確信していたルックスは、改めて自分の中に畏怖があるのを感じた。修羅場を幾つも潜り、この世のありとあらゆるものを見てきたが、それでも魔術師という存在は、不可思議な恐れを呼び起こす。
 医者も目を見開いて、しばし憑かれたような眼差しで魔術師を凝視していたが、ふいに我に返ったような顔をして、再び視線を戻し、治療に専念した。
「熱が高い」
 そう言った医者は、厳しい顔つきで言葉を濁らせた。
「かなり悪いのか?」
 ヴァールが黙りこくっているので、ルックスが問う。
「この熱の原因は、怪我のせいだけではない」
 医者の声には、震えがあった。この老医者が、昔宮廷医だったことを知っているルックスは、その声にあるおびえの原因が、自分を臆病にさせているものと同じだと思った。
「魔女か?」
 ルックスが言う。ヴァールが盗賊の頭目にちらりと視線を向けた。
「何でもお見通しのようだな」
 ヴァールが初めて口を開き、皮肉とも本気とも取れない調子で言った。
「魔女ハイマか。魔術師というのは、本当にいるんだな。俺は宰相がそういう名前で呼ばれている程度のものだと思っていたが……」
 ルックスは、自分の中の恐れを意識する。それは、この国の人間が、物心ついた時から当たり前のように持つ、恐怖だった。成長するに従い、子どもの頃の記憶と共に薄れていくが、決して消えることはない。そして、ルックスは今初めて、魔術師という存在を実感していた。ただ長命であるというだけでなく、異能の力を持った存在だという実感が。
「さっき、こいつに斬りかかった時、俺の腕は、俺のものじゃなかった」
 ルックスは、その時の感覚を思い出し、かすかに身震いした。ヴァールがブルーブラックの瞳をルックスに向ける。
「俺の剣は、俺の知っている剣ではなかった。まるで何か別の力が加わっていたようだった。あれは、あの力は……」
 体の中に燃えていた自分のものではない暗い怒りの残滓が、まだ体のどこかにあるような気がして、ルックスの背筋を震えが走った。そして、土色のフライハイトの顔を見、あれと同じものが、この男の中を食い荒らしているのだと思った。
 ヴァールは無言のまま視線をフライハイトに戻した。
「こいつはどうなる?」
 ヴァールが訊くと、医者は難しい顔をした。
「何とも言えない。解熱剤を飲ましだが、効くかどうかわからぬな。彼の体内を巡っている毒がどんなものかわからぬし、彼の肉体が耐えられるのかどうかも」
 医者はそれ以上何も言わなかった。彼は、フライハイトの体を蝕んでいるのが、この世に存在する毒ではなく、魔術師ハイマの呪いともいうべき見えない毒だと知っていた。宮殿内部で、幾人もの人間が同じ病に伏したことを、そして、助かった者はいないことを、知っていた。
「何か手はないのか?」
 ヴァールが問う。
「ないな」
 医者が期待を抱かせない声で答えるのを聞き、ルックスは絶望的な状況なのだと悟った。
 ヴァールはそれ以上、何も言わなかった。フライハイトを見つめる憔悴した横顔に、ルックスは祈りを見て取った。そして、この場にいる誰もが、その他に出来ることはヴァール同様、何もなかった。

 フライハイトの容体は悪化の一途を辿っていた。
 高熱は治まらず、土色をした唇から浅く切迫した呼吸が一息出る度に、命が削げ落ちていくようだった。医者は時折姿を見せたが、ただ脈をとり、首を振ることしかできなかった。
 その長い一日が無為に過ぎ、夜が来た。ヴァールはそっとフライハイトの眠る部屋を出た。深い山中の集落らしく、日が落ちると同時に人々の生活も休息に入る。人けはすでに消え、辺りは静まり返っていた。
 里よりも冷たい風の吹く村を、重い足取りで歩き、外れまでやってくると、伐り倒された大木の上に腰をかけた。冬の近い冷たい空気は澄み、満天に星がきらめき、細い月が透明な輝きを放っていた。その光を浴びながら、彼は子どものように膝を寄せて抱え、その上に顎を乗せた。
 しばらくそうしていると、男が声を掛けた。
「ミーネはどうした?」
 疲れ切っていたせいか、ヴァールはすぐに、その声の持ち主がわからなかった。
「あんたか」
 思い出してヴァールは言った。声は酷く掠れていた。弱い月明かりの中に姿を現した男は、子どものような小さな体で、老人と言っていい年齢だったが、世故にたけた面がまえと屈折した癖のある目つきが、油断のならない印象を人に与える。普段はそうした気配を、好々爺然とした立ち居振る舞いの中に隠していたが、この里にいる間は、その必要はないらしかった。二人は旧知の仲だった。
「奴と切れたという噂は本当だったんだな」
 近づいてきた老人が言った。ヴァールは無言のまま、視線も合わせなかった。が、慣れているのでヴェルフェルは気にしなかった。
 ミーネとのことは、ずっと以前からそうなるだろうと予感していた。そもそも、共通の目的があったか、利害関係が一致していたのだとしても、二人が親しいことの方が不思議だった。どちらもが、人間らしい関係を他人と築ける性格ではなくとあっては、うまくいくはずもない。とはいえ、当時はそんな二人だから、巧くいくのかもしれないとも思っていたが。
 ヴェルフェルはしげしげと観察する目で、ヴァールを見つめた。同じ集団の中にあっても、仲間と全くうち解けず、他人を必要としなかった男が、こうして誰かに執着し、その生死を気にかけ、気を揉んでいるらしいのが、意外だった。
「そばにいなくて、いいのか?」
「俺がいてもいなくて、起きることは起きるし、起きないことは起きない」
 ヴァールは素っ気ない口調で言ったが、ヴェルフェルはその声の中に絶望の響きを聞き取り、フライハイトとは、ヴァールにとってどんな存在なのかと訝る。
「どうも、いけないようだね」
 ヴェルフェルがそう言ってみると、ヴァールの気配があからさまに動揺するのを感じ、驚く。今、死線を彷徨っている男は、彼にとって余程大事な人間なのだと悟った。中を垣間見ることはおろか、近づくこともできない、硬い鋼で武装されたその心が、無防備に剥き出しになるほどに。彼も、人の子だったのだ。
 老人は、ヴァールに対し優しい感情を覚えたが、それを彼に向けることも、励ましを口にすることもしなかった。それを、今の彼が受け入れないことはわかっていた。
 ヴェルフェルはそのまま言葉をかけずに歩み去った。後には冷たい風に身を晒されているヴァールだけが残った。

 フライハイトはブロカーデにいた。
 ブロカーデは火に包まれていた。その炎は本来の色彩とは違い、赤黒く、まるで血のような色をしている。
 彼は必死に妻子を求めて村を捜し回った。しかしどの家にも路地にも人っこ一人いない。彼だけをおいて、全員忽然と消えてしまったかのようだ。
 それでもフライハイトは、捜すのをやめることができなかった。今や彼の全身も炎に包まれ、燃えていた。灼熱の炎に生きたまま身を焼かれながら、フライハイトは二人の名を呼び、叫び続けた。
 どこにも、誰もいない。両親も、フェルトもバルトも、村人たちも、彼をおいていった。いつしか体の中からも炎が吹き、喉は焼け、叫ぶ声も失った。
 全てが焼け落ちていく。家族も村も、全てがフライハイトの眼前で失われていく。
 恐怖に震えながら、押し寄せてくる絶望から逃れるように森を彷徨い、彼は一つの光景を見咎めた。
 あれは子どもの頃の記憶だ。森の奥のマクラーンを隔てる巨大な壁の前で、ヴァールが子どもたちに私刑にあっている。大勢で彼を傷つけ、打ちのめしている。
 今の自分になら、子どもたちを蹴散らして、ヴァールを助け出すことができる。フライハイトはそうするために走った。
 しかし、走れども走れども、彼らに近づくことができない。
 ヴァールを傷つけるために、子どもたちの腕が振り下ろされ、足が勢いよく空を切る。その中心で彼が苦痛の声を上げている。焦れば焦る程、その光景は逆に遠ざかっていく。
 ヴァール、ヴァール。
 フライハイトは叫んだが、声が出ない。喉が燃えて、息さえ出来ない。苦痛に喉を掻きむしろうと手を伸ばす。彼は前に伸ばした両手が炭になっていることに気づいた。それは今にも燃え落ちてなくなってしまいそうだった。
 恐怖よりも、哀しみが彼の心に押し寄せてきた。また、この腕は彼を助けることができないのだ。
 冷たいものが頬を濡らす感触がした。その途端、天から雨が降り注いできて、彼の体を冷やしていく。
 フライハイトはいつしか幼い子どもに戻って、マクラーンの魔物の家にいた。小さな窓から魔物の無残で恐ろしい姿が見えた。
 雨が魔物を無慈悲に()つ。
 フライハイトの中の哀しみがさらに増し、それは彼の小さな体から溢れていく。
 何もできない。何の力もない。
 今や彼は小さな焼け焦げた炭の固まりに過ぎない。雨に全てが溶けていく。体も心も全て。
 ふいに魔物が顔を上げた。澄んだ水のような、透明な空のような青い色の瞳が彼を見つめる。血に汚れたその顔は、夢見るように美しい。
 そのままその瞳に見つめられながら、フライハイトは雨と共に消えていきたいと思った。
 その時、捕らわれ、戒められているはずの魔物が立ち上がった。銀色の髪が星の河のようにきらめく。魔物を包む青みを帯びた銀色の仄かな輝きが、フライハイトに近づいてくる。
 けれど、恐れはなかった。
 魔物はふわりとフライハイトの前にひざまずくと、右手を取り、その掌にそっと唇を寄せた。優しい感触が触れてくると、そこにあった絶えがたい痛みが消えていった。
 呆然としていると、その優雅な両の腕が持ち上がり、細く長い指がフライハイトの頬に触れてきた。
 間近に魔物の顔があった。それは男とも女ともわからぬ、不可思議な性を持っている。人知を越えた、けれど禍々しさはない、清浄な美しさだった。
 頬に魔物の冷たい指の感触を感じた時、その仮面めいた美貌が揺れて、フライハイトの目の前で優しく微笑んだ。その笑みは、その生き物を魔物から人へと変えた。
 フライハイトは自分の体から、肉を焦がす灼熱と、骨を凍りつかせる冷気とが抜けていくのを感じた。
 魔物の微笑が消え、哀しげに憂う。
 その唇が動く。
 何かを呟いたが、声は聴こえない。必死でそれを読み取ろうとしていると、魔物の青い瞳から、そこから生まれた宝石のような一粒の涙が零れ落ちた。
 あっと思った瞬間、それはヴァールの顔に変わった。

「ヴァール」
 その声に、フライハイトは目を覚ました。自分が呟いた声だとすぐに気づかなかった。霧が掛かったように朧な視界の中に、ヴァールの顔があった。フライハイトは目を眇めてそれを確認した。夢の中のように、ヴァールは泣いてはいなかった。しかしその瞳に憂慮と、ひどく切迫したものがあるのを見た。
「フライハイト?」
 ヴァールの声が聴こえた。返事をしたかったが、声が出なかったので、何とか瞬きをしてみせた。霞がかかった視界の中で、ヴァールの顔が揺れた。何か言っているようだったが、声は聴こえても、言葉を理解することが難しかった。が、その顔と声にヴァールの動揺を感じ取り、彼を安心させたかった。夢の中のエテレインのように、微笑むことができたらいいのにと思ったが、ブルーブラックの瞳を見つめているうちに眠気を覚え、抵抗する間もなく眠りの中へ引きづりこまれた。
「恐らく、もう大丈夫だろう」
 再び意識を失ったかに見えたフライハイトに、ヴァールが慌てた様子を見せたので、脈を診ていた医者が安心させるように言った。しかし、老医師の声にも、驚きがあった。
 その言葉通り、ヴァールが縋るように胸に置いた手の下のフライハイトの心臓は、規則正しく、そして力強く命を打っていた。全身の力が抜けたように、ヴァールはへなへなと椅子に座った。呆然とした面持ちで、彼はフライハイトを見つめていた。確かに自分の名を呼んだ掠れた声が耳に残っている。
 夜明け近くに部屋に戻った時の事を、ヴァールは思い返した。
 もしかしたら、死んでいるかもしれないと覚悟を決めていた。いや、決めてなどいなかった。何も考えられず、ただ部屋に戻ってきた。
 入った瞬間、ヴァールはぎくりとして立ちすくんだ。灯りのない薄い闇の中に沈んでいる部屋の中で、ベッドに横たわるフライハイトの傷ついた右の手が、仄かに光っているのを見たからだ。
 驚いて、彼はベッドに近づいた。フライハイトの手を包んでいる、青みを帯びた銀色のものが、静謐な輝きを放っていた。触れてみようとしたが、そうすれば、消えてしまうような気がした。邪悪な気配はなかったが、その神聖さ故に、フライハイトの魂がその輝きと共に、どこかへ去っていくかもしれないという恐怖を覚えた。
 ヴァールは反射的に、反対側のベッドを見た。魔術師は瞳を閉じ、静かに横たわっているだけだ。動揺しているうちに、青い光はしばらくフライハイトの腕を包んで輝き、やがて静かに消えていった。そしてフライハイトは意識を取り戻したのだ。
 容体はその時を境に、最悪の時を脱した。ヴァールはそのまま彼の傍に座り、その手を取って己の頬に押し当てた。そうしながら、彼の命がこの地に繋ぎ止められたことを、繰り返し、繰り返し、恐れや不安が消えるまで、確認し続けた。

 朝が明ける頃、フライハイトは再び意識を取り戻した。老医師が言った通り、彼の体はその時から急速に回復の兆しを見せ始めたが、その日は体力を取り戻そうとするかのように眠り、時折目覚めてはまた眠った。
 眠りの中にさまざまな夢が現れた。その多くは、過去やもう失われてしまったものだった。苦しい夢もあったが、大抵は優しくフライハイトの心を慰めた。
 夕方、完全に意識を回復する前の、最後の眠りの中で、フライハイトは父親に出会った。今は自分の方が、上背があるにもかかわらず、夢の中で父親は幼い頃の印象そのままに大きな男だった。そしてその頃の記憶と同じく、息子の名前すら滅多に口にしない程寡黙だった父が、やはり無言のまま、右手でどこか遠くを指さした。フライハイトは小さな子どもの視点で、父親の指す方角を見つめたが、そこに何があるのかわからなかった。父にそれを訊こうとすると、その姿は消えていた。夢の中に、懐かしい父の静かで優しい気配だけが残されていた。
 目覚めると、父親への感傷とバルトの記憶と想いとが混ざり合い、ひどく切なかった。夢がもたらした追憶のためか、自分が涙ぐんでいるのに気づく。
「どうした? どこか痛むのか」
 ずっと傍らにいたらしいヴァールの声に、珍しく憂慮がにじんでいるのを聞き取ると、切ない気持ちが消え、暖かなものが広がった。たまには病気もしてみるものだ、などと内心で苦笑した。そうでなければ、ヴァールのこれほど優しい素直な声を、聞く機会などなかっただろう。
「大丈夫だ。夢を、見た。親父の」
 フライハイトが言うと、覗き込んでいたヴァールはほっとしたように椅子に腰を戻した。
「お前の親父か」
 ヴァールが感慨深げに呟いた。
「大きな人だったな」
 そう続けたヴァールの声を、フライハイトは意外な気持ちで聞いた。父の外見は、背こそ高かったものの痩身で、「大きい」という形容は当てはまらない。フライハイトにとっては、今も父は大きな存在ではあったが、それは内面的なものだった。それ故、父と交流する機会などほとんどなかった筈のヴァールが、同じように感じていることが、不思議だった。
「俺、お前の家にいたことがあるだろう?」
 フライハイトの問いかける気配に、珍しく応える気になったらしく、ヴァールは口の端を僅かに笑みの形に歪めて、語り始めた。
 ヴァールが子どもたちに手ひどい暴行を受けた後、フライハイトの父親が家へ連れて帰って手当てをした。ヴァールにしてみれば、すぐにでも出て行きたかったが、ベッドから自力で起き上がることもできず、不本意ながら数日を過ごすことになった。それでも少し回復すると、それまで夜も離れず、ずっとそばにいたフライハイトが、家の手伝いで不在になった時を見計らって、出ていった。たとえ、そこがフライハイトのいる家であっても、ヴァールは耐えられなかったのだ。
「あれは、ショックだったな」
 フライハイトは少し笑いながら言った。彼にしてみれば、少なくとも傷が治るまでは自分のベッドにヴァールがいるものと思っていたのだ。少しの間でも、彼に安心できる場所を提供できると思っていたのだ。しかし、ヴァールがそう感じてはいなかったことを知った時の、悲しさや驚きや混乱が、ないまぜになった複雑な気持ちを、今も覚えている。
「家を飛び出して、泣きながらお前を捜し回ったよ」
「お前はよく泣く奴だったよな」
 ヴァールは、少しは気まずい思いがしたのか、関係ないことに話をそらせた。
「そうかな、あんまり泣くほうじゃなかったぞ」
 フライハイトは不満げに言った。実際、フライハイトは泣かない子どもだった。少なくとも同じ年頃の子どもたちよりは。
 ヴァールはかすかに笑って話しを続けた。
 まだ傷が癒えぬまま起き上がり、ベッドから下りた時、フライハイトの母親は無言でそれを見ていた。ヴァールが倒れても、彼女はほんの少し心配そうに歩み寄ってきたが、それ以上は近づいてこなかった。その時のヴァールは、それを自分に触れたくないからだと決めつけた。
「実際には、近寄られることを拒絶する俺の気配のせいで、そうしたんだろうけどな」
 ヴァールはフライハイトの目に憂いが浮かんだのに気づいて、そう言い添えたが、彼の母親を庇ったわけではなかった。実際、フライハイトの母親は、ヴァールがいる間、その子どもらしからぬ刺々しい雰囲気に困惑してはいたが、嫌悪を見せることも、無視することもなかった。
 家を出て、よろめきながら森へ帰る途中、フライハイトの父親と出くわした。彼はいつもは表情の薄い顔に、憂慮と怒りのようなものをわずかに浮かべ、ヴァールに家に戻り、ベッドに入るように言ったのだという。
「でも俺はきかなかった。お前の親父を無視して、行き過ぎようとした」
 フライハイトの父親も、それ以上、無理強いはしなかった。ただ、よろけて転んだヴァールを助け起こすと、腕を離す前に一度だけ、その胸に彼を強く抱きしめたのだという。
「こっちは怪我だらけなのに、思いっきり強くな」
 と、ヴァールは笑いながら言った。そして、その時、大人の体の大きさと力強さを初めて知ったのだと、呟いた。子ども時代、後にも先にも、そんな風に彼に接した大人はいなかった。
 その後、フライハイトの父親と、特に交流があったという訳ではない。それはヴァールの方がフライハイト以外の全ての人間を避けていたせいと、フライハイトの父親の方でも、他人と関わりを持とうとしなかったせいでもあった。
 ヴァールの子ども時代の話は、どれも辛いものだった。初めて聞いたこの話も同様に。それでもフライハイトは、ヴァールの心の中に、ほんの少しでも自分の父親が生きていることを感じて、心が慰められた。
「お前は、よく似ているな。顔や雰囲気が」
 そんなふうにヴァールは締めくくった。前にも同じことを言っていたなと、フライハイトは思った。そして、村の年長の人間たちも、度々そう言っていたことを思い出しながら、似ているのであれば、それは姿形だけであって、到底父親のようにはなれないと思った。フライハイトとヴァールは、それぞれの物思いに沈んで、黙り込んだ。
 夢の中で、父は何を指さしたのだろう。
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