26.復讐

文字数 8,963文字


 話し込んでいるうちに時間が行き過ぎ、二人がヴァールの帰りが遅いのを案じ始めた頃には、すでに日が暮れていた。
 様子を見てくるというフューレンを止め、フライハイトは自分が行くと主張した。魔術師を預けていくことに不安はなかった。彼女が信頼するにたる人物だという判断を下していた。ヴァールなら甘いと言うだろうが、その男の姿がないことが、フライハイトにもっと切実な不安を抱かせた。
 フューレンに見送られて宿の外へ出ると、日が暮れてさほど時間がたってはいないせいか、まだ人の姿が多かった。しかし、昼よりも活気が失われた街には、どんよりと湿った重い空気が漂っている。特に目当てがあるわけではなく、友の姿を探し求めて灯りのついた店先を覗いて回りながら、やはり街というものに慣れているフューレンに任せた方が良かったかと思えた。しかし、不安は次第に募ってき、闇雲に街を歩き回っても無駄と思いながら、止めることができなかった。何かせずにはいられない衝動があった。
 一時間もした頃、彼はその気配に気付いた。誰かが後をついてきていた。肌をちくちくつつくような感覚を起こさせるそれは、その人物の執拗な視線だった。胸騒ぎがする。何か良くないことが、自分ではなくヴァールに起きている予感に、フライハイトはおののく。
 気づいていない風を装い、相手が追いにくくなるように動いた。そして、ふいに横道へ逸れ、素早く物陰に隠れて待った。見失うまいと焦っていた尾行者が不用意に横道に入ってき、そこにフライハイトの姿がないことに慌て、追いかけようと走り込んできた所で、飛び出した。
 前方に突然現れたフライハイトに動転した男の腹を、下から上へ蹴り込んだ。一瞬、浮き上がった男の体を再度蹴る。後ろへ吹っ飛んだ男が、地面に転げるや否や、胸ぐらをつかんで引き上げ、壁に向かって思いっきり投げた。男の悲鳴と共に、まともにぶつかった体から湿った鈍い音がした。やりすぎていることを自覚しながら、手加減ができなかった。再び、自分の知らない所で何かが起き、そして手遅れになる予感に、彼は憤っていた。
 崩れる男の体をつかんで、壁に押しつけるようにして立たせ、両腕を背中で締め上げる。男が悲鳴を上げる。その声を聞いても、フライハイトの中の怒りは収まらず、他人に苦痛を与えているということの嫌悪や恐れを退けてしまった。
「何の用だ?」
 誰とは訊かない。訊いても知らないし、意味はない。ただ、何故自分を付け回すのかだけが重要だった。
 その声に容赦のない厳しさを聞き取った男は、あっさりと抗う意思を失った。
「ミーネが……」
「ミーネ? あの糞野郎が何だ?」
 その名を聞いた途端、フライハイトは自分の中の怒りが勢いを増すのを感じた。思わず力が入り、男の腕を締め上げた。男が子どものような弱々しい悲鳴を上げる。
「あ、あんたを見張れと……。それだけだ。た、頼む、助けてくれっ」
 男の顔は苦痛の涙で濡れていた。お前たちは、他人の頼みなど聞きいれず、命乞いをする間も与えず命を奪うのに、とフライハイトは思った。それでも怒りにまかせ、衝動に従うことを、自分に許すことはしなかった。
 力をゆるめ、無造作に男の腕を解放してやると、男はよろめきながらフライハイトから逃れ、脅えと怒りの混じった顔で彼を睨んだ。が、後ずさるように見せかけて、男の腕がズボンの後ろに動いた瞬間、フライハイトは蹴りつけた。壁に押しつけた時、ズボンの尻のあたりに固くて細長いものがあるのに気づいていた。
 フライハイトの動きの速さは、男に何が起きたのか理解させる間もなく、その体を藁で出来た人形のように跳ね飛ばした。石畳に転げた男は、今度は本当に痛みと恐れのためにみっともなく泣き崩れてしまった。
 そのいかにも卑小な様子にうんざりし、弱い者いじめをしたような不快感を覚えながら、不思議で仕方がなかった。この脆弱な男が、国を引っ繰り返そうなどという大それた集団の一員なのかと。目的のために、たやすく人の命を奪うことができる人間たちの一人なのかと。
「ミーネがこの街に来ているのか?」
 フライハイトの問いに、男は必死の形相で首を縦に振った。男は、フライハイトにおびえ、彼が何を望んでも受け入れそうだった。苦いものがフライハイトの口に広がる。恐怖で人を操ることの、何と不快なことか。が、今はそれを飲み込まなければならない。
「ミーネの所へ案内してもらおうか?」
 そこにヴァールもいるに違いないのだと、フライハイトは確信していた。
 男は立っていることも困難なようだったが、半ば引きずるようにして歩かた。口は動かせるので説明させながら、彼らの指導者の元へと案内させた。夜の(とばり)の降りた街の人波は未だに消えてはいなかったが、いかにも不自然な二人組に注意を払う人はいなかった。誰もが自分のことで手一杯か、他人に興味などなかった。
 やがてフライハイトは、いかなる法則で増改築を重ねたものか、恐ろしく複雑な形状をした建物の前までやってきた。どういう構造になっているのか、窓の位置が様々で、同じ階層でも高さが違うことが伺える。地面に接しない壁面に扉が取り付けられている箇所もある。元はどこかに繋がっていたのだろう。まるで何本かの樹木が空中で重なり、混ざって一本の木になっているように、周囲の建物を吸収しながら横へ上へと広がっていた。
 そのような外観もあって、建物に入った時、フライハイトは何か巨大な怪物の中に入っていくような感覚を覚えた。彼らのアジトに何の準備もなく、単独で無造作に入っていくことに危険を感じない訳ではなかったが、構わなかった。どちらにしろ、失うものはもうそれほどもなく、あるとすればヴァールであることは確かだ。そしてその男がここにいるのなら、フライハイトは何も躊躇うことはなかった。
 中は外で見たよりもさらに複雑で、一人迷い込めばどこにも行き着けず、出ることもできなくなりそうだった。男に案内させながら、命を持っていない怪物の中を、奥へと進んでいく。これだけの規模を持っているなら、中にどれほどの人がいるかと思っていたが、人の姿はまるでなかった。さながら巨大な墓場のように、生きているものの気配は時折暗闇を走る小動物の足音と、コウモリと思われる羽音の他は何もない。けれど、フライハイトはこの建物の中のどこか、周囲のあちらこちらに、人の気配があることを感じていた。それは、ここが墓場のようであるのに対し、半ば死んだように動かない人々のひどく物静かで、棺桶の中の亡骸さながらに孤独な気配だった。
 ふいに重苦しい静寂を壊すような、どこか感情的な騒々しい足音が響いた。フライハイトは反射的に男を引きずって横道に入り、その口を手で塞いた。足音は近づいてきたかと思うと、横道の暗がりに潜んでいたフライハイトの視界をさっと横切った。暗闇の中でもそれがヴァールだとわかった。フライハイトは声を掛けようとしたが一瞬躊躇し、その間に機会を逸した。
 足音はあっと言う間に遠ざかっていった。少なくとも、それはこの薄気味悪い建物の外へ向かっていた。それだけで、今は良かった。ただ、ヴァールがミーネと会っていたことが気になった。自分から行ったのか、それともここへ連れてこられたのか。この街へ来てからの、ヴァールの張りつめた顔つきを思い、おそらく自分からだろうと、フライハイトは思った。彼らが何を話したのか、何故、ヴァールは無事、ここから帰ることができるのか、わからなかった。疑念が、胸に兆すのを、フライハイトは無理矢理振り払ったが、完全に消すことはできなかった。
 取り敢えず、ミーネの元を訪れる性急な理由を失ったが、このまま帰る気はなかった。会って、何をしようというのか、何を言うつもりなのか、フライハイト自身も決めてはいなかったが、会えば、消えない疑念の正体ぐらいはわかると思った。
 幾つかの階段を登り降りし、細い廊下やばかばかしい程広い廊下の角々を何度も曲がり、目的の場所に近づいているのか遠ざかっているのかさえわからず、もしや、このおびえた案内人に騙されているのではないかと思い始めた頃、男がようやく一つの扉を指し示した。
 フライハイトは力つきかけている男を引きずりながら、ミーネのいる部屋へと入っていった。その部屋は、それまで歩いてきた建物の内部とは違って、ランプの光で満たされていた。その光の真ん中にミーネはいた。
 突然現れたフライハイトを見ても、ミーネは驚く素振りさえ見せなかった。部屋には他に三人の男たちがいて、彼を見るなり身構えた。フライハイトは、男たちが既に剣を抜いていたことを見て取り、すでに自分が訪れることを彼らは知っていたのだと気づいた。
 男たちの殺気はフライハイトを十分警戒させたが、ミーネは優雅な仕種で男たちの威嚇を制した。男たちは主人に対するかのように恭しく命を受け、わずかに体を引いたが、フライハイトから一瞬も離れない鋭い瞳は、どのような事態にもすぐさま対処できるよう緊張していた。彼らは、訓練された獰猛な兵隊であることが、その殺気から感じられた。
 ミーネはその場の緊張を意に介さぬ悠揚な態度でソファに座っていた。
「君は意外と暴力的な男なんだな」
 フライハイトが投げるように解放した男が床に転がり、そのまま気を失うのを見て、ミーネは言った。が、仲間をちらりと見たその笑顔は、人を寒くさせる気配があり、床に転がっている男が、このあとどうなるのかを想像してしまう。つい、心配してしまったフライハイトは、自分の甘さに苦くなる。
 ミーネが残忍な意図を持って、しかしそれを隠し、自分の家族が慎ましく平和に暮らしてきたリビングに、土足で上がり込んだ時のことが、その時の感情と共に激しい痛みを伴って生々しく蘇った。その時も、この男の顔には薄い皮膚を透かして背筋を寒くさせるものがにじみでいたのだ。それが、どれほど冷酷なものだったのか、何故あの時わからなかったのか。
 目の奥が焼けるように熱くなる。炎がそこから吹き出して、視界を赤く染めた。その赤い炎の中にフェルトの笑顔が浮かび、その最後の顔が現れ、まだ幼かった息子の安らかな、けれど命の絶えた寝顔が行き過ぎた。妻と子の笑い声が、自分の耳に痛みを感じさせる程激しい脈の音と混じり合う。
 瞬きをすると炎はかき消えた。そこに、ミーネの酷薄な顔があるだけだった。熱に代わって、冷たい尖ったものがフライハイトの体の中心に流れ込んできた。そこから冷気が全身に広がる。何を言うべきか考える間もなく、フライハイトは言った。
「お前のしたことを、絶対に許さない」
 歯を食いしばるようにしてそう言い放った瞬間、フライハイトはミーネを殺したいという激しい衝動を覚えた。
 ミーネは作り笑いを消して、フライハイトをじっと見上げた。その声に強い怒りを聞き取って、その怒りの深さにほんの少し単純な恐れを感じたが、その怒りの強さが圧倒的であればあるほど、強い共感も覚えていた。フライハイトの怒りの原因が、自分の行ったことであるのは、些細なことだった。むしろ、自分が行ったのではなく、全て同じ延長線上にあるのであって、その意味で、自分とフライハイトは同族と言えた。
「私も同じ気持ちだよ」
 ミーネは言った。
「何?」
 フライハイトは意味を図りかねて問い返した。
「私も、家族の全てを失った。家族だけでなく、ありとあらゆるものを失った。そうなった運命を、絶対に許す気はないのだ」
 ミーネはソファに預けていた背を離し、少しだけ体を前に起こした。背筋をきちんと伸ばすと、表情のない顔と相まって男の全体が酷く硬質な印象を持つ。まるで石か何かのように。それは何ものも寄せつけず、受け入れないもののように見えた。
 ミーネの一族もまた、三十年前の事変によって崩壊したというヴァールの話を思い出す。彼も喪失からくる怒りを抱えているのかもしれなかったが、例えそうであったとしても、その石のような体からその気配は微塵も感じられなかった。
「許さない。そうとも、私は許さない。復讐のためには、何も恐れはしないのだよ」
 ミーネはひんやりとした笑みの形に顔を歪めて言った。 「そのために、俺の家族を、村の人々を、殺したというのか」
 憤ってそう言ってから、フライハイトはミーネの言葉の罠にはまったことに気づいたが、遅かった。
「そうとも。復讐のために、私は君の家族を殺した。君もそうするといい。君がそうしたいという気持ちは、よくわかる」
 ミーネは笑って言った。彼も、フライハイト自身も、それができないことを知っていた。フライハイトは復讐のために他人を殺害したミーネを非難し、憎悪したのだ。もしも己の復讐のためにミーネを殺せば、ミーネのやり方を肯定したことになる。それをミーネはフライハイトに気づかせたのだった。
 室内に沈黙が落ちた。しかし耳には聴こえないフライハイトの怒りが、空気を震わせていた。殺してしまえと、誰かがフライハイトに囁いた。愛しい妻と子を殺したのだ。何の罪もない村の人々を、蟻を踏みにじるように殺したのだ。ミーネの行為の代償は、その命だけでも少なすぎる程だ、そう囁く声がした。
 殺せ、殺せとその声は激しくフライハイトを責める。その恐ろしい声は自分の物だった。自分はこの男を殺したいのだ。八つ裂きにしたいのだ。
 怒りと憎悪がフライハイトの体の中で荒れ狂った。たとえ、ミーネを殺して、自分自身がミーネと同じ立場になろうとも、構うことはない。
 けれど、できなかった。
 ミーネとは違う。罪のない者を殺すのではない、罪を犯したものに、その罪を贖わせるのだから。そう思う。しかし、そうして自分が犯した罪はどうなるのか。償うことによって、なくなるというのか。
 虚しさが、フライハイトの中から激しい感情を消していった。殺せ、殺せと叫ぶ声は、まだ聞こえていた。しかし、それは遠く、愚か者、愚か者となじる声の向こう側にあった。
 ミーネはフライハイトから押し寄せていたものが力を失ったのを感じ取った。彼にしてみれば有り難いことではあったが、理解できないことだった。自分を生かしているとも言える怒りと憎しみの感情を、ミーネは手放す気はない。それ故、フライハイトの感情は、中途半端な紛いものでしかなく、恐れを抱く必要はないのだと断じた。
「ところで、今し方までヴァールがいた。途中で会わなかったかな?」
 ミーネは急に打ち解けたような口調で言った。フライハイトは虚脱したようにミーネを見つめ、無言のままでいると、男は笑ってみせた。その笑顔は変わらず、その感情から現れたものではないように見えた。ヴァールも表情に乏しかったが、ヴァールの場合は、感情をうまく顔に作れないのだとわかっている。しかし、石のような印象のこの男には、感情そのものがないような気がした。あるのは、何かに凝り固まった信念だけなのだ。
「彼が何をしにここへ来たのか、訊かないのかね?」
 ミーネは嬉しげでさえある口調で言った。フライハイトはミーネの酷薄な笑みを見ながら、疲労を感じていた。このような表情をする人間を、理解することができなかった。この口から出る言葉なら、自分を或いはヴァールを傷つけるものに違いなかった。
「どうやらヴァールは文句を言いに来たらしい。我々が君の村にしたことで。ならば、彼はそのことで怒っているんだろうか? どう思う?」
 問われて、実際のところ、フライハイトにはわからなかった。ヴァールがブロカーデに起こなわれた暴虐そのものを肯定するはずはないと信じていたが、村の人々が彼に向けた蔑みと憎しみの全てを合わせたよりも、村を憎悪していた。
「彼はブロカーデを憎んでいた」
 フライハイトが思っていたことを、ミーネは言った。笑みとは違い、その内面をそのまま映し出す暗い瞳で、身じろぎもしないフライハイトを見つめる。
「村が滅びることを、彼は望んでいただろうと思うがな。実際、彼を蔑み、除け者にしてきた人間がどうなろうと、彼は何とも思わないだろう」
 ミーネはそう信じ、それを疑ってはいなかった。ブロカーデはヴァールにとって、憎悪と嫌悪の対象でしかない。彼の中にある憎悪こそまがい物ではなく、自分と同じく本物であり、正当なものなのだ。
 が、先刻ここを訪れて、自分と対峙したヴァールのブルーブラックの瞳に、温度の低い炎のようなものを見た時、ミーネは彼に対する評価が揺らぐのを感じた。彼の怒りが何であるか、ミーネは気づいていた。以前ならわからなかっただろう。しかし、フライハイトの存在を知った今ならわかる。ヴァールの怒り、それはただ単に彼が時折、自分の思惑にはない事態が起きた時に見せる苛立ちといった一過性のものではなく、ましてやブロカーデの人間を虐殺したことに対する道徳的な怒りでもない。ヴァールの怒りは、そのためにフライハイトが傷ついたこと、男の生活と人生が狂ってしまったことに対するものだった。
 らしくない。あり得ない。しかし現実だ、とミーネは残念に思った。ヴァールがその心の根底に、幼稚で愚かしい人間性をいかにもそれが大切なものであるかのように、今までそれを垣間見せることさえなく、隠し持っていたことに、ミーネは失望を感じていた。しかし、ヴァールの心の底にあるものを、フライハイトは気付いていないのだ。可哀想に、ヴァール。
 ミーネの瞳に笑みが浮かぶ。それは初めて男の心が反映した笑みだったが、ひどく歪んで、邪悪でさえあった。フライハイトは男の心根がわからぬまま、薄気味悪いものを見てしまった時のように、反射的に表情を強張らせた。
 その顔を注視していたミーネは、田舎臭い男と感じていたフライハイトの顔が、意外にも整っていることを発見した。それはどこか貴族的でさえあり、もしかしたら彼の祖は、高い地位の人間だったのかもしれないとミーネは思った。
「お前にはわかっていないのだ、あいつのことが」
 挑発だと十分、わかっていたが、聞き流すことが出来なかった。そもそもこの男とヴァールがどういう関係にあったのか、いまだ理解できない。そのことの苛立ちと不安が、男の言葉を無視できなかった。
「お前には、わかるというのか?」
 ミーネが陰湿な笑みを浮かべる。酷く不快な笑みだった。
「君は知っているかな? 彼は化粧をするのだ」
 フライハイトを取り囲んでいた男たちが密かな笑いを漏らした。
「彼には女装願望があるのだよ。いや、女性化願望といったほうがいいかな」
 フライハイトはミーネが何を言おうとしているのか、理解できなかった。が、目にある冷たいものが侮蔑であることに気づき、それが意味するものが全てなのだと思った。
「彼は、その顔を私には見せてくれたよ。女にしては背が高すぎるし、肉が少なすぎる。顔はまあ整ってはいるが、女とは言えないまでも、それなりに美しいと言っておこうか、彼の名誉の為に」
 ミーネの笑い声に彼の部下の笑い声が重なる。この男とヴァールとの間に何があったのか、その言葉の意味が理解できないのと同じく、想像もできなかったが、しかしただ一つ、この男はヴァールを傷つけたに違いないとフライハイトは思った。この冷たい蔑みをはらんだ瞳で、彼の心を切り刻んだに違いない。
「君は、何もわかっていないのだ。彼がどんな人間なのか、何者であるのか」
「それがどうした?」
 フライハイトの静かな、しかし深い怒りのこもった声に男たちの耳障りな笑いが止んだ。
「それが、何だというんだ?」
 再びフライハイトは言った。ヴァールの事をわかっていないというのなら、そうなのだろう。事実、彼にはヴァールを完全に理解していないことを自覚している。が、自分が見て聞いて触れている彼が、フライハイトにとっては全てなのだ。それで構わない。ミーネとて同じなのだ。誰も一人の人間を完全に理解できるはずもないのに、全てをわかったような態度で人と接するこの歪んだ男の、狂った頭を通して理解されたヴァールなど、何の意味もない。
 ミーネはわがままな子どもがするように、少し唇を窄めて尖らせてみせた。そうしながらも、目はひんやりと笑っている。石のような顔を笑みの形にして。
 この男は人ではなく、生きている石なのだとフライハイトは思った。その石を一瞥し、踵を返した。この男の視線は絶えがたかった。石のような男は、他人をも自分と同じ石と見なすのだ。男の言葉は意味のないものだったし、こちらの話す言葉が男に通じるとは思えなかった。話したいことも、もう何もなかった。
「新しい時代がやってくる。君はその証人になれる。光栄に思いたまえ」
 フライハイトの背にミーネは言った。フライハイトは眉を潜め、肩越しに男を振り返った。石に穿たれた穴のようなその瞳は、人を不安にさせる光が宿っていた。狂っているのだと、フライハイトは思った。ミーネは何かに取り憑かれているのだ。
「君の田舎拳法は、少しは役に立つようだ。魔物をちゃんと守ってくれたまえよ」
 その言葉から、彼らは魔術師を自分たちから奪い返すつもりはないのだとフライハイトは気づいた。
「彼をどうするつもりだ?」
「送っていけ」
 ミーネは勿体振ってふふっと笑ったが、答えず、部下に命じた。フライハイトは寒気を感じながら部屋を出て、建物の中に巣くう暗闇に戻った時に、安堵を感じた程だった。ミーネの周囲には狂気が渦を巻いているのだ。
 不本意ではあったが、フライハイトは自分がどうやら方向音痴であることを、村を出てから自覚したので、ミーネの部下の案内で外へ出るしかなかった。どうにか奇怪な建物から抜け出した時には、自分がいかに緊張していたかがわかった。ミーネの部下が無言のまま、薄気味の悪い建物の中の狂気の巣窟へと戻っていったのを見届けて、フライハイトは帰途についた。
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