35.継承の間
文字数 3,597文字
宮殿の一番奥深い場所にある継承の間は戴冠の儀にのみ使われる特別な広間だった。
重要な儀式の行われるその空間は、王の権力を示すための絢爛さよりも、儀式の神聖さを強調するように荘厳さを意図した造型となっていたが、今この国を取り仕切っている者の好みが反映されて、美麗さが付け加えられていた。それらの目新しい意匠はこの歴史ある部屋の神聖な気配には馴染まず、まがい物のような安っぽさを持って浮き上がり、儀式の雰囲気を壊すものとなっていた。もしかしたらそれが女魔術師の意図であったかもしれない。
それでも頭上のはるか高い位置にある丸天井のガラス越しに降り注ぐ光が、継承の間を厳かな気配で満たしていた。
しかし、そこに集まった人々はみな一様に陰鬱な顔をしていた。緊張しているせいばかりではなく、体の芯から力が抜け落ちた精気のない疲れた様子だった。
祭壇の前に魔術師ハイマが立っていた。身につけた黒いドレスが髪の紅色を際立たせ、まるで紅蓮の炎のように揺らめき、時折火の粉を散らしているように見える。黄金の瞳には強い輝きが宿り、透き通った白い肌はかすかに上気して色づいている。蠱惑的な唇は濡れたように艶やかで笑みの形を作っている。禍々しく美しい。彼女の属性が魔であろうと神であろうと、その美貌は人の心を捉えて揺さぶる。人々の草臥 れようとは反対にハイマは生のエネルギーに満ちて輝き、いつにも増して鋭く冴えた美しさを放っていた。
その脇に数人の魔術師と司祭たちが粛然とした面持ちで立ち並んでいた。ハイマの真向かいにこの国でただ一人とされる世継ぎの王子が畏まって立ち、その背後に左右にわかれて王族に連なる者たちが控えている。そのさらに後ろに政治の中枢を担う大臣と貴族たちが控える。そして広間の壁伝いにぐるりと兵士が取り囲んでいた。彼らは祭祀に際してきらびやかな衣装をまとっていた。
継承の間に将軍エルンストの姿はなかった。本来、彼の一族の長たる者は代々、戴冠の儀において王家の武の象徴である宝剣を守護する重要な役割を担っている。しかしエルンストは娘の不祥事に対して責任を問われ、その威信の失墜と共に、儀式に参列する栄誉を失った。これはエルンストにとって辱めであった。
が、娘のしでかした事は確かに一族にとって不名誉なことであり、反逆罪を問われかねない重罪だった。そうであっても歴史と伝統を重んじる王宮にあって、彼の一族が戴冠の儀に関わらないことに懸念を示す空気もあった。しかし、王は許さず、それはすなわちハイマの個人的な感情が大いに影響していることを誰もが知っていた。
むろん、娘の罪の重さを承知していたエルンストに異議はなかった。彼には代々王に仕える一族としての誇りと責任があったが、儀式に参加できないこと以前に、既に娘のしでかしたことにより、否、自分が娘に昔を語ったことにより、一族の命運は決まっていたのだ。エルンストは自分の代で一族の誇りを汚すことになった責任を強く感じていながら、安堵を覚えてもいた。
この三十年の間、あまたの名家旧家が無為な権力争いのうちに消えていき、エルンストの知る限り衷心 から王に仕えてきた家が消されていった。今、王の周囲にいるのは、王にへつらい、おもねって来た者と、ハイマにとって都合のよい者だけとなった。その中に、自分の一族が混じっていることこそ、恥であると将軍は感じていた。
そして彼は一介の兵士として、継承の間に通じる白の扉はおろか、そこへ至る回廊、さらには回廊の入り口にあたる黒の扉からさえ離れた場所で警護に当たるという屈辱的な命令にも諾々として臨んでいた。
神聖な扉は彼のいる場所からは見えなかった。それは、さらにその奥の長い回廊の向こうの部屋で生まれる新しい王が、再び彼と彼の一族を必要とはしないことの象徴だった。それでも彼は老い始めた瞳を、新たな王が生まれる場所へと続く方向へと静かに向けていた。
鐘が鳴り、都中に響きわたる。戴冠の儀式が始まる合図だった。音が空気を染めるように鳴り響いていく。その音に、己の心の底から生まれる感情ではなく、弄ばれているような感覚で祭り気分に浮かれていた人々も一瞬、動きを止めて王宮の方へ瞳を向けた。その誰の瞳にも喜びや興奮はなく、うっすらとした不安だけがあった。
継承の間では、その場にいるほとんど全てといっていい人々の瞳が祭壇に向けられていた。その瞳には強い不安と不審があった。何故なら、その視線の先に王の姿が見えないからだ。王は祭壇の奥の御簾の向こうに隠れていた。人々は玉座に座るおぼろな人影を見るばかりだ。王はすでにこの世の者ではないという噂の真偽を目の当たりにしているのではないかという疑心に、人々は捕らわれていた。しかし、誰一人としてそのことを問いかける者はいなかった。この場を支配している者に、誰も逆らうことはできなかった。その者、ハイマこそこの国の支配者だったからだ。
「儀式を執り行う。アングストよ、前へ」
人々の不安の気配を押し退けるように、ハイマの稟とした声が広間に響きわたった。魔術師の声は人々の心に何か鋭く尖った物を突き立てるような鋭さがあった。
アングストが歩を進める。その歩みは緊張のためか、ひどくぎこちなく、まるで傀儡のようだった。頭を垂れ、俯いたまま雲の上でも歩いているかのように、体を揺らしながらよろよろと進む王子の引きつったその顔には脅えが浮かんでいた。その姿は世継ぎの王子というよりも死刑台に向かう老人のように見えた。
「アングストよ」
幾分、柔らかくなったハイマの声が王子の名を呼ぶ。その顔には穏やかな微笑があったが、眼光は刃を帯び、人を切り裂いてしまえそうな程に鋭い。王子はその気配にすくみ上がり、汗の滴る顔を俯けたまま決して前を向こうとしなかった。
「アングストよ。汝は正当な継承者なり。我が生命の声に従いて、汝を王と成す」
歌うようにハイマが言う。王子はがたがたと震えながらその場に崩れるようにひざまずき、頭を垂れた。その言葉を受け止めてというより、重みに耐えかねてというように、深くうなだれた。
ハイマが音もなく王子の元へ進むと、手にもった王冠をその頭に乗せた。王子の頭はさらなる重荷により、ますます垂れた。
さらにハイマが祭壇の前に飾られた守護者のいない宝剣に手を伸ばすのを見て、人々は息を飲んだ。しかしハイマは構わず、手にした宝剣を両手で頭上に翳した。王冠と宝剣は王の象徴であった。本来、王冠をかぶせるのは魔術師の役目であり、宝剣を下賜するのは王の役目と決まっている。その剣をハイマが持ち、今しも自らそれを王子に託そうとしていることに彼らは動揺した。それは王がすでに崩御している場合の儀式だった。
ハイマは人々の間に広がる困惑と恐れを意に介さず、捧げ持った宝剣を胸元に引き寄せた。そして婉然と微笑むと、それを王子の前に差し出した。王子のぶるぶる震える両手がおずおずと差し出された。ハイマは勿体ぶった仕種で、宝剣をその手の上に置いた。王子はまるで焼けた鉄の棒でも乗せられたかのように全身を震わせた。
座は落ち着きをなくしていた。が、ハイマは気にもせず、王子が捧げ持った宝剣を指でさした。宝剣の刀身が紅色を帯びたかと思うと炎に包まれた。王子の喉の奥から発せられた細い悲鳴は人々のどよめきに消された。炎は尾をひきながら上に伸び小さな竜巻となった。
「おお」
と、落ち着きをなくしていた人々の間から驚きの声が上がった。
ハイマは余裕の笑みを浮かべていたが内心では失望を感じていた。儀式の際に魔術師は秘術をもって不思議を成さねばならない。前王の戴冠の儀の際には吹き抜けから天窓まで届く、炎の柱を吹き上げさせたものを、今では小さな紙縒りのような炎の束しか作れないとは。
しかしその違いに気づける者はこの場にはいない。この三十年の間に、デュランの戴冠の儀に参列した人間は全て排除してしまったのだ。今いるのは腑抜けばかり。それが証拠にこれっぽっちのことでも、人々は驚きおののいて目を見張っている。
ハイマはささやかな秘術を使用したために起きた倦怠感を、人々の畏怖の眼差しとどこか倒錯した興奮の気配から与えられる優越感で打ち消した。自分が唯一の「王の魔術師」であることを彼女は改めて確認しながら、強い恍惚感を覚えた。
「汝は王なり」
ハイマが厳かに宣言した。
人々の興奮が座を熱くし掛けたとき、儀式の間、開かれるはずのない白の扉が勢いよく開かれる音が広間に谺した。
「その者は、正当な継承者にあらず」
続いて朗々とした声が広間に響いた。座は一瞬にして凍りつき、しんと静まり返った。扉の開く音と声の余韻がその静寂を漂った。
重要な儀式の行われるその空間は、王の権力を示すための絢爛さよりも、儀式の神聖さを強調するように荘厳さを意図した造型となっていたが、今この国を取り仕切っている者の好みが反映されて、美麗さが付け加えられていた。それらの目新しい意匠はこの歴史ある部屋の神聖な気配には馴染まず、まがい物のような安っぽさを持って浮き上がり、儀式の雰囲気を壊すものとなっていた。もしかしたらそれが女魔術師の意図であったかもしれない。
それでも頭上のはるか高い位置にある丸天井のガラス越しに降り注ぐ光が、継承の間を厳かな気配で満たしていた。
しかし、そこに集まった人々はみな一様に陰鬱な顔をしていた。緊張しているせいばかりではなく、体の芯から力が抜け落ちた精気のない疲れた様子だった。
祭壇の前に魔術師ハイマが立っていた。身につけた黒いドレスが髪の紅色を際立たせ、まるで紅蓮の炎のように揺らめき、時折火の粉を散らしているように見える。黄金の瞳には強い輝きが宿り、透き通った白い肌はかすかに上気して色づいている。蠱惑的な唇は濡れたように艶やかで笑みの形を作っている。禍々しく美しい。彼女の属性が魔であろうと神であろうと、その美貌は人の心を捉えて揺さぶる。人々の
その脇に数人の魔術師と司祭たちが粛然とした面持ちで立ち並んでいた。ハイマの真向かいにこの国でただ一人とされる世継ぎの王子が畏まって立ち、その背後に左右にわかれて王族に連なる者たちが控えている。そのさらに後ろに政治の中枢を担う大臣と貴族たちが控える。そして広間の壁伝いにぐるりと兵士が取り囲んでいた。彼らは祭祀に際してきらびやかな衣装をまとっていた。
継承の間に将軍エルンストの姿はなかった。本来、彼の一族の長たる者は代々、戴冠の儀において王家の武の象徴である宝剣を守護する重要な役割を担っている。しかしエルンストは娘の不祥事に対して責任を問われ、その威信の失墜と共に、儀式に参列する栄誉を失った。これはエルンストにとって辱めであった。
が、娘のしでかした事は確かに一族にとって不名誉なことであり、反逆罪を問われかねない重罪だった。そうであっても歴史と伝統を重んじる王宮にあって、彼の一族が戴冠の儀に関わらないことに懸念を示す空気もあった。しかし、王は許さず、それはすなわちハイマの個人的な感情が大いに影響していることを誰もが知っていた。
むろん、娘の罪の重さを承知していたエルンストに異議はなかった。彼には代々王に仕える一族としての誇りと責任があったが、儀式に参加できないこと以前に、既に娘のしでかしたことにより、否、自分が娘に昔を語ったことにより、一族の命運は決まっていたのだ。エルンストは自分の代で一族の誇りを汚すことになった責任を強く感じていながら、安堵を覚えてもいた。
この三十年の間、あまたの名家旧家が無為な権力争いのうちに消えていき、エルンストの知る限り
そして彼は一介の兵士として、継承の間に通じる白の扉はおろか、そこへ至る回廊、さらには回廊の入り口にあたる黒の扉からさえ離れた場所で警護に当たるという屈辱的な命令にも諾々として臨んでいた。
神聖な扉は彼のいる場所からは見えなかった。それは、さらにその奥の長い回廊の向こうの部屋で生まれる新しい王が、再び彼と彼の一族を必要とはしないことの象徴だった。それでも彼は老い始めた瞳を、新たな王が生まれる場所へと続く方向へと静かに向けていた。
鐘が鳴り、都中に響きわたる。戴冠の儀式が始まる合図だった。音が空気を染めるように鳴り響いていく。その音に、己の心の底から生まれる感情ではなく、弄ばれているような感覚で祭り気分に浮かれていた人々も一瞬、動きを止めて王宮の方へ瞳を向けた。その誰の瞳にも喜びや興奮はなく、うっすらとした不安だけがあった。
継承の間では、その場にいるほとんど全てといっていい人々の瞳が祭壇に向けられていた。その瞳には強い不安と不審があった。何故なら、その視線の先に王の姿が見えないからだ。王は祭壇の奥の御簾の向こうに隠れていた。人々は玉座に座るおぼろな人影を見るばかりだ。王はすでにこの世の者ではないという噂の真偽を目の当たりにしているのではないかという疑心に、人々は捕らわれていた。しかし、誰一人としてそのことを問いかける者はいなかった。この場を支配している者に、誰も逆らうことはできなかった。その者、ハイマこそこの国の支配者だったからだ。
「儀式を執り行う。アングストよ、前へ」
人々の不安の気配を押し退けるように、ハイマの稟とした声が広間に響きわたった。魔術師の声は人々の心に何か鋭く尖った物を突き立てるような鋭さがあった。
アングストが歩を進める。その歩みは緊張のためか、ひどくぎこちなく、まるで傀儡のようだった。頭を垂れ、俯いたまま雲の上でも歩いているかのように、体を揺らしながらよろよろと進む王子の引きつったその顔には脅えが浮かんでいた。その姿は世継ぎの王子というよりも死刑台に向かう老人のように見えた。
「アングストよ」
幾分、柔らかくなったハイマの声が王子の名を呼ぶ。その顔には穏やかな微笑があったが、眼光は刃を帯び、人を切り裂いてしまえそうな程に鋭い。王子はその気配にすくみ上がり、汗の滴る顔を俯けたまま決して前を向こうとしなかった。
「アングストよ。汝は正当な継承者なり。我が生命の声に従いて、汝を王と成す」
歌うようにハイマが言う。王子はがたがたと震えながらその場に崩れるようにひざまずき、頭を垂れた。その言葉を受け止めてというより、重みに耐えかねてというように、深くうなだれた。
ハイマが音もなく王子の元へ進むと、手にもった王冠をその頭に乗せた。王子の頭はさらなる重荷により、ますます垂れた。
さらにハイマが祭壇の前に飾られた守護者のいない宝剣に手を伸ばすのを見て、人々は息を飲んだ。しかしハイマは構わず、手にした宝剣を両手で頭上に翳した。王冠と宝剣は王の象徴であった。本来、王冠をかぶせるのは魔術師の役目であり、宝剣を下賜するのは王の役目と決まっている。その剣をハイマが持ち、今しも自らそれを王子に託そうとしていることに彼らは動揺した。それは王がすでに崩御している場合の儀式だった。
ハイマは人々の間に広がる困惑と恐れを意に介さず、捧げ持った宝剣を胸元に引き寄せた。そして婉然と微笑むと、それを王子の前に差し出した。王子のぶるぶる震える両手がおずおずと差し出された。ハイマは勿体ぶった仕種で、宝剣をその手の上に置いた。王子はまるで焼けた鉄の棒でも乗せられたかのように全身を震わせた。
座は落ち着きをなくしていた。が、ハイマは気にもせず、王子が捧げ持った宝剣を指でさした。宝剣の刀身が紅色を帯びたかと思うと炎に包まれた。王子の喉の奥から発せられた細い悲鳴は人々のどよめきに消された。炎は尾をひきながら上に伸び小さな竜巻となった。
「おお」
と、落ち着きをなくしていた人々の間から驚きの声が上がった。
ハイマは余裕の笑みを浮かべていたが内心では失望を感じていた。儀式の際に魔術師は秘術をもって不思議を成さねばならない。前王の戴冠の儀の際には吹き抜けから天窓まで届く、炎の柱を吹き上げさせたものを、今では小さな紙縒りのような炎の束しか作れないとは。
しかしその違いに気づける者はこの場にはいない。この三十年の間に、デュランの戴冠の儀に参列した人間は全て排除してしまったのだ。今いるのは腑抜けばかり。それが証拠にこれっぽっちのことでも、人々は驚きおののいて目を見張っている。
ハイマはささやかな秘術を使用したために起きた倦怠感を、人々の畏怖の眼差しとどこか倒錯した興奮の気配から与えられる優越感で打ち消した。自分が唯一の「王の魔術師」であることを彼女は改めて確認しながら、強い恍惚感を覚えた。
「汝は王なり」
ハイマが厳かに宣言した。
人々の興奮が座を熱くし掛けたとき、儀式の間、開かれるはずのない白の扉が勢いよく開かれる音が広間に谺した。
「その者は、正当な継承者にあらず」
続いて朗々とした声が広間に響いた。座は一瞬にして凍りつき、しんと静まり返った。扉の開く音と声の余韻がその静寂を漂った。