最終章 魔物の物語

文字数 6,030文字

 エルンストの好意で用意してもらった馬に乗り、フライハイトは都を出発した。
 ヴァールに会えなかったのは残念だったが、自分が彼の力にはなれないことはわかっていた。ただ言葉を掛けることしかできない。それならば、自分の満足だけのために、これから大きな責任を背負う彼の時間を無駄にすることはできないと、諦めることにした。
 しかし、一抹の寂しさはどうしても消えなかった。一目その顔を見、一言でいいから声をかけたかった。もう二度と会えないかもしれないと思うと、衝動的に引き返し、無理にでも顔を見ていこうかと思いもした。しかし、逡巡している間にも馬は都から離れ、彼の気持ちも次第に収まってきた。これでいいのだと、思おうとした。
 いくらか行くうちに、フライハイトは人々の様子の変化を見止めた。それはもしかしたら願望から来るものかもしれないが、それでも確かに以前にはなかった活気が感じられた。皆、それまでとは違う新しい変化に期待しているのだ。その事に、フライハイトはほんの少し慰められた。
 その時、フライハイトは前方に馬上の男を見つけた。その瞬間、それが誰かわかった。気持ちが無闇にはやったが、馬を走らせることはしなかったのは、幻のようにその姿が消えてしまうかもしれないなどと、子どもじみたことを考えたためだった。
「こんなところにいていいのか、王様?」
 男に声が届く程の距離になると、フライハイトは言った。何とか平静を保とうと軽口を言ったつもりだが、声がほんの少し詰まった。ヴァールは面白くなさげに笑っただけで何も言わない。誰もいない場所を選んで見送りに来るなど、ヴァールらしいとフライハイトは苦笑した。
 馬を並べてゆっくりと進む。会えば訊きたいことが色々あったのに、急には思い浮かばず、しばらくは二人とも押し黙ったままだった。時が過ぎ、時間に限りがあることを意識し始めた頃、フライハイトはようやく口を開いた。
「なあ、ヴァール」
「うん?」
「お前はいつから自分の事を知っていたんだ?」
「ブロカーデが奇妙なことに気づいたのは子どもの頃だ。自分のこともトゥーゲントのことも、まだその時は知らなかった。都に来て、自分で調べ始めた、その頃……」
 そこでヴァールは言葉を濁した。
「ミーネか?」
 フライハイトが問うと、ヴァールは前方のどこかを見つめたままうなずいた。
「奴は、俺がブロカーデと三十年前のことを調べているのを知った。それで近づいてきて、親しくなると、俺から色々な事を聞き出した。多分、俺より先に気づいたんだろうな」
 そうであるならミーネは最初からヴァールを利用することを考えていたのか。ミーネがいない今、彼に対するフライハイトの様々な怒りは宙に浮いていた。やり場を失った怒りを持てあましながら、フライハイトはミーネの最期を思い出す。その命を賭して、ヴァールを守ろうとしたのは、己の自己満足のためだけだったのだろうか。そこに、少しはヴァールへの何らかの想いがあっただろうか。
 そしてヴァールは、自分の望みを叶えることができたのだろうか。
 二人は黙ってしばらく馬を歩かせた。ヴァールはフライハイトがこれからどこへ行き、何をするつもりなのか訊かなかったが、知ってはいるようだった。
「こんな所まで来て大丈夫なのか?」
「まあな」
「まだ色々大変なんじゃないのか?」
「まあな」
「これからも大変だろう?」
「まあな」
 相変わらず素っ気ない口ぶりのヴァールの、王になっても代わりばえのしないその様子にフライハイトは安心しつつも心配になったが、エテレインがいるのだから大丈夫だろうと思い直した。
「この辺でいい」
 長引けば別れが辛くなる気がして、フライハイトはヴァールに行った。しかしヴァールは馬を止めない。
「ヴァール」
 (いさ)めるようにフライハイトが名を呼ぶ。
「お前さあ、どうやって村まで帰るつもりなんだ?」
 唐突にヴァールが訊いた。
「え? どうやってって……、そりゃあ……」
 馬で、と戸惑いながら答え、ヴァールから冷たい目で見つめられる。
「ブロカーデは隠された村だったんだぞ。ごく一部の人間しか知らない。その辺を歩いてる奴らは知らないぜ? どうやって、ここからあそこまで辿り着くつもりなんだ? とんでもない方向音痴のお前が」
 ヴァールがにやにや笑って言う。馬鹿にされたことに少しむっとしたが、言われてみればその通りだった。とりあえずこの辺りまでは一本道の街道だが、途中で何度も分岐する。当然、彼は全くそれを覚えてなどいなかった。ブロカーデに一番近い村の名前を知ってはいたが、何とも頼り無い。
 黙ってしまったフライハイトにヴァールは言った。
「俺が連れていってやるさ。仕方ない」
「えっ? ちょっと待て、何言ってる」
 思わず馬を止めたフライハイトを気にすることもなくヴァールは先を行く。呆気にとられたままフライハイトは慌てて追いかけた。
「待てよ、ヴァール。お前、とりあえず王様だろう?」
「何だよ、とりあえずって言うのは」
「することが山程あるだろうに」
 驚いたまま言うフライハイトにヴァールはようやく瞳を向けた。
「エテレインに任せてきた」
「それは、無責任だ」
 フライハイトは思わず怒って言った。昨日の少し疲れている様子のエテレインの姿を思い出す。しかしヴァールは気にもしていない様子で、口の片端を少しだけ上にねじ上げた。
「ついでに、王位もあいつに渡してきたし」
「えぇっ?」
 フライハイトは目を丸める。ヴァールは彼には珍しい表情の変化を楽しんでいる風だった。
「禅譲ってわけだな」
 言ってヴァールは珍しく声を出して笑った。
「だな、ってお前……」
 フライハイトは呆気に取られたまま、彼が冗談を言っているのではないことを確認して唖然とした。
「彼は、エテレインは何も言わなかったのか?」
「言うも何も、魔術師にとって、王の言葉は絶対だろう? 嫌も何もないさ。もっとも驚いて口もきけなかったのかもな」
 しらっとヴァールが言うのを聞いて、それはそうだろうとフライハイトは呆れる。
 ヴァールは、正気を取り戻したら取り戻したで、少し腹が立つほど冷静で厳しい顔つきの魔術師の顔が唖然とし、らしくなく動転した様子を思い返して、内心で笑った。
「だが、彼はお前を王位につけるために、生きてきたんだぞ」
 魂が壊れるほどの辛苦を耐え抜いてきたその理由を、昨日聞いたばかりだった。それを、あっさり踏みにじるような仕打ちは許されるものではないと、フライハイトは怒りを覚えた。しかしヴァールはしれっとした顔で答えた。
「そのお陰であいつも生き延びられたんだろ」
「そうとも言えるが、いや、しかしだな、あの人は」
「まあ、いいじゃないか」
 まだ何か言わなければならない気がして収まらないフライハイトの言葉をヴァールがさえぎる。それでも怒りで口を開きかけたフライハイトは、彼を見るヴァールの瞳の中に真剣なものを認めて、黙り込んだ。
 まだ混乱したまま、フライハイトは深い溜息をついた。そして問いかけた。
「お前はいいのか?」
 それが目的で都まで行ったのではないのか?
「俺? 俺はいいさ。王など柄じゃない。あんな面倒で鬱陶しい仕事、御免だぜ」
 フライハイトはその答えに再び溜息をついた。ヴァールがそう言うのなら、そうなのだ。王という仕事に、ヴァールが何の魅力も未練を感じていないのは確かだ。
「しかし、これで王の血筋が絶えることになるのか」
 フライハイトはしみじみと言った。懸命にその血を守ろうとしたエテレインのことを考えると、やはりここは怒って、首に縄をつけてでも都に戻すべきだろうかと考える。王という責任の前に、面倒も嫌もあるわけはない。
 ヴァールが低い声で笑った。
「何だ?」
「俺はな、フライハイト。俺には王家の血なんて流れてないんだよ」
「え?」
 フライハイトは再び驚いて彼を見た。
「つまり、その、お前はトゥーゲントの、ファステンの息子じゃないってことか?」
「いや、残念ながら」
 そこでヴァールは言葉を切る。残念だと言うのなら、ヴァールはトゥーゲントの息子に違いない。
「俺は言ったはずだ。第一王子は生きていると」
 確かにヴァールがそう言ったのをフライハイトは覚えている。しかしそれは第一王子の息子である彼自身を指しているのだと思っていた。ヴァールが何を言おうとしているのか、フライハイトには全くわからなかった。
 ヴァールは彼の方を振り返って言った。
「エテレインが第一王子なんだよ」
「えっ? エテレインが? どういうことだ?」
 フライハイトは驚いて思わず怒鳴っていた。ヴァールがうるさそうに顔をしかめる。
「あいつは五歳の時、魔術師として目覚めてしまったんだ。そして魔術師は国王にはなれない。何故なら、魔術師はある意味不浄の生き物、人ならざる者、禁忌の血筋だからだ」
 フライハイトはフューレンの言葉を思い出していた。誇りあるものは魔術師を(さげす)み、ないものは恐れる。どちらにしろ魔術師は人ならぬ特別の存在だった。特別の存在として許されたのが魔術師であって、それはすなわち人として生きることは許されないという意味なのだ。
 人ならざる生き物。魔物。
「魔術師として目覚めれば、普通には生きられない。王家の血筋であろうと、王子の地位を失い、王族としても抹消される。第二妃アーデインはそれを恐れたのさ。だから代わりに同じ歳の似た子どもを連れてきて、すり替えた。それがどこの馬の骨ともわからぬトゥーゲントという訳さ。多分、髪の色が決め手かな。ああいう白銀の髪は滅多にない」
 フライハイトが知っている頃のトゥーゲントの髪は既に真っ白だった。しかし、その息子であるヴァールの鋼色の髪を見れば、トゥーゲントも幼少期には似たような白銀の髪だったのだろう。
「一方、本物のファステンは銀色の髪を黒く染め、エテレインという名に変えられ、魔術師として育てられた。皮肉なことに、その能力ゆえに第一王子偽ファステンに仕えることになった」
 フライハイトは、まるで砕けた花瓶の破片をつなぎ合わせるような出来事の最後の破片があるべき場所に収まるのを感じた。
 昨日、泉のほとりで魔術師が口にした言葉―――
『私が、あの方の運命を狂わせてしまったから』
 エテレインの運命は魔術師として目覚めた時に変わってしまったが、そのために利用されたトゥーゲントの運命もまた変えられてしまったのだ。
 エテレインが、王としての資質に欠けるトゥーゲントをあくまで庇護しようとしたことも、彼が王位を望んで争いを起こした時、従ったのも、全てはトゥーゲントのためだったのだろう。王になるために連れてこられ、それ以外の生き方は許されなかった生け贄だからだ。それ故、エテレインは何がなんでもトゥーゲントに報いようとしたのだ。自分が本当は王子でありながら、母に捨てられながら、その従者として第一王子に仕えようとしたのだ。
「アゴーニアはそのことに気づいていたんだ。だから、彼はハイマの嘘を肯定した。デュランが本当に王の息子かどうか怪しいものだったが、少なくともその可能性はある。しかしファステン、つまりトゥーゲントは絶対に王子ではないとわかっていたのだから。だからといって、魔術師であるエテレインを王として指名することもできなかった」
 フライハイトは一人城に残された魔術師の事を思った。彼は今何を支えにしようとしているだろうか。誰かのための人生を強いられてきた魔術師は。
 ヴァールが王位を捨てたというのは、単純に興味がなかったというのは事実だろう。しかし、その奥底には、自分も巻き込んでいる狂った運命を修正してみようという気持ちがあったのかもしれないと、フライハイトは思った。
「しかし、エテレインは魔術師だ。王位を譲られたとしても、王にはなれないんじゃないのか?」
 フライハイトが訊くと、ヴァールは肩をすくめた。
「魔術師だろうがそうでなかろうが、この国では王家以外の人間が王になることはあり得ない。エテレインが王子であることを知っているのはアゴーニアぐらいだが、あのじじいは何も言わないだろう。だから王位継承者の血族が変わるということは、しきたりそのものが変わるということだ。となれば、魔術師が王になっても問題はなかろう。ただ、周りが納得するかどうかは、エテレイン次第だろうな。それに、奴が王など嫌なら、降りればいいことだ。誰かが代わりをやるさ」
 簡単に言う、とフライハイトは苦笑する。ヴァールがそう言うと、事実簡単なことのような気がする。国と人の営みは止まらずに動いている。誰かが治めなければならないのなら、誰かがそうするだろう。エテレインが与えられた責任を全うしようとするなら、力を貸そうとする人々がいるはずだ。同じ過ちを繰り返さないよう。
 フライハイトはハイマの最後の言葉を思い出した。
『もしも、お前が私たちを裏切らなければ』
 あれは、エテレインが王の血を引きながら、その血故に身を引いたことに対する言葉だったのだと、フライハイトは気づいた。エテレインを第一王子の魔術師と決めたのは、当時から王付きの魔術師だったハイマに違いない。彼女はエテレインに、何を伝え、何を望んだのだろう。もしも、エテレインが王になることを望めば、ハイマはしきたりをはね除けてでも彼を支持したのだろうか。しかしそうはならなかった。彼女はそのことでより一層エテレインを憎んだのだろうか。忌まわしい血と蔑まれ、恐れられる魔術師の長として。
 何にせよ、五歳の幼子であったエテレインに自分の運命の選択権はなかった。それが、母親が望んだことであればなおのこと。その運命に巻き込まれたトゥーゲントがいればなおのこと。運命に翻弄され、家族を失った二人の魂がやがて再び出会った時、どのように結びついていったのか、フライハイトは少し理解できたような気がした。
「済んだことさ」
 あれこれと考え込んでいるフライハイトを見て、ヴァールは言った。
「エテレインは、王になるだろうか?」
 フライハイトが訊く。ヴァールは肩をすくめた。
「さあな。別に王にならなくとも、空位にしたまま魔術師として国を治めるという手もあるだろし。まあ何とでもなる。あいつはもう、自由なんだ」
 ヴァールが笑顔で言った。彼には珍しく屈託のない笑顔だった。
 そう、少なくとも魔術師には選択権がある。彼の意思で自分の運命を決めていいのだ。
 それをどこか遠くから見ていようと、フライハイトは思った。彼がどんな選択をし、どう生きるのか。
 二人は馬を並べて、遠い故郷を目指した。

 終
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