27.二人

文字数 7,142文字

 そこから宿へ辿りつくまでがまた一苦労だった。道行く人に訊こうにも、宿の名前すらわからない状態だった。途中で逆に自分を探していたらしいヴァールと出会わなければ、冗談でなく帰れなかったかもしれない。
「腹が減った。飯を食いに行こう」
 ヴァールはフライハイトを見るなりそう言った。その顔に安堵と憂慮、探るようなものと問いたげな表情とが複雑に絡み合っていたが、結局ヴァールは何も言わなかった。
「魔術師とフューレンは?」
「彼女なら俺たちが戻った後に、自分で好きにするさ。エテレインは物を食わない」
 そう言って、すたすたと歩き始める。ふとその背を見たとき、ミーネの言葉が谺した。
 お前にはわかっていないのだ、あいつのことが。
 確かに、そうなのだと思う。子どもの頃から、わからないことは多かった。マクラーンを出てから何があったのか、どのような生き方をしていたのか、知らない。ヴァールの中で、変わったものがあるのかもしれない。それでも、変わらないものもあるはずだった。フライハイトは、ミーネの言葉を心から追い出した。
 ヴァールが決めた飯屋で二人はテーブルを囲み、黙々と食べた。味を堪能するというより、取り敢えず腹をふくらませるという目的の方が大きい。ブロカーデを出てから、まともな食事は初めてであり、暖かな料理は体と同時に心も温めだ。がつがつと犬のように、少々行儀悪く貪り食っていたが、周囲もさして変わらないので、誰も気にはしない。
 人心地ついたところで、二人は少しスピードをゆるめた。味付けがわかる程度に。ヴァールはそれが不味いものだという評価を下し、フライハイトは食べたことのない味だという評価を下した。ついでに自分が何を食べているかも、少々不明瞭だった。
「あいつに、会ったのか?」
 ふいにヴァールが訊いた。その視線は皿の上に向いたままだ。
「ああ」
 何故、ヴァールがそのことを知っているのか不思議だったが、この街を熟知しているのはミーネたちだけではないことに思い至ると、想像はできた。
 ヴァールはしばらく黙り込み、炒めた野菜をスプーンで黙々と口に運んでいた。見ると青い葉の菜だけが残っている。昔からヴァールはその野菜が苦手なのだ。大人になったのに、なおっていないらしい。ふいにフライハイトは、ミーネもそれを知っているだろうかなどと考えてしまい、気が滅入った。ミーネの言葉など、気にする程の意味もないのだと思いつつ、張り合うようにそんなことを考えた事自体が不愉快だった。
「お前のことを、俺はわかっていないと、言われたよ」
 何でもないことだと確認したかったからか、フライハイトは世間話の口調でそう言った。ヴァールのスプーンの動きがふと止まる。再び動き出す。また止まる。そしてそのまま動かない。
「あいつは、面白い男だった。最初の頃は、だが」
 スプーンが動く、止まる。話したくない、けれど話さないといけない、そんな風だった。フライハイトは待った。
「都に行って、多くの人間を知ったが、どいつもつまらなかった。空っぽな奴ばかりで。だけどあいつは違っていた。だから俺は、興味を持った。いろんなことを知っていたし、教えてもくれた」
「お前に?」
 フライハイトは意外そうに言った。ヴァールが誰かから、何かを学ぶ様子など想像できない。彼はいつも独学し、自分で調べて、自分で知ろうとする人間だった。人の言葉を簡単に受け入れることなどなく、自分の体験で知ったことだけが全てだと考えている、そう思っていた。
 フライハイトの考えが見透かしたのか、ヴァールはかすかに口許を歪めて笑った。ふと、フライハイトは、ヴァールがまだ一度も自分を見ないことに気づいた。
「そうだな、何かを教えてもらったというより、ヒントを与えてもらったと言った方が近いか。俺はあいつの考え方や思想に興味を覚えた。その可能性について考えたし、調べもした」
「それは、この国を変えるとかいうやつか?」
「まあ、そうとも言えるかな。そいつはミーネの思想で、俺は、それ自体はどうでもよかった。ただ、その過程で知った事に興味を覚えたし、ミーネも俺がそれについて調べることを喜んだ」
「三十年前の事変のこと?」
「ああ。三十年前のことと、そこにいたるまでに何があって、何が真実なのか。俺は夢中で」
 ヴァールは、ふいに口を閉ざした。唇を噛みしめる。前髪に隠れて、その瞳はフライハイトには見えなかった。何かに耐えているようなその姿を、フライハイトはずっと昔に何度も見た。燃えるような感情が彼の中で渦を作っているのだ。子どもの頃、ヴァールはそれを表に出すことが敗北だと決めつけていたために、いつも隠そうとしていた。その息苦しくなるようなかたくなさに、苛立ちと哀しみを覚えた幼い頃の記憶が蘇る。その瞳で自分を見てくれたらと、そう思う。
「違う。真実なんて、もう、どうでもよかった。俺は、あいつに、ミーネ自身に、惹かれていた」
 声がかすれていた。
「あいつは、俺のことを理解してくれていた。少なくともあの頃は、そう思うことができた。知らないうちに、俺はミーネを信頼するようにもなっていた。知らないうちに」
 ヴァールはそれが過ちであったかのように、愚かなことであったかのように、もう一度「知らないうちに」と繰り返した。それはまるで弁解するような口調だった。
「だから、奴が望むなら、出来ることは何でもした。奴のために夢中で探求した。奴の役にたつことが、ガキみたいに嬉しかったとはな。あいつは俺がブロカーデ出身だということを喜んだ。ブロカーデという名は、あいつや、かつて第一王子を擁立し、生き残った人間を刺激する名前だからだ。だからミーネは喜んだ。あいつが喜ぶので、それだけの理由で自分があの村の出身だということを、初めて喜びさえしたさ。俺は……、自分がそんな馬鹿げた人間だとは知らなかった」
 一息に話して、唇を噛む。再び話し出した時にはその声は震えていた。
「だが、奴は俺のそんな気持ちをわかっていて、それを……利用したに過ぎなかった。ブロカーデという名前も…含めて……、俺を、ただ利用したんだ。便利な……道具のように。そんな俺を、奴は面白がって」
「ヴァール」
 フライハイトはヴァールの言葉を静かにさえぎった。その声の、自分自身を傷つけようとする自嘲の響きが耐えられなかった。
 口をつぐんだヴァールの痩せた肩が、悔しさのためか、憤りのためか、小刻みに震えていた。その震えがフライハイトにも伝わり、彼の中に哀しみを産んだ。
 誰かを必要とし、そして必要とされること。ヴァールが本当に欲しがっていたものだ。ブロカーデの村で守ってくれるものもなく、蔑まれ拒絶されて生きていたヴァールが欲しかったもの。しかし、ヴァールはそれを求めない生き方をしてきた。そうしなければ、あの村で生きていくことはできなかった。ミーネは、ヴァールにそれを与えた。それを受け入れる気にさせるだけのものが、ミーネにも確かにあったのだろう。が、ミーネは結局、ヴァールを裏切ったのだ。実際には何があったのか、フライハイトには知りようもない。が、ヴァールが裏切られたと感じていることが、全てだった。
 ヴァールの最も弱い部分を、ミーネは手ひどく傷つけたのだ。それを、知っていながら。
 あの日、森の奥でヴァールが多くの子どもたちに傷つけられた時のことを、フライハイトは思い出した。あの時のように、泣けない彼の代わりに、泣くことができたらいいのにと思った。そうする代わりに、フライハイトは手を伸ばし、ヴァールの手を掴んだ。ヴァールの体がぎくりとする。ヴァールはその手を拒まなかった。
「俺は決着をつけたいんだ」
 ようやく顔を上げたヴァールの瞳に、あの時と同じように、憎しみに似た炎が燃えていた。苦痛を彼は怒りと憎悪に変える。それを糧にしてヴァールは生きている。それがフライハイトには少し辛い。
「何の?」
「ミーネはエテレインを利用して、今の王を失脚させようとしている」
「何故、そのことに魔術師が必要なんだ?」
「この国の施政者は、王と魔術師とで成り立っている。その二つが揃うことが重要なんだ。エテレインは唯一の第一王子派の魔術師で、彼をおいて他にはいない。
 あいつは、“正しい道”、つまり第一王子とエテレインを揃えることで、王位を有るべき形に戻すつもりなのさ」
「いまさら? そんなことが可能なのか?」
 果たして、今の魔術師の状態と、その存在が定かではない第一王子の二人が揃ったとして、どうなるとも思えない。むしろ、彼らへの期待は、失望に変わるのではないか。
「わからない。が、三十年前とは状況が違う。三十年、いやその前王の治世からこの六十年を越える悪政のせいで、クラーニオンはぎりぎりの所まできている。おまけに今度の戴冠式で王になるデュランの息子は正真正銘、掛け値無しの大馬鹿ときている。それに国の衰退は他国との力関係に影響を及ぼす。国内の問題だけでなく、他国もこの国を脅かすに十分な力を持つようになっているんだ。
 誰もが不安と不審を感じている。道義的な憂いでは中々動けなくとも、自分の足元が崩壊することの恐怖は人の心を変える。恐らく、魔術師と王子の帰還は、何かを変えるきっかけになるだろう。ミーネはそれを狙っている」
 ヴァールの説明する声が、わずかながら熱を帯びているのを聞き取った。ヴァール自身の、魔術師への執着と、彼をどうするかの答えが、その熱の中にあるのを、フライハイトは感じた。
「お前もか? この国が変わることを望んでいるのか?」
「そうだな。変化は望むところだ。どう転ぼうとも。何かが壊れ、変わり、生まれるのを見るのは面白そうだ」
 そう言って、いつも見慣れた不敵な笑みを浮かべた。子どもっぽい弱さと感傷は既に消えていた。少なくとも表面的には。
「俺はな、フライハイト。見届けたいんだ。この国の行方、ミーネが夢見ているもの、そしてエテレインを」
「魔術師を?」
「そうだ。魔術師を。あいつは何のために今まで生きてきたのか、何故死を選ばなかったのか、今はすっかりおかしくなっているが、少なくとも生きることを選んだ時、何かを望んだはずなんだ。それが何なのか、知りたい。ずっと子どもの頃から、知りたかった。もっとも、今のエテレインに、望を叶える力があるのかどうか、甚だ疑問だが。だが、俺は試してみたいんだよ」
 ヴァールは魔術師、というよりマクラーンの魔物という存在に、ある種の共鳴を感じているのだろうと、フライハイトは思った。
「第一王子は? 彼も戻ってくるのか?」
 フライハイトの問いに、ヴァールはしばらく間をおいた。
「ああ、第一王子もだ」
 そのことを、何故彼が知っているのか、ミーネたちがそれを計画しているのか、訊こうとしたが、その話題に対してヴァールの中で何かが閉じられるのをフライハイトは察した。
「そろそろ、帰るか。腹も膨れた」
 ヴァールは彼独特の歪んだ笑みを見せた。
「何か持って帰ろう」
 フライハイトは魔術師のことを思って言った。
「だから、エテレインは何も食いやしないし、必要もない。三十年間、それでも生きていられたんだから気にすることはない」
 ヴァールはそう言ったが、フライハイトが頑固に意見を変えないだろうと考えたらしく、呆れながら、フューレンの分まで料理を何品か注文したのだった。

 夜もすっかり更けて、ようやくそろって戻ってきた二人に、フューレンは怒ることなく、安心を顔に浮かべた。義理堅く礼を口にして料理を受け取り、入れ代わりに出ていった剣士を見送ってから、フライハイトは魔術師の様子をうかがった。彼は目覚めたままだった。
 ヴァールの揶揄する気配を感じながらも、夢を見ているような遠い眼差しの魔術師を抱き起こし、壁際に丸めて置いた毛布に寄り掛からせた。料理を彼の前に差し出したが、反応はない。まだ温もりを失っていない料理の香りは魔術師の意識には届かないらしい。フライハイトが振り返ると、床に座ってくつろいでいるヴァールは素っ気なく肩をすくめただけだった。
 それでも諦められず、フライハイトは魔術師の顎をそっとつかみ、唇から中へ指を入れ、歯を押し開いた。匙ですくったスープをそこから慎重に流し入れてみた。しかしそれは、うつむき加減の魔術師の唇から流れ出て顎を汚しただけだ。それを匙ですくってやるうちに、フライハイトは幼い息子に同じようにした日の事を思い出した。胸の奥が騒いだ。彼は魔術師の表情のない顔をじっと見つめて感情を押さえ込もうとしたが、瞳の奥が熱くなり、潤み始めたので瞼を瞬いた。
 その時、ふいに魔術師の瞳が動いて、フライハイトを驚かせた。支給された一泊分の油は既に切れ、ランプは消えていたが、月の明かりがほんのわずかに弱めていた夜の闇の中でも、それは見間違いではなかった。
「ヴァール」
 一瞬、その瞳が何かを探しているように思えて、思わずヴァールを呼んだが、虚ろなままのそれは力なく揺れただけだった。
「どうした?」
 ふいに呼ばれたヴァールが、眠そうな顔をして近づいてきた。
「今、目が動いたぞ」
 しかし、ヴァールは魔術師の顔をちらりと見ただけで、興味を示さなかった。
「そりゃ、動くこともあるだろうさ。それがどうかしたか?」
 特別な意味はないというように、ヴァールは欠伸をすると、再び床に座り込み瞳を閉じた。その顔はひどく疲れて見えた。
 どうもしないけど、とフライハイトはつぶやいて、少しがっかりした。確かに言われてみるまでもなく、どうということはないのだ。ただ、瞬間、その瞳に何かの意思があるように思えたのだが、それは自分の期待が見せた幻だったのだろうか。諦めきれない思いで魔術師を見つめ、やがてそれは失望感に変わった。
「早く寝ろ。少し休んだらすぐに出掛ける」
 ヴァールは面倒臭そうにそう言いながら、既に眠りに落ちようとしていた。
「すぐに?」
 フライハイトの問い返しにヴァールは答えなかった。眠り込んでしまったようだった。おそらく、ミーネたちが魔術師を狙ってくることは、当面の間ないだろう。残る追っ手は王たちの軍、つまりはこの国そのものだった。しかし、フライハイトはこれだけ大きな街の中に紛れ込んでいれば、そう簡単に自分たちを見つけ出せないだろうと考えていた。どうやらそれも、甘い考えらしかった。ヴァールは夜も開けぬうちに出発するつもりだろう。
 少しでも休んでおくべきではあったが、フライハイトは魔術師に食事をさせるという初期の目的を省くつもりはなかった。「食べる」という行為が人間の基本のような気がしたからだ。あの忌まわしい「食事」ではなく、口から暖かな食物を摂ることが、人としての回復を促すのだと思った。例え、魔術師がどのような摂理の中で生きていようとも。
 気を取り直して、魔術師の顎をそっと持ち上げ、再びスープを唇に流し込む。魔術師の白い喉が上下に動き、それを嚥下した。ほっとしながら、二匙目を流し入れた。魔術師の体はそれも受け入れた。フライハイトが匙を止めるまで、魔術師は彼が与えたものを飲み込んだ。皿半分程を流し入れたところで止めたのは、急に多くのものを食べさせるのは体への負担が大きいと考えたことと、受け入れたら受け入れたで、無反応にそれを呑み込み続ける様子に、落ちつかない気持ちになったからだ。
 何気なく視線をヴァールに向けると、眠っていると思っていた男の瞳は開いていて、ずっと様子を眺めていたらしかった。フライハイトと目が合うと、ヴァールは寝返りを打って、背を向けた。
 フライハイトは魔術師の体を横たえ、その体を丁寧に毛布でくるんでから床に座り込んで、しばしの睡眠を取ることにした。有り難いことに眠りはすぐにやってきたが、眠りは浅く、様々な夢が消えては現れ、神経が眠りの中でさえ休まらなかった。
 夢は次第に悪夢へと変わっていった。どの夢の中でも絶えず奇妙な声が聴こえていた。神経を逆撫でするその声は、誰かがくすくすと小さく笑う声だった。フライハイトは聞き覚えのないその声が誰のものか、夢の中で考えて苛立った。
 体ががくりと落ちる感覚と共に、フライハイトは目を覚ました。さすがに深夜ともなると、部屋の中も外もしんと静まり返っていたが、何かせわしない音が聞こえ、半ばぼやけた頭で辺りを窺って、それが自分の早くなった鼓動の音だと気づく。
「どうした?」
 掠れたヴァールの声がした。フライハイトが視線を動かすと、起きていたのか、起こしてしまったのか、床に丸くなって座り込んでいるヴァールの顔がこちらを向いているのが見えた。
「何でもない」
 フライハイトは答えてから、少し寒さを覚えて、ヴァールの方へにじり寄った。ヴァールの気配が緊張するのを感じ、昔から眠る時に人の気配があると落ちつかないのだということを思い出した。が、構わず、彼の体温が感じられる程傍へ寄った。フライハイトの方は、生きている人のぬくもりが恋しかったのだ。
 ヴァールの体温を感じ、その鼓動のかすかな振動が伝わってくると、ささくれ立っていた神経が休まるのを感じた。しかし、ふいに柔らかな妻の体も暖かな息子の体も、二度と触れることはできないのだと思い、哀しみが胸に広がった。
 しばらくしてヴァールがフライハイトの肩に寄り掛かってきた。二人はそのまま子どものように眠った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み