29.険しい道

文字数 5,423文字

 はっと、ハイマは我に返った。
 心が肉体に戻ってきたのを意識した途端、どっと疲労を感じた。何とこの肉体の重いことか、いっそ服を脱ぐように、新しい体に取り替えられればいいのに。そう思いながら、彼女は自分の老いを認めたくはないが故に、そのことから意識を離した。
 周囲に血の匂いを感じた。フライハイトの血だった。若く精気に溢れた男の血の匂いに彼女は酔ったようにうっとりとした。瞼に男の野性動物を思わせるしなやかな動きが残像となって残っている。彼女はその動きに覚えがあった。何度も繰り返し、フライハイトの姿を再生する。男の顔の中に別の男の面影を見いだすと、ハイマは乾いた笑い声を漏らした。
 そういうことなの。
 彼女はくつくつと笑った。しかし獰猛さを秘めた瞳は、ひんやりと凍っている。
 動くべきものが、動いている。帰るべきものが、帰ろうとしている。
 まるで決められた運命のように。
 何かが変わろうとしている。それを止めることはできないのかもしれない。自分が老いていくという現実と同じく。そう、自分の力が落ちていることを彼女は認めないわけにはいかない。もう昔のように、己の力を信じることもできない。人とは違う力を持ってしても、老いを止めることは叶わないのだ。
 すべてが崩れていくような感覚がした。自分を含めた世界が、砂のように(もろ)く壊れていく。これは私が作り上げた世界。だから私と共に滅びさるのか。
 ハイマを戦慄した。たとえ、そうであっても、お前だけは許さない。
「エテレイン」
 ハイマの赤い唇が、まるで愛しい者を呼ぶように名前を呟いた。黄金の瞳の中に炎が燃えた。

 無言のまま、自分の手を手当てしているヴァールが、ただ単に不機嫌なだけでなく、怒っているのをフライハイトは感じていた。何が原因なのか、わからない。自分の服の袖を裂いて包帯の代わりとし、器用に傷口を縛っていくヴァールに、フライハイトはされるままだった。
 追手の姿はすでにない。ただ、それはしばしの猶予なのか、それとも完全に振り切れたのかはわからなかった。とりあえず危険は去ったと判断したヴァールは、街道から逸れて森の中へ入り、安心できる場所を見つけると馬車を止めた。フライハイトが、それまで注意を払う間もなかった魔術師の様子を確かめる暇もなく、ヴァールはその手から滴り落ちる血を見るなり寄ってきて、傷ついた右手を掴んで眺め、眉を寄せた。そして黙ったまま手当てをしてくれたのだが、その感情は酷く波立っていた。
 しばらくその肩を見ているうちに、ヴァールが自分の傷に対して、驚き慌てているのだと察した。傷は掌と指を横に深く切り裂いていて、指の傷は骨まで傷つけていた。
「頑丈に出来ている。心配はない」
 フライハイトは言ったが、ヴァールは予想していた通り、心配などしているものかという顔つきで、チラリと睨んできただけだった。フライハイトは緩く笑った。
「フューレンは大丈夫だろうか?」
 話題を変え、ヴァールの気持ちを紛らわせようと思ったこともあるが、本心からの言葉でもあった。いかに彼女が優秀な剣士であっても、あれだけの兵士を相手にすることなどできない。つい無駄とわかっていても、駆け抜けてきた方向に視線をやる。そこには追手の気配もなかったが、剣士が追いついてくる様子もなく、しんとした朝の気配があるだけだった。その静寂がフライハイトの心を不安にさせた。
「うまく、逃げていればいいが」
 ヴァールが無言のままなので、フライハイトは独り言のように呟いた。そして荷台で、藁にまみれて無造作に転がっている魔術師の様子を見に行き、怪我はないことを確認して安堵する。魔術師は目覚めていて、消えようとしている星空へ、虚ろな瞳を開いていた。
「これから、どうする?」
「都へ」
 黙りこくったままだったヴァールがようやく声を出した。しかしそれは今までに繰り返された言葉に過ぎない。フライハイトは強い疲労感を覚えた。
「都に行って、その先はどうなるというんだ?」
 ミーネが何を考えようと、魔術師が必要であろうとなかろうと、無意味なことだと思えた。何より、ヴァールがそれにこだわり続けることが、理解できなかった。
「お前は帰ってもいいんだぞ」
 ヴァールがそっけない声で言った言葉に、フライハイトはふいに頭が沸騰するような怒りを覚えた。
「どこへ帰れと言うんだ?」
 思わず吐き捨てるように言った声に、ヴァールがはっと顔を上げた。そこに、驚き、呆気にとられ、たじろぎ、そしておびえが現れて、消えた。あとには、全てを拒絶する強ばった表情が残った。しかし、フライハイトはその硬い顔の下に、動揺があるのを見て取った。
「俺につきあう必要はない」
 ヴァールはぼそりと言った。フライハイトはそのかたくなな態度に、ためいきをついた。魔術師に視線を向け、どのみちヴァールについていくしかないのだとわかっていた。そうしなければ、ヴァールは解放されないのだろう。おそらく、エテレインも。それが何からなのか、フライハイトにはわからなかったが。
「行こう」
 フライハイトが疲れた声で言うと、ヴァールはどこか遠くを見つめたまま、かすかにうなづいた。

 最初にヴァールが考えていたように、街道から離れることにした。公道から外れると、都への旅路は遠く険しくなる上に、治安も良いとは言えない。が、種類が違うだけで、どのルートを行こうと危険はつきものであり、どの種の危険を選ぶかの差に過ぎない。自分たちにとって、一番やっかいな追手の探索の網を広げさせるためにも、山道を行くべきだとヴァールは判断したようだった。
 道はゆるやかな坂となり、次第に深い森の中へ彼らを導いて行く。フライハイトはいくらか進むうちに、木々の間から時折見渡せる風景から、自分たちが山岳地帯にいることを知った。その道も次第に険しさを増し、馬車を使うのが難しくなってきた。途中で馬を外し、荷台を谷の底へ落とした。
「エテレインは俺が持とう」
 ヴァールが言った。乗馬の習慣のないブロカーデで育ったフライハイトは、馬に乗り慣れていなかった。確かに、自分一人でもあぶなかっしい感じだったので、素直に魔術師を託した。もっとも、ヴァールも手慣れているとは言いがたいが、それでもフライハイトよりはましだった。
「そんなに緊張することはない」
 おっかなびっくりという腰つきで、手綱を操りながら馬上で汗をかいているフライハイトを見て、ヴァールがからかうように言う。フライハイトはふんと鼻を鳴らしてみせたが、内心落ちつかなかった。乗馬のせいではない。切り裂かれた右の掌が酷く痛んだ。それだけではなく、全身に悪寒があった。皮膚の下を何か小さなものがごそごそとはい回っているような、気味の悪い感覚が全身に広がりはじめている。フライハイトは無理やりその感覚を無視しようとした。
「なあ、ヴァール。ミーネは本気で世の中を変えようなどと思っているのか?」
 気を散らすために、フライハイトは話しかけた。答えないものと思っていた友人は意外にも返事を返した。
「思っている、というか、変わると信じている」
 ヴァールは前を向いたまま言った。フライハイトはミーネの口から聞いた、復讐という言葉を思い出す。彼は、許さないとも言った。彼が言うところの、世の中をあるべき姿に正すと。自分とミーネとは、反逆者の子孫という同じ立場にあったが、彼がやろうとしていることが理解できなかった。たとえ今、何かが変わったとしても、過去が修正されるわけではない。
「変えて、どうなる。何を望んでいるんだ?」
「ミーネの一族は名門だった。親父は昔この国の政治の中枢にいて、代々大臣を勤めていた。それが、選択を誤った」
「第一王子を選んだんだったな」
 フライハイトが言うと、ヴァールは皮肉ぽい笑みを唇に浮かべた。
「いや、それが、単純な話じゃないんだな。あいつの親父は風見鶏だったのさ。戴冠式前までは第一王子派だった。ところが第一王子派が反乱を起こした途端、見限ったというか、裏切ったというか、あっさりデュランに鞍替えした。まあ、彼にしてみれば、王に従ったまでで、責められるいわれはないかもしれないが」
 生き残ることが全てであるなら、その男の選択は責められるものではなかっただろう。第一王子ファステンにつくのは本来なら正当なことであり、その後、王となったデュランを主とするのは、臣下として不自然なことではない。事実、フューレンの父、エルンストも王を絶対主として、その意向に従った。
「ただ、そのやりようが顰蹙(ひんしゅく)ものだった。いかに、第一王子派が戴冠の儀において、突然その権利を奪われて動転したにしても、何の計画も無しに、無謀な反乱を起こした訳じゃない。彼らは道理を考え、筋道を立てて計画を練った。当時から国を憂い、その腐敗の中心となっているハイマを追放しようとする動きがあったから、やりようによっては成功する可能性もあった。
 ところが、その計画を全て、寝返った際の手土産としてミーネの親父がハイマに暴露したのさ。まあ、そのお陰で彼は生き残ることができたし、地位も保証された。が、人間としての信頼は、永遠に失ってしまった。例え、王デュランのためにしたという名目があったとしてもだ。裏切り者はどの世でも侮蔑の対象であって、二度と、誰にも、尊敬されない。ミーネはその男の息子として生まれ育ったわけだ」
 フライハイトは、ミーネの出自が彼にどのような影響を与えたのか漠然と理解した。ミーネの一族は、父親の裏切りによって、第一王子派にも、デュラン派にも属すことができなくなったのだ。
「ミーネの世界は分裂している。現王制下で、一族は今もそれなりのエリートと認識されているが、与えられる地位は閑職だし、誰からも相手にされない。どのような能力も、努力も、決して認められることはない。だから、あいつは自分がいるべき世界が間違っていると感じるようになった。本来あるべき世界は、第一王子が王となる世界だと考え、失われたその世界に、執着するようになった。父親が裏切る前の世界に」
「その男はどうなったんだ?」
「ミーネの父親は、二十年も前に暗殺されたよ」
「暗殺? 誰に?」
「犯人はわからないままだ。が、裏切り者の末路としては、平凡なオチだな」
「第一王子派に?」
「多分な。三十年前の事変で、第一王子派は一掃されたが、殲滅(せんめつ)したわけではない。どちらにもついていなかった人間も多いし、第一王子派についていた人間の中には、巧く立ち回った者もいた。さすがにハイマでさえ簡単には排除しきれなかった人間もいた。彼らは己の思惑を巧く隠して、都に残った」
「では、第一王子派というのは、まだ生き残っているのか?」
「ああ。だが、それほど積極的な訳ではない。今の体制に反発を抱いてはいるが、何しろ肝心の第一王子がいないとなっては、彼らを動かす原動力は何もないんだ」
「つまり、それは……」
 フライハイトは言葉を濁した。つまり、逆を言えば、第一王子その人がいれば、彼を支持しようとする動きが起こる可能性があるといるということだった。そして、ヴァールはその第一王子がまだ生きていると言った。ヴァールを見ると、彼は前を向いたまま頷いた。
「あの魔女は、罪に問うことのできなかった隠れた第一王子派や、国を憂う賢臣を見つけだし、政治の中心から外していった。残ったのは、従順で臆病な者ばかり。が、今となっては、それが逆にハイマを追い詰めることになるだろう。忠誠心から命懸けで王と魔女を守る者はいまい。もしも、何か事が起きれば」
「ミーネはその何かを起こすつもりなのか」
「そうだ。主を失い、虐げられている第一王子派だけでなく、現王の体制に疑問を抱いている者たちの不満は少しの衝撃で、爆発するだろうから―」
「ヴァール」  ふいにフライハイトの声がヴァールの言葉を遮った。その声の響きに警戒を感じ取って、ヴァールは馬の歩みを緩めた。フライハイトもそれに合わせる。ヴァールは前方を見つめる目を(すが)めた。山霧が立ち込め、視界がぼやけている。
「誰かいる」
 まだヴァールには、その気配を感じることはできなかったが、フライハイトの鋭敏さには信頼をおいている。そしてその声の響きの硬さから、それが危険なものだと察し、緊張する。
 ふいに冷たい風が流れ込んできた。二人の間の白いベールが流れ去っていった。ヴァールは傍らに並ぶフライハイトに視線をやって、ぎくりとした。その横顔の様子が酷くおかしい。(おびただ)しい汗は緊張のせいだけではなく、血の気のない白い色は朝靄ごしにその肌を見ているせいではない。怪我のせいかと気づいた時、人の気配を感じて、ヴァールははっとした。
 それは複数の人間のものだった。馬上の三人の前に、数人の男たちが立ちふさがった。気づけば後ろにも数人いて、彼らは完全に包囲されていた。
 最初は追っ手かと思ったが、まるで夢から覚めたように、あっという間に霧が流れ去り、日の輝きの中に現れた彼らの出で立ちを見て、そうではないと気づいた。ある意味、もっと質が悪く、扱いにくいその男たちは、山賊だった。
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