34.いにしえの都

文字数 5,754文字

 都が近づくにつれ戴冠式を目指す人々は増え続け、今や街道の至るところで混雑による渋滞が起きていた。徒歩で移動する人々に混じって荷物を運ぶ大型の馬車も多い。一行は人々の混乱に混じって、都へと流されるように入っていった。
 フライハイトはその中にあって、人々の表情の暗さを訝しんだ。その暗さは今までに行き過ぎたどの町村集落でも見られたが、戴冠式という新しい時代の幕開けという時に、しかもそれを見届けようとして集まってきている彼らのしおれた様子はどうだろう。無論、現王デュランの退位を惜しんでのことではない。むしろ、デュランの治世が過酷なものであったなら、時代が変わることに何か期待を抱くのが普通ではないか。しかし人々の様子からは、そんな気配は微塵もない。
「誰も期待なんかしていないのさ」
 ヴァールが事も無げに言った。この混雑では離れているといざという時に対処できないのでヴァールとルックスはフライハイトの馬車のすぐ側にいた。
「戴冠式と言っても形ばかりのものだからなあ。実権はハイマが握ったままだということは誰もが知っていることだ。何も変わらないことがわかってるのさ」
 ルックスが言う。それにしても、とフライハイトは次第に気を滅入らせながら人々の様子を見つめた。今までの疲弊した生活が彼らから希望や意欲といったものをすっかり削いでしまったのだろうか。こうして祭りに人々が集まってくる様子も、何やら己の意思でというよりも、何か見えない糸に引き寄せられるような、そんな無気力な行進のように見え、その倦怠した重い雰囲気はめでたい儀式には不似合いのものだった。まるでこれから葬式でも始まるかという様相を呈している。その印象があながち間違っていないことをヴァールが説明した。
「来たくて来た者もいるんだろうが、仕方なくやって来る者がほとんどだ」
 戴冠式に合わせ、定められた区域ごとに決まった数の人間が都を表敬訪問する義務が課せられているのだという。戴冠式は盛大なものでなくてはならない。その形式をつくるために人々は駆り出されているのだという。ならば、この無気力と倦怠感に加え、ゆるやかな忌避の感情が空気に溶けだしているような重苦しさが理解できなくもなかった。
 所々で検問が置かれていた。その情報は事前に逐一ルックスに届けられ、対処方が決められた。もっとも役人たちは人々のあまりの多さに辟易しているのか、それともやる気がないのか、調べ方は生ぬるくおざなりなものだった。その上、いくらかの金品を差し出せば難なく通過できた。
 それでもいよいよ都の中に入ると、兵士の姿が増え始めた。彼らは役人たちとは明らかに違い、取り敢えずは祭りの雰囲気に彩られた都の華やかな賑わいや浮ついた感じとは異質の雰囲気をまとっていた。それはこれがただの祭ではなく、儀式であるという厳めしさを加味する一助にはなっていたが、フライハイトたち招かれざる客には甚だ危険な存在であり、検問ばかりでなく路上でふいに呼び止められる可能性もあった。見とがめられれば、ただでは済まない。
 フライハイトはヴァールの指示で彼らから離れ、魔術師とレヒトと共に都の中心へ向かう道から逸れて郊外へ向かった。様々な思惑が錯綜しあう人々の群から抜け出ると、フライハイトは束の間の安堵を感じた。
 レヒトの案内で都を取り囲む小さな森を進んでいくと、突然木々の連なりが切れ、土が剥き出しになった荒れ地が現れた。あちらこちらに角張った岩が点在している。それらは地の上に転がっていると言うより、大地から生えている風に見える。白っぽい乾燥した土には草も生えていない。風が細かな砂の粒を流す乾いた音が岩々の間を吹き抜けていく。異景であった。
 都の周囲に点在している古代の遺跡だというそれらは、地下の迷宮に繋がる大昔の都市の名残である。今はそのほとんどが都の下に埋もれていたが、ここはその一部が地上に露出している場所だった。そのために土が水を抱えることが出来ず、草木も生えない。そのことが、都に住む人々は不吉に感じられるのか、近づく者はなかった。
 フライハイトは魔術師を馬車から下ろした。人目に付かぬように、同行していたレヒトが馬車を別の場所へと運んでいった。フライハイトは魔術師と共に寂しく荒涼とした場所に取り残された。そのままここでヴァールたちが現れるのを待つことになっている。
 昔は栄華を誇ったであろう巨大都市の一部であった石の残骸に座り、その膝の上に魔術師の上体を横たえる。風が当たらない場所を選んだものの、複雑な岩の配置により風が巻き、時折彼らに吹きつけてきた。フライハイトは魔術師の体を毛布で覆い、周囲に視線を向けた。よく見れば大地から生え出た岩が人工的な形であることがわかり、中には建物のどの部分であったか想像できるものもあった。一体、何があったのだろう、とフライハイトは思う。この都よりもさらに大きな規模を持っているというこの壊れた都市は、それほどの繁栄を誇っていながら、今は風に晒されて往時の面影をかすかに残すだけだ。そこにあった人々の営みも文化も命もすでにない。ここは都市の墓場なのだった。
 一人そうした有為転変を目の当たりにして風に吹かれていると、ひどく心細い気持ちになった。こうして自分が生きていることもほんの束の間のことなのだ。その束の間の中で起こることなど、ほんのささやかなことに違いない。
 フライハイトは自分よりも少しだけ長い生を送る魔術師に視線を落とした。眠りに落ちているようだった。その体はこの短い旅程の間に、見た目にはすっかり回復していた。小さな顔を縁取る髪は艶を取り戻し、まるで銀で出来た糸のようだ。皮膚には傷一つ残ってはおらず、食事も口に運べば食べるようになったためか、皮しかなかった痩身にわずかながら肉がつき、死人のような顔相は消えた。ただ、そうなってもその体は持ち主の意思で動くことはなかった。この美しい肉体は人としてのあらゆるものが失われた脱け殻でしかない。
 ほんのまれに、フライハイトはかすかな気配を魔術師から感じることもあった。しかしそれはあまりにもかすかで、気づいた時には消えていて、気のせいでしかなかったように思えた。他には誰もそのようなものを感じたことはないと言ったが、人や物の気配を感じ取ることにおいてフライハイトより秀でた者はいなかったので、彼がそれを感じたということを否定することはなかった。
 フライハイトはそっと魔術師の瞼に触れた。薄い皮膚を通して、瞳の丸みが感じられた。今は隠されて見えない美しい青い瞳、それは、心がなければただの宝石と同じだった。
 彼の心は眠っているだけなのだろうか、それとも完全にこの肉体から失われてしまったのだろうか、この暖かな体はここと同じような荒涼とした残骸なのだろうか。フライハイトは、彼の中にそれがあることを、信じていたかった。
 日が暮れた頃、ヴァールとルックス、レヒトとリンクに加えさらに数人の男たちが姿を現した。都に潜んでいたルックスの仲間たちだった。三日後の戴冠の儀に合わせて地下迷宮へ入るために、彼らは都で準備を整えてきた。
 既に役目を終えた死の都の体内へと、その先にある変化へ向かう最後の行程が始まった。

 必然的に道案内はヴァールが務めることになった。
 迷宮への入り口は三つとされていたが、ヴァールとヴェルフェルの調査によって、公式には知られていなかった複数の入り口を見つけ出していた。その中の一つは遺跡の中ではなく、都に隣接する森の中にあった。
 都を取り囲む人工の森とは違い「神隠しの森」と呼ばれている密生した樹木の繁るその森は、至る所に洞窟や下草に隠された場所に地割れがあり、うっかり迷い込んだ子どもや旅人がそういった場所で命を落とし、或いは行方知れずとなった。その中の洞窟の一つで彼らは時を待った。ルックスの手下が数度、都の様子を報告に現れる他は何も起こらず、することもなくただ行き過ぎる時間をその洞窟で過ごした。
 その間、ヴァールが王宮へと続く道筋を説明した。ルックスも彼らの仕事に地下迷宮を利用しているだけあって、主要なルートは既知のものであり、ヴァールの説明の大体を理解したようだった。当然のことながらフライハイトはさっぱり理解できなかったし、ヴァールも期待してはいないようで、むしろ彼の方向音痴に懸念を示していた。決して離れるなと、珍しく何度も繰り返した。
 翌日の日暮れを過ぎた頃、別の入り口からミーネたちが迷宮に入ったという情報がもたらされ、予期していたとはいえ一行を少なからず動揺させた。それは驚きのためではなく、現実に何かが始まるのだという興奮のせいだった。ただ一人、ヴァールだけは何事もないかのように泰然と構えていた。
「ファステン王子は?」
 ルックスが問う。彼自身、まだ王子の生存を信じることができずにいた。しかし、部下は彼が望むような確実な情報を掴んではいなかった。
「ヴィーダーのメンバーの他、マントを来た彼らとは異質な人物が一人同行している。ミーネたちはそのマントの人物を守っているように見えたが、誰なのかはわからない。もしかすると……」
 報告をしていた男はそのマントの人物が誰であるかの可能性を考えていたが、その名を口にすることすら恐ろしいというように、言い淀んだ。ルックスはそんな部下の恐れを目の当たりにすると、幽霊に過ぎなかったファステンが現実感のある存在として感じられ始めた。本当に何かが起きるのかもしれない、彼はそう考えてみて、いつまにか自分自身もそれを望んでいることに気付いた。あるいは、何か新しいことが起きるという予感に興奮しているに過ぎないのかもしれなかった。たとえ、それで命を落とすようなことになったとしても。
 翌日、戴冠の儀の前日となるその日、彼らは身を隠していた洞窟を出、さらに森の奥へと進んだ。
 ヴァールの案内で導かれた次の洞窟は、まるで木と草で編まれたような鬱蒼とした樹木の壁の向こう、奥深くに隠されていた。一見、獣の行き来すらないように見えたが、その場所を利用した人間がいることを示すように、隠れた抜け道が出来ていた。樹々の壁を抜けると洞窟の入り口が口を開いていた。それは意外に小さな入り口で、扉が付いていればまるで人工的に作られた出入口のような規模だった。が、その黒々とした気配は人の本能的な恐れを呼び起こすに十分だった。
 フライハイトはブロカーデを出る時に通った洞窟を思い出した。記憶はさまざまな感慨を運んできてフライハイトを落ちつかなくさせた。この洞窟の終わりに何が待っているのか。
 洞窟の中は入り口が厚い樹木のベールに覆われているために暗く、生き物の気配がなかった。ランプの光さえ心細げに淡く周囲にほんの少しの光を広げることしかできない。ヴァールが先頭に立ち、ランプを翳しながら奥へと進んだ。足元の滑らかな床の感じから、やはりそこは洞窟ではなく、元は古い建物が朽ちた場所だと知れた。入り口の大きさから察した通り、内部は人一人が通れる程度の幅と高さで、奥行きもそれほど深くはなく、意外なほど早く突き当たりとなった。
「持っていてくれ」  フライハイトはヴァールからランプを手渡され、彼の手元を照らすように言われた。突き当たりと思っていた洞窟の最奥は一見壁に塞がれているように見えた。ランプの光に現れたその壁に何かの模様が見て取れて、フライハイトはここがすでに地下迷宮の一部なのだと悟った。
 ヴァールはその壁の上部を手で探り、短刀の柄で数度叩いた。ばらばらと土塊が崩れる。ランプの光でそこを照らすと、周囲の壁とは異質の質感を持ったものが見えた。それは鉄の扉だった。
 ヴァールが扉を肩で押した。すでに一度は開けられていたらしい朽ちかけた扉は、耳障りな軋みを上げながら動いた。その向こうにこの洞窟の闇など比較にはならない、真の闇があるのをフライハイトは見た。闇の他、何もない。翳したランプの光さえ全く受け付けない闇だった。湿ってひんやりとした空気と共に、何とも言えない嫌な気配が漂ってくるのを感じ、背筋が震えた。
 周囲の息をのむ気配を無視し、ヴァールは無造作に扉を潜ってその向こうの闇の中へと入っていった。彼が恐れるものなどこの世にあるのだろうかと、フライハイトは少し呆れながら、本能的な恐怖の抵抗を受けて強ばる足で意を決して扉を越え、ヴァールのいる闇の中へ滑り込んだ。
 地下迷宮の体内には死の気配が満ちていた。そう感じるのは人が暗闇を恐れる動物だからだろうか。何があるか、何が起きるか全く予想のできない無防備な状態は限りなく死に近い。人工的な建物の内部であることが、その内側の虚ろをよりいっそう恐ろしい世界にしていた。フライハイトは気温よりもさらに体温が下がるような感覚を覚えた。
 ヴァールに言われ、ランプの灯を消すと圧倒的な闇の重量感にフライハイトは気押された。
「気をつけろよ」
 どきっとするほど近くからヴァールの声が聴こえ、フライハイトは思わず身じろいだ。
「な、何を?」
 どきどきしながらフライハイトは応えた。自分の掌も見えない闇の中で彼は子どものような心細さを覚えていた。
「おまえはとんでもなく方向音痴だからな。迷うと一生出られなくなるに違いない」
 何度も繰り返したことを再び言うヴァールの声にからかいの気配を聞き取って、フライハイトはやや気分を害しながら、洒落にならない忠告に思わず本気でぞっとしてしまった。
「何なら、手を繋いでやろうか?」
 そう言って喉の奥で笑うヴァールの声をフライハイトは不機嫌に聞いた。そうして彼の声と息遣いを聞いて、少し気を取り直している自分に気づいた。どうやら後についてきている仲間たちも、二人のやり取りに落ち着きを取り戻したようだった。
 一行は闇の中を進み始めた。聴こえるのは互いの足音と息づかいだけ。そしてフライハイトはあの洞窟と同じく、背負った魔術師の心臓の音を聞いていた。
 闇は果てしなく続いていた。
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