37.偽王

文字数 2,953文字


「その者は、正当な継承者にあらず」
 ミーネは繰り返した。
「何をしている、その者たちを捕らえよ」
 凍りついたように動きを止めていた人々はハイマの鋭い声に我に返った。その声に切り裂かれたかのように、人々の群が左右に割れ、ミーネたちとハイマの間に道が出来た。魔術師は落ちつきはらった様子で、ミーネたちを睥睨(へいげい)した。その黄金色の瞳の威圧的な輝きを目の当たりにしたヴィーダーの数人が唾を飲み込んだが、ミーネ自身はハイマと同様、微動だにせず強い視線を返した。
 広間を警護していた兵士が動き、ミーネらを取り囲んだ。しかしその幾人かが逆に彼らを援護する側に転じた上に、彼らと共に白の回廊から入ってきた兵士が複数いた。数の上ではまだハイマ側の兵が圧倒的に優位であったが、その状況に彼らは動揺した。
「その者はアングストにあらず」
 睨み合う兵士の向こうで、ミーネがよく通る声で言った。それは宣言のように混乱した状況に割って入った。
「黙れ。神聖な儀式を冒涜するつもりか」
 ハイマの大きくはないが引き締まった声は動揺した空気をぴしりと鞭打つような響きがあった。
 ミーネは手に持っていた袋を無造作に放り投げた。対峙していた兵士たちが思わずそれを避ける。袋はミーネとハイマの間に作られた空間に弧を描き、床の上に落ちた。
 中から黒い固まりが転がった。
 何事かと、人々がそれに視線を集めた。それが何か知った人々から小さな悲鳴が漏れ、ざわめきが波のように広がっていく。
 それは干からびた人の手であった。そしてその指には王子に与えられる指輪が()められていたのだ。
 人々は息を飲み、反射的にアングストを名乗る人間の方を向いた。視線を浴びた王子は激しく震えながらその場に(くずお)れた。彼の手から王家の宝剣が滑り落ち、その場の空気を現したような硬く鋭い音がした。
 しかし、ハイマは声をたてて笑った。
 ミーネは魔女を見た。
「それが、なんだというのだ?」
 魔術師は言い放った。
「それが何を証明しているというのだ? その手が誰のものかは知らぬがな。アングストはここにいる」
「しかし、指輪が」
 青褪めた顔の大臣の一人が慄いたように言ったがハイマの黄金の瞳だけがさっと向けられると、大臣は胸を矢で射抜かれたように体を強張らせ、そのままよろよろと後退った。
「そうそう。指輪は盗まれたのだった。つまり、お前が盗賊というわけか?」
 ハイマはゆったりと言って笑った。花が散るような軽やかな笑い声だったが、それは人々の不安を誘う声だった。
「その指輪の持ち主は、その手の持ち主だ。アングストはすでにこの世のものではない。逆に、お前はどうやって、そいつをアングストだと証明するのだ?」
 ミーネが床に壊れたようにうずくまっている王子を指さしながら前へ進む。人々は動揺し、その指が指すものを見つめた。兵士たちも同様に、その場に凍りついたままだった。
「不思議なことを言う。証明の必要などなかろう。このお方はアングスト王子に他ならぬ」
 ハイマがそう答えたとき、ふいに風が吹いたかのように御簾(みす)が揺れた。その向こうにいる人物が動く気配がして、人々は息を飲み、ミーネも、またハイマも含めて全ての者が動きを止めた。
 ベールを割って痩せ衰えた手が半分程のぞいた。誰かの小さな悲鳴がした。それは色さえ白くなければ、まさに床に転がった手首と同じように見えた。
 魔術師たちが我に返ったように、慌てて駆け寄り、ベールを左右に割った。立ちすくんでいた人々は条件反射のように一斉に(かしこ)まり、その場にひざまずいた。
 ベールの向こうに、痩せ衰えた一人の死人のような男が現れた。
 豪華で愚かしいほど華美な衣装がなければ、その痩せさらばえた男が王だとは誰も思わないだろう。病のためだけでなく、得体の知れぬ荒廃がその肉体を冒し蝕み、全身を浸潤していた。それは骨にただれた醜い皮を(かぶ)せたただのしなびた人体でしかなかった。
 細い体には豪華な衣装の重みでさえ苦痛のようであり、王デュランは立ち上がるどころか動くことすらできないようだった。すでにその様子は死者のようであり、長く人前に現れなかった王の変わり様に人々はただ茫然としていた。
 王は何かを喋ろうとしていたが、その力はすでにないようだった。まるで陸に上げられた魚のようにぱくぱくと口を動かすだけだった。王の濁った虚ろな視線が、床に突っ伏して震える王子を見、そして床に転がる(しな)びた手を見た。
「確かに、その者がアングストであるかどうかなど、どうでもいいことかもしれぬな。そもそも、その男は王ではないのだから」
 ミーネは言って、ディランを指さした。その指先を、王はのろのろとした視線で見つめた。
 ハイマは冷徹な顔でミーネを見た。人々はミーネの言葉に動揺していたが、その中には彼を支持する気配があることをハイマは感じ取っていた。愚かしいことだと彼女は冷めた気持ちで思う。ここにいる者は皆ディランについていた者たちであり、今現在があるのもそのお陰だというのに。もしもこの体制が崩れればどうなるか、わからないのだろうか。反逆者として放逐された第一王子派がどうなったのか、もう忘れてしまったのだろうか。愚かな事だ。
 そう思いながら、ハイマは人々の、今を拒絶する気配が実は自分に向けられたものだということを自覚していた。それが彼女の中に怒りを産んだ。
「お前はその男を王にするために、偽ったのだ」
「偽った? 何をだ?」
 男に話しを続けさせるべきではないことをわかっていたが、ハイマは問い返した。
「前回の戴冠の儀式の際に、先王の遺言としてファステン王子ではなく、ディランを王とするとお前は告げた。が、それは偽りであろう?」
「馬鹿な。王の遺言は正当なものと認められている」
 言葉が両者の間を静かに、けれど研ぎ澄まされた剣のような鋭さで行き交ってから、ミーネとハイマはしばし互いを見つめた。
「お連れしろ」
 ミーネが部下に命じた。マントを着た人物が両脇を支えられて彼らの背後から現れた。
 何かを感じてか、それまで冷静だったハイマの形相が強張った。その短い表情の変化の一瞬、女の顔は醜く(ゆが)み、本来の年齢がその顔をよぎった。が、すぐにそれは美しい女の顔をかぶり、同時にその全身に陽炎のような赤い色が立ちのぼり揺らめいて消えた。
 マントを着た男ははっとしたように歩みを止めたが、それまでの覚束なげな足取りから変わり、しっかりとその場に立っていた。そして頭を女魔術師の方へ向けると、静かな動作でフードを後ろへと取り去った。男は年齢のわからぬ顔をしていた。酷く老けているようでもあり、意外に若いようでもある。痩せてしなびていたが、その瞳は炯々(けいけい)と輝き、何物にも揺るがない強さと深さを持ち、ハイマの憎悪の眼差しを静かに受け止めていた。
 人々の間からそれまでとは違う低いざわめきが起きた。魔術師と司祭たちが口々に小さな悲鳴に似た声を上げ、震えながらその場に座り込んだ。
「アゴーニア大司祭」
 誰かが男の名を震える声で(つぶや)いた。
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