23.闇の王宮

文字数 5,805文字


 王宮の地下にはもう一つの王宮が存在している。今の治世よりもずっと古い時代のものだ。天変地異により埋もれたとも、どこからか流れてきたものだとも言われていたが、正確なことは誰も知らなかった。
 そもそも、その地下王宮の存在を知っている人間自体も限られていた。地上にある現王宮よりも数倍の規模を持ち、一つの都市とさえ言える巨大な地下王宮は、複雑な構造の上に、大部分が崩れているため、迷宮と化していた。知らぬ者が迷い込めば出てくることは叶わなず、知っている者でもその構造の全てを把握しているわけではない。
 現在公式に確認されている出入口はわずかに三ヵ所。そのうちの一つは現王宮の中にある。他の二つは城下の街の中にあり、厳重に封印されている。街の人々はそこが地下迷宮の入り口とは知らぬまま、先祖代々から危険な場所として嫌忌されるようになっていた。それでも何年かに一度は、子どもが迷い込みそのまま帰ってこないというようなことがあり、そうして禁忌が強められるのだった。
 ファーデンは今、その地下迷宮の中にいた。用心深く迷宮の通路を辿(たど)っている。彼が入ってきたのは四番目の入り口。街の外にあるその入り口を知っているのは、彼らヴィーダーだけのはずだ。その通路はまるで地獄へ繋がっているような気がした。地獄でなければ、墓場だ。
 横道の数を数えながらファーデンは目的の場所へと歩を進めていく。時折何か奇妙な感触のものを踏みつけてしまい、びくりとするが、それが何か確認することはしない。右手が触れている壁の湿った柔らかな感触にぞっとしながら、いつまでたっても慣れない黴と何かが腐ったような悪臭に吐き気をこらえながら、それ以上に重量感さえ感じる暗闇の密度と窒息しそうな密閉された空間に、動物的な恐怖を感じながら、それでもファーデンの心のどこかは高揚していた。彼を補助するために後ろをついてきている仲間たちも同じだろう。
 壁が切れ、該当する横道に達したことを確認して、ファーデンはランプに火を点けた。圧倒的な闇の中では、救いとなるはずが逆に心細さを感じさせるか弱い光に晒されて、何か奇妙なものが、かさこそと逃げていく。音がするだけまだましだとファーデンは思う。少なくとも、その生き物は動けば音をたてるという自分たちに近い体の構造をしているのだ。
 この漆黒の闇の中で頼ることのできるのは地図だけだ。ファーデンとその仲間たちは小さな光を中心に頭を寄せ、その驚くべき地図を見つめた。地下迷宮の地図は本来存在しないとされていた。が、現にこうしてここにある。ヴァールが、目眩(めまい)がするほどの膨大な古書や混乱した資料の山の中から断片を見つけ出し、さらに研究してつなぎ合わせ、一つの形にしたものだった。ファーデンはその男を、反吐(へど)が出る程嫌っていたが、彼が残したものの何と有益なことか。ミーネの信望を得られた理由も、その点に関しては理解できた。もっとも、その点だけだが。ヴァールの事を思い出して、ファーデンは不愉快になった。
 彼らは次のポイントまでのルートを確認し、ランプを消した。長い行程で光を無駄にする訳にはいかない。それに最初のうちこそ火を消して暗闇を進むことに恐れを抱いていたが、逆に何がそこにいるか見えない方が、まだましなのだとすぐに気づいた。
 迷宮に入って四時間程が経過した頃、ようやく目的の場所に辿り着いた。ランプを点けると、錠前の掛かった鉄のドアが姿を現した。錠前はすでに壊れている。最初にここにやってきた時から、形だけ取り付けられていたが、それが機能していないことに気づく者など、いはしない。何故ならここは打ち捨てられ、忘れられた、誰も訪れる者のない墓場なのだから。
 錠前を外し、錆に覆われたドアを四人掛かりで押し開く。錆が剥離してファーデンたちに降りかかり、腐った金属が軋む不快な音がした。そのごく小さな音は、虚ろな迷宮の空洞の中を谺していき、まるで死にかけた動物の最期の悲鳴のように、細く長く遙か遠くまで続いていった。もしかしたら、どこかの出口から漏れだしたその音を、人々は魔物の叫び声と思うかもしれない。
 扉が開かれると、その向こうはさらに下へと延びた螺旋状の階段が続いているはずだ。そこに詰まっているみっしりとした闇に、小さなランプの明かりは何の役にも立たない。想像もつかぬほどの長い年月の間そこにたまっていた闇は、生き物ののように彼らの体の中に侵入し、心の中まで染めていく。
 ふいに、彼らの体内に満ちていた不安をさらにかき回すように、閉じられた地下空間から起こるはずのない風が吹き上がってきた。その風は外気よりもひんやりとした地下の空気の中で、奇妙に生暖かく湿り気を帯び、動物染みた匂いを孕んでいる。続いて獣の咆哮のような音が、遙か下の方で空気を震わせているのが聴こえた。
 全身が総毛立ち、冷たい汗がどっと吹き出す。誰かがごくりと喉を鳴らしたその音が響く。幼い子どもに戻ったような頼り無さと脅えが、四人を怯ませた。この下に、この世のものではない世界があるような気がした。人が踏み入ってはならぬ世界が。しかし、ファーデンは勇気を振り絞って、ややもすれば膝が砕けそうになりながら足を一つめのステップから降ろした。他の三人も続く。
 この下に広がる世界が異世界であるとすれば、それはどこか納得できるような気がした。何故なら、この地下には世界を修正する力を持つ人物が存在しているからだ。多分、世界を変える力を持つ彼がいるからこそ、ここは上とは違う世界として感じられるのかもしれない。ファーデンはそう考えてみた。そしてその力で、自分たちが無理やりおかれている誤った世界を修正してくれるに違いない。その人物をこの墓場から救い出す任務を、ミーネから与えられた喜びをファーデンは思い出した。それは原始的な脅えよりも勝り、彼を動かす原動力となっている。
 螺旋階段を降りていくに従い、空気は密度を増し、温度は下がっていった。自分の吐く息の熱を皮膚が感じる程だった。壁に手を這わしながら進むうちに、次第に方向感覚が狂っていく。永遠にこうやって下へ向かって回り続けているのではないかと思い始めた頃、最下層へ到達した。
 地図で現在地を確認した後、そこからさらに奥へと進む。地下迷宮の最奥、闇の中心にある、孤独な住人の住む部屋へと四人は息を殺して進んでいった。聴こえるのは自分の足音と呼吸の音、体内から響いてくる鼓動の音の他、時折遠くから得体のしれない不気味な音とも空気の振動とも言えぬ気配がした。魂がどこかへと運ばれていくとすれば、そんな音がするのかもしれない。
 やがて彼らは長い廊下の突き当たりに到達した。再びランプに火を点ける。黄色い光の暖かさに一瞬彼らは安堵を覚えた。が、すぐにその光さえも闇が吸い取っていくような気配に、体の芯が痺れるような恐れが戻ってくる。
 弱々しい光に照らされて、一枚の扉が現れた。螺旋階段に至る扉に似た鉄の扉の凹凸は錆のせいだけではなく、かつては精緻な装飾が施されていたのだろうとヴァールが言っていた。その昔、ここは壮麗な宮殿の一室だったのだ。今は違う。今は捕らわれた者を封じ込める扉に過ぎない。
 錠前は外され、扉の開閉は自在になっていた。けれど、この中にいる住人は、以前彼らがここを訪れた時と変わらず、中に止まっていることをファーデンは確信していた。
 男たちは恐る恐る扉を開いた。異世界へと続く扉であり、世界を修正するための扉だ。
 耳から入ってきた金属の軋む音は、直接彼らの心の襞に鋭い爪で掻き傷をつけていくようだった。
 開かれた扉の向こうから、なお濃い闇の気配がどっと押し寄せてきて、彼らはたじろいだ。その部屋には闇という名の怪物が詰まっている。それは現実であり、彼らの中の恐怖を実体化したものでもあった。
 ファーデンがランプを中に入れ、そこを照らしだす。ランプの光はほんの少し闇を押し退けたがあまり力はなく、その空間の何も照らしはしなかった。勇気はいつのまにか闇に食いつくされ、再び無力な幼い恐怖に捕らわれて、ファーデンはそのまま走って逃げ出したい衝動を覚えた。が、すでに彼の意識は感情や体の動きから分離していた。ただ燃え残った残滓のような信念が、唯一具体的な動作を命令として形づくることができ、彼の足は機械的に中へと動いた。
 ぞわりと肌が粟を吹く。まるでこの中にいる存在は、彼らの求めていた高貴なものではなく、闇と同化した得体のしれない魔ではないかという疑念が起こる。実際、そうでなければ一体どうやってたった一人、こんな所で生きていられるというのか。ふいに、これは魔女の罠ではないかという気がした。
 それでも既に、己の意思の元を離れたファーデンの足は、震えながら内部の闇に踏み込んでいった。朧な光の中にその姿はまだ現れない。
 が、確かに彼がそこにいる気配を、感じた。
 ほとんど無意識に、ファーデンはランプを動かし、周囲の闇を見すえた。
 光が何かを(とら)えた。ファーデンの心臓が肋骨を軋ませる程、激しく動悸した。
 その男はその部屋の隅に、室内の闇よりも尚黒々とした固まりとして存在していた。
 四人は、それが光に照らされた瞬間、反射的に(すく)み上がった。衝撃が去るのに時間が必要だった。彼らは息も止めたまま、しばし硬直してそれを凝視した。緩やかに緊張状態が解かれ、ある程度正常な思考能力が戻ってくると、彼らは男が既に息絶えているのではないかと思った。
 しかし、恐怖に彩られた四人の視線を浴びているその固まりは、かすかに動いていた。まるで凝縮した闇が生命を持って蠕動しているかのようなそれは、ぼろぼろの布を纏った人間だった。
「お迎えに……参りました」
 ファーデンは自分の声が酷く震えているのを意識した。その声はすうっと闇に吸い込まれ、どこかへ消えていくようだった。ぞっとした。ここは全てを吸い取ってしまう場所なのだ。
 男は動かない。
「お迎えに参りました」
 ファーデンは繰り返した。その声もやはり酷くか細い。四人は息をするのも恐ろしいような心持ちで、じっとしていた。汗がファーデンの背を濡らしていた。自分たちの他に、闇の中に何かがいるような気がした。
「帰るのだ」
 永遠とも思える時間が、或いはほんの数秒のことだったのか、静寂を破って男が耳障りなざらざらする声音で言った。その声は若いようにも年寄りのようにも―――或いは人のようにも、そうでないようにも―――聴こえた。高い声と低い声が混じったような、複数の人間が同時に同じ言葉を発したような、奇妙な声。
「一緒に来ていただきます」
 ファーデンは恐怖を押さえ込みながら言った。男が何か声を発したようだ。小さくて(うめ)き声なのか、笑い声なのかわからない。
「来ていただき――」
「私は、どこへも行かない」
 男はファーデンの言葉を遮り、しゃがれた声で、しかしはっきりと言った。ファーデンはその答えを(なか)ば予想していたが、やはり衝撃を受けた。ここを最初に訪れたミーネから聞いていた。その時も、彼をここから救い出そうというミーネに対し、男はそう言ったのだという。ミーネは男の意を汲んで、彼をここに置いてきたのだった。その話を聞いた時も背筋が寒くなるような感覚がしたものだ。
 何故、男はここにいようとするのか。何故、ようやく訪れた解放を拒むのか。
 男はここに幽閉されている。恐ろしい程の長い時間、この何もない暗闇の中に。人としての生を失ったに等しい状態で。恐らくは未来永劫、その肉体に死が訪れるまで。
 自分たちが差し伸べている腕は、男にとって最後の機会かもしれないのに、何故拒むのか。何故解放よりも、このおぞましい罰を選ぶのか。ファーデンには理解できなかった。男の精神は崩壊しているのかもしれない。或いは魔女の呪いによって闇に同化してしまったのかもしれない、と思った。が、実際に恐ろしいのは、この場所に止まることを望む男の心のありようかもしれなかった。
 だが、男は世界を変える重要なもう一つの鍵だった。男が何を考えていようと、何を望んでいようと、何者に変容していようと、すでにその存在は肉体の持ち主のものだけではないのだ。新しい世界のために、正しい世界のために、男は責任を果たさなければならない。そして自分は、自分に課せられた責任を果たさねばならない。男をこの場所から連れ出さなければならないのだ。
「貴方様は成すべきことを、成さなければならないのです」
 ファーデンの声は震えていた。それはこの場所の闇の恐ろしさと、余りにも冷えた空気と、彼自身の心の様々な動揺から起きていた。
「そのようなものはない」
 男の声は小さくなり、語尾は掠れて声になっていなかった。そしてそのまま、もう話すことはないというふうに、それきり訪問者の存在を拒絶しようとする気配を漂わせた。
 周囲の闇がさらに圧力をましたような気がした。ファーデンは(あえ)ぐように言った。
「魔術師が、エテレイン様が、都へ戻って参ります」
 その名にファーデンが思ってもいなかった程、男は反応した。初めてその黒い陰のような固まりがざわりと動き、彼らはそれがやはり人であったことを知った。しかし光の中に晒された男の顔を見た瞬間、彼らは息を飲んだ。そこには長い幽閉生活が刻んだ酷たらしい荒廃があった。暗闇の中のかすかな灯の中で見るその顔は獣じみ、その瞳には狂気の気配すら漂っているようだった。
 ミーネは言っていた。男がこの場所に止まるのは、彼を罰しているのが、彼自身だからなのだと。彼を閉じ込めているのは、彼自身がつくり出した檻なのだ。そうしなければならない理由こそが、世界を変えるのだと。
「エ……テレ……イン」
 男は震える声でその名を呟いた。ランプの黄色い色に染まった瞳が不思議な光をちらつかせた。ファーデンは男が泣いているのに気づいた。
「エテレイン」
 男は再び呟いて、ファーデンに瞳を向けたが、その視線はずっと遠くを見ていた。
 男は(ゆる)しを、(あがな)いの機会を待っていたのだ。
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