28.襲撃

文字数 7,154文字

 ようやく訪れた安らかな眠りは、やはり長くは続かなかった。物音に二人の眠りは破られた。それは扉を叩くほんの小さな音でしかなかったが、即座に彼らは起き上がった。神経のどこかは目覚めたままだったのだろう。ヴァールは体よりも頭が、フライハイトは頭よりも体が素早く状況に対応しようとしていた。ヴァールが扉に忍び寄り、ひそませた声で誰何(すいか)した。
「ここを出るんだ」
 声の主はフューレンだった。ヴァールが扉のかんぬきを外すと、剣士は素早く中へ入ってきた。声は落ち着いていたが、顔には緊張があった。ヴァールは窓に走り寄り、閉じたままの木戸の隙間から外を伺った。予定よりも長く眠ってしまったようで、まだ夜は明け切ってはいないものの、空が白み始めていた。薄闇の中、通り沿いの家々や宿を、密やかな動きで出入りする兵士の姿が見え、少し離れた道路の中央に、朝霧に霞む大きな灰色の影を認めた。それは大勢の人の影であり、王都軍の一個部隊に違いなかった。
 兵士たちは道路に面した建物を一軒一軒調べて回っているようだった。彼らが探しているものは明らかだ。森で肩透かしを食ったので、しらみ潰しに調べて回っているのだ。彼らがこの宿に捜索に入るまで、そう間はなさそうだった。
 身支度を済ませ、魔術師を抱き上げていたフライハイトが部屋を出る。前をヴァールが、後ろをフューレンが守る。三人はすばやく、しかし静かに宿の裏手に回り、中庭に出た。
「あっちだ」
 ヴァールが指さした方へ走る。昨夜のうちに用意しておいたらしい生きのいい二頭の馬が馬車に繋がれて彼らを待っていた。
「俺が動かす」
 フライハイトは言って、馭者台に乗り込んだ。フューレンはむろん、ヴァールも顔を知られている可能性が高いからだ。ヴァールは頷いて荷台に飛び乗り、積まれていた藁束の間へ魔術師を押し込めた。その上へ帆布を掛け、フューレンと共に自分もその中にもぐり込み、身を隠した。
 フライハイトはフード付きのマントを被り、彼らが完全に隠れたのを見届けてから馬を動かした。中庭から宿とは反対側の道路へ続く道をゆっくりと進み、大通りへ出た。大きな街だけあって、夜も遅いが、朝は朝で人々が動きはじめるのも早い。すでに通りには一日の始まりを思わせる活気が現れていて、それに加え、軍兵の出現に何事かと人が集まり、騒ぎ始めている。それがフライハイトたちには好都合だった。誰も彼らに目を向けず、風体を怪しむ者もいなかった。
 広い通りをのんびりさを装って、ゆっくり進んでいくと、泊まっていた宿の周辺だけでなく、街のいたる所に兵士たちの姿が見受けられた。彼らは宿泊施設だけでなく、店舗ばかりか個人の家々の中まで覗き、人々から情報を聞き出そうと慌ただしく右往左往している。既に、秘密裏に動くことはあきらめたようだ。しかし、どこの街でも彼らは嫌われものだった。金でも積まれない限り、積極的に協力しようとする者はほとんどいない。何の見返りもないなら、街の人々は彼らに、不信の籠もった冷たい眼差しか、見かけは恭順を示しながら薄ら笑いを浮かべて無関心を提供するだけだった。
「止まれ」
 兵士の一人がフライハイトの馬車に目を付け、声を掛けた。フライハイトは素直に従った。兵士は短槍の先でフライハイトのフードを剥いだ。フライハイトは(かしこ)まった顔に、戸惑いを混ぜた表情で兵士を見た。兵士は、フライハイトのいかにも垢抜けない風体や、労働でやけた肌や髪、素直そうな目を見つめた。その腰にも、周囲にも武器となりそうなものが何もないことを見て取った。
「後ろの荷物は何だ?」
 フライハイトが答えるより早く、別の兵士が帆布をめくり上げた。そこには束ねた藁が山積みになっているだけだ。兵士は槍を数度、藁の中につきいれたが、おざなりな動作だった。
「行け」
 元々やる気のなさそうな兵士は、興味をなくしてぞんざいに言った。フライハイトはかすかに頭を下げ、馬車を進めた。
「ちょっと待て」
 しかし、少し離れた場所からその様子を見ていた別の兵士が声を掛けた。続けて同じ声が誰かに、荷台の藁を降ろして調べろと命じている。フライハイトの束の間の安堵はすぐに消えた。兵士の声には油断のない尖った響きがあり、この場を切り抜けることは難しそうだった。フライハイトは聴こえなかったふりをし、そのまま馬を進めた。
「待てと言っているっ」
 兵士が声をあげると、数人の足音が追ってきた。逆にフライハイトはスピードを上げた。最初に彼らを見とがめた兵士が、自分の失態に気付き、必死の形相で荷台に飛び乗ろうとしたところで、フューレンが帆布をはね上げ、藁の束の一つをその兵士に向かって蹴りつけた。まともに食らって兵士は地面に転げた。
「追いかけろ!」
 兵士が叫ぶ。一声で街のあちこちから軍兵が集まってきた。取り囲もうとしている兵士をフライハイトは馬の蹄で蹴散らし、突破していくが、次々に行く手を阻まれてスピードを出せない。荷台に数人の兵が追いついてきた。
「代われ!」
 フライハイトが怒鳴る。ヴァールと馭者を交代して一人応戦していたフューレンを助けるために荷台へ移る。飛び乗ってくる兵士を次々蹴り落としていくが、その数は増える一方だ。
「あの方を、頼む!」
 そう叫んで、突然フューレンが荷台から飛び下り、兵士の群に突っ込んだ。
「フューレン!」
 フライハイトが叫ぶ。
「逃げろ!」
 剣士は振り向きもせず、叫んだ。彼女の周りに、突然飛び込んできた獲物を狙って、無数の兵士が集まっていた。
「ヴァール。彼女が!」
「構っている暇はないっ」
 ヴァールが叫ぶ。事実、まだ多くの兵が彼らに追い縋ってきていた。
「とばすぞ!」
 ヴァールが叫ぶ。フライハイトはもう見えなくなった剣士の無事を願いつつ、今ある危機的状況に専念するしかなかった。

 フューレンを幾重にも取り囲んだ兵士たちはまだ皆若かった。彼女も軍人としてはまだ若くはあったが、それよりもさらに若く、十代の若者ばかりと見受けられた。彼らは経験が少なく、判断力も乏しい。逃げていくものより向かってきたものに、反応してしまっていることからもそれは伺えた。血気盛んなためだけでなく、その方が手っとり早く、確実に武功を挙げられると勘違いしている。本来ならば、逃げるものにこそ価値があるのだということを、彼らは考えもしなかった。
 身内だった筈の彼らを敵に回した時、そのことが救いになるとは、皮肉なことだとフューレンは思う。確かに、彼らは若さに任せて度胸もあり無鉄砲でもあったが、その中身は浅薄で、街のならず者を少しましにした程度の能力しかない。下手をすると、己の生活や命を掛けた経験がない分、彼らよりも軟弱かもしれない。国が腐れば、国が擁するものも腐るのだ。国内は乱れていたが、それを厳しく律する政治はなく、外向的には安定していたために、軍の利用価値や存在意義は軽んじられていた。そのため、そこに所属する若者の多くは、サロンで集会するのと同様な、遊び半分の者ばかりになり下がっていた。
 全ての軍人がそうではない。古参の兵や優秀な軍人は、近く行われる戴冠の儀のために王都に残っていた。これも、非常に重要な任務ではあったが、より優先されるのは王都の守備であり、こうして地方へ派遣されてきた兵は能力も経験もない若者が多いのだった。
 とはいえ、いかにフューレンが優秀な剣士であっても多勢に無勢だった。命を落とすことになるのかもしれないと、フューレンは思った。運が良ければ生き延びることも可能だろうが、その可能性は薄そうだ。
 ここで死ぬのか。何のために? この戦いに、この間抜けどもと戦っての死に、意味はあるのだろうか? フューレンは考えていた。
 地方にいた時、何度か豪族の起こした地域紛争の中で命の危険を感じたことがあったが、その時の死は軍人としての死だった。しかし今は違う。今死ねば、反逆者か或いは罪人として死ぬことになるのだ。父はそのことを悲しむだろうか。家の恥として激怒するだろうか。そのことに胸が痛みはしたが、しかし、己の心に従い、軍人としてではなく、一人の人間として戦い、そして命を落とすことになったとしても、それで構わないとフューレンは思った。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。背筋を伸ばして剣を構える。カシャンと、鍔が心地よい音を響かせる。フューレンは緩やかに笑い、自分を取り囲む若い兵士たちを睥睨した。
「さあ、おいで。坊やたち」

 ヴァールは懸命に馬車を走らせていた。少しでも集中力が途切れれば、荷台ごと転倒しそうな危ういスピードで馬を駆りたてていた。
 尚も追ってくる兵士たちを、フライハイトが次々に蹴り落とす。更に馬で追ってきた兵士が荷台に飛び移ってきた。同時に剣が空を切る音がし、フライハイトはすんでの所でそれをかわし、態勢を崩しながら拳で兵士の肩口を突いた。防具に阻まれ、それは完全な突きにはならず、男は呻き声を上げたが、素早く剣の切っ先を回した。体を半回転させながらそれを避け、再び、肩口を突く。今度は狙いが当たり、防具の継ぎ目に拳がめり込んだ。鈍い音がし、骨を砕かれた男は馬車から転げ落ちた。
 ふいにがくんと馬車が揺れて、フライハイトはバランスを崩して床に倒れ込んだ。前方を見ると、馬から乗り移ろうしている兵士が馭者台に足を掛け、ヴァールに剣で切りつけていた。
 フライハイトは跳ねるように起き上がり、ヴァールの頭上に振り下ろされてきた腕を受け止めた。
 ヴァールは何とか手綱を操りながら、片手に握ったナイフを男の腹に突き刺した。それでも兵士はもう一方の手でヴァールの髪に掴みかかり、馬車の主導権を奪おうとしていた。
 馬車が大きく揺れ、荷台が左右に振られてバランスを崩しかけた。フライハイトは男の腕の関節を逆方向へねじった。乾いた音がして男の腕が折れ、剣が荷台に落ちた。兵士は悲鳴と共に、馬車から落ちた。
 ヴァールは興奮して制御の利かなくなった馬を宥めながら、必死で手綱を操った。馬で執拗に追いすがってくる兵士たちの動きがふいに乱れた。フライハイトが後方を見ると、明らかに軍兵とは違う集団が、彼らの中に割って入ってきていた。
 その中にミーネの姿をフライハイトは見たような気がした。或いは人違いであったかもしれない。そうだとしても彼らがヴィーダーであることは、間違いのなかった。彼らがどういう意図を持っていようと、取り敢えず、兵士たちの攻勢は弱まった。フライハイトは考えるよりも、尚も荷台に飛び移ってこようとする残りの兵士たちを排除することに集中した。
 床に落ちていた剣が奇妙な(もや)をまとい始めていた。その靄は炎のような赤黒い揺らめきとなって剣をぼんやりと鈍く輝かせた。意思を持たぬ剣がカタリと震えた。その赤黒く変色した剣の刃に金色の瞳が浮かび、生きているもののように周囲を見回しているのにフライハイトは気づいていなかった。

 何人を倒したか、考えてはいなかった。フューレンの剣は人の脂によって、その機能を失いかけている。傷つけることはできても倒すことは叶わないだろう。が、じりじりと包囲の輪を詰めてきている兵士たちの数が減る様子はない。彼らには、獲物を追いつめた者の余裕が漂い始めている。その中に幾人か既知の顔があったが、そこには残忍な喜びが浮かんでいた。
 もう駄目か、そう思った時、兵士の後方から一人の男が人波をかき分けるように出てきた。それは、戦闘のただ中に入ってきたというより、野次馬を押しのけ、良い場所で見物でもしようかというような、無造作な動きだった。
「エーベン」
 フューレンは荒い呼吸の間から、彼女の目の前に立っている男の名を呟いた。エーベンはその場の緊張感とは無縁ののんびりした顔で、フューレンを上から下までしげしげと観察し、もう一度視線をその顔に戻すと、陽気とも言える場違いな笑みを見せた。
「突然いなくなったと思っていたら、こりゃ、一体どういうことなんだ、フューレン? 説明してくれないか?」
「そんな暇はない」
 フューレンは探るように男を見た。
「まあ、確かにそんな暇はないようだなあ」
 じれた兵士が彼女に切りかかる。フューレンがそれに応じるよりも早く、エーベンが剣の柄で兵士の顔をぶん殴った。フューレンが驚いている間に、エーベンは彼女の横に移動し、剣を今まで自分がいた側に向けた。兵士たちの間に動揺が広がる。
「エーベン?」
 フューレンが眉をひそめる。自分のやっていることはごく個人的な問題であって、王軍の一員である彼が同調する理由はないのだ。例え、友人同士であっても。
「俺は怒ってるんだぜ、これでも」
 エーベンが無鉄砲に飛び掛かってきた兵士の一人を一太刀で斬り伏せながら、暢気な顔に怒りをにじませた。彼は、フューレンが自分に何の相談しなかったことに、本気で腹を立てていた。そのような水くさい仲ではない筈だった。これが大それたことであるだけに、フューレンが自分を誘わなかったのだとわかっていても、尚更腹が立つ。
「俺に何も言わないで、とっとと何かやってるんだものな、お前」
 その言葉にフューレンがばつが悪そうに、しかしそれを極力顔に出さないようにしているのを見て、エーベンは笑う。
「エーベン、いいか。これは私の問題なんだ。お前には関係のないことだ。早まった真似をするな」
 フューレンは言いながら、既にエーベンも後には引けないことはわかっていた。
「まあ、仕方がない」
 エーベンは悪びれもせずに言って朗らかに笑った。
「仕方ない?」
「ああ。お前の尻拭いをするのは、俺の宿命だな」
「いつ、私がお前に尻拭いさせたっ」
 激昂してフューレンは叫び、その勢いで兵士の一人を倒した。
「今、ここで、こんな風に」
 そう冗談めかして言うエーベンは楽しげでさえある。エーベンの父カメラートは、彼女の父エルンストの従者だった。カメラートは、息子もフューレンの従者となるべく教え諭していたが、その立場を受け入れるかどうかはともかく、二人は幼なじみであり、互いに対等であり、同じ軍人の道を選んだ友人同士であることは確かだった。
 突然、どこからともなく兵士たちに向けて何かが飛んできた。それを避けるように兵士たちの包囲網が崩れる。出来た空間に、飛んできたバケツが派手な音を立てて転がる。それを合図に色々なものが彼らに向かって投げ込まれ始めた。兵士たちはそれを避けるために右往左往し、投げた者を捕らえようとする者や、臆せず食ってかかる豪気な人々との間で摩擦が起きはじめ、状況はあっと言う間に混乱した。
「おやおや。何とまあ、俺たちは人気者だこと」
 エーベンは言った。街の人々の加勢が、軍と敵対している自分たちへの応援だという意味なのか、自分を軍兵として考えたとして厭味を言っているのかは、この男の性格から判断はできない。突然変わった状況に呆気にとられているフューレンに、エーベンは囁いた。
「今のうちにずらかろうぜ」
「“ずらかる”?」
 ならずもののような言い方に剣士は眉をひそめる。そんな彼女を見てエーベンは笑った。
「撤退でも、退却でも、しっぽを巻くでも。とにかく、逃げるんだ。この際、“おぼえてやがれ”は省略して」
 フューレンは呆れたようにぐるりと目玉を回して見せるや否や、背を向けると脱兎の如く駆けだした。エーベンは笑いながらその後を追った。

 何かがきらりと光ったのを目の隅に捉えて、フライハイトは咄嗟に手を出した。考えるよりも早く、反射的に彼の手はその光るものを掴んでいた。痛みよりも冷たいような感覚が右手に走る。掴んだものは剣だった。切っ先はエテレインに向かっていて、その柄を握る者はいなかった。ぎょっとしたフライハイトは一瞬、掴んだ場所から赤い炎がめらりと立つのを見た。それは彼の血へと変わった。ぼとぼとと鮮血が床に落ちて音を立てた。
 尚もその剣は、まるで命を持った一つの生物のごとく、狙い定めたものに襲いかかろうとしているのをフライハイトは全身で感じた。
 いまだかつて無い激痛が、掌から腕の中を走り脳天を突き抜けていった。さらにその痛みの後を追うように、体の神経に直接触れてくるようなおぞましい気配を感じた。おぞけがフライハイトの全身を震わせる。そのおぞましいものが、体の隅々まで行き渡っていく。血が抜けていくのと同じ感覚で、全身から力が落ちていく。突如、これは人知を越えた力なのだ、到底抵抗できない、否、抵抗してはいけないのだという考えが、頭の中を支配した。みるみる自分の中から気力までも萎えていくのを感じたが、それを止めることができなかった。ふいに、この痛みや苦痛に耐える必要などないような気がした。
「フライハイト!」
 ヴァールの叫ぶ声が聴こえた。その彼らしくなく切迫した響きに、フライハイトははっと我に返った。頭の中をかき回していた何かが、すっと引くのを感じる。肉体だけでなく、心を蝕むような邪悪な気配を身のうちに感じながら、フライハイトは気力を振り絞った。
 咆哮に似た声を上げ、剣をたたき落とす。ガランと音を立てて床に転がった剣は、彼の血で濡れていた。鏡のように輝く刃に一瞬、女の顔が映っているのをフライハイトは見た。人の心をとろかすような妖艶さを持つ、見たこともない種類の美貌だった。それは、彼の心を凍りつかせ、肌を粟立てるような微笑を浮かべていた。
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