16.王宮の魔女

文字数 6,594文字

 何かが、動きはじめている。
 ハイマは椅子に座ったまま身じろぎもせず、その曖昧な気配を感じていた。それが何か、はっきりとわからない。神経を集中させると、その気配が強くなるような気がしたが、長くは続かない。以前なら目的を果たす前に集中が途切れるようなことなどなかったのに。ハイマは不快な苛立ちを覚えた。
 赤みを帯びた豊かなブロンドと黄金に似た色の瞳。眩い色彩を持った女は、彼女を彩る豪奢な衣装や、類稀な宝飾品、贅をこらした室内の中で、なによりもその存在そのものが輝いていた。まだ二十も半ば程の女として美しい盛りの齢に見える彼女の美貌はすでに百年を越える月日を耐えている。
 しかし、人々がその美を目にした時、純粋に外見だけでは昔ほどに心を惹きつけ、魅了することができなくなっていた。自然の摂理に逆らって、止めている時間がその負荷に耐えられず、じわじわと動き始めている。自分の容貌が老いていくことを彼女は恐怖と共に感じていた。それは魔術師としての力の衰えの象徴だったのだ。
 今でも人々は彼女を畏怖し崇拝している。しかしそれは魔術師としての力そのものの所為ではなく、ただの幻惑の効果に寄るところが大きい。しかし、だれあろう彼女自身にはその効果は通用しない。力の衰えを、希代の魔術師であっても免れることはできないという事実を、受け入れざるを得なくなっている。ハイマの目には老いていく自分の姿がはっきりと映っていた。いつしか人々を誤魔化すこともできなくなるに違いない。
 寒けがした。
 マクラーンの変化は予兆のような気がして、いつにない恐怖を覚えた。
 やはり、殺しておくのだった。
 ハイマは今までにも何度か感じた後悔を再び繰り返していた。けれど、王デュランの怒りはエテレインを生かしたまま苦しめることを望んだ。そしてハイマ自身もそれを望んでいた。苦しんで苦しみぬいて死ぬがいい、そう思っていた。事実、二人はエテレインに苛烈な罰を与え、地獄のような苦しみを味わわせた。そしてその後に永劫の苦痛を与えたのだ。
 魔術師の肉体は普通の人間よりも命の綱が頑丈で、たやすく死ぬことはない。それ故に、より長く恥辱と惨苦に耐えねばならぬとは皮肉なことだ。それでも、やがては衰えて肉体が耐えられずに朽ち果てるはずだった。そしてそうなるより早く、常軌を逸した責め苦に心が耐えられず、すぐにも人として崩壊してしまうだろうと思えた。
 魔術師は自分の肉体の時間を止めることはできても、他人の時間を操作することはできない。そうできたなら、ハイマはエテレインの時間を止めて、未来永劫あの悪夢の中に置いてやっただろう。が、それは叶わない。ハイマはエテレインが、苦痛から逃れるために自らの時間を動かし、生を手放すだろうと思っていた。が、この三十年の間、マクラーンに幽閉されたエテレインは生き長らえていた。あの酷い仕打ちを受けながら、時間を止めてでも生きることを望んだのは、エテレイン自身なのだ。
 最初は愚かにも、まだ希望を持っているのだろうと考えた。が、希望などどこにもなく、救いもあろうはずがなかった。エテレインが生き長らえようとする理由など何もない。エテレインを必要とする者は今や誰もいないのだから。
 それでも未練たらしく生きようとしていることを、ハイマはディランと共に嘲笑した。それでも五年経ち、十年が過ぎると、ディランは荒れた生活と享楽的な日常の中でマクラーンのことを忘れ、逆にハイマの心には飛び出た釘の先のようにいまいましく不快な異物として存在し続けた。
 十五年が過ぎた頃、エテレインの生への執着に、かすかな恐れを抱き始めたハイマは一度マクラーンを訪れた。様子を(うかが)い、場合によっては殺害してしまおうと決意していた。ディランはその当時も処刑を許してはいなかったが、すでに王の心の中でエテレインは過去のものとなっていた。それに、例えハイマが手を下したとしても、誰もそれを知ることはできない。
 ハイマは肉体を宮殿においたまま、意識をマクラーンへ飛ばした。彼女の肉体から離れた魂の一部は風となってその悪夢の家へと向かった。
 その光景は実にハイマを喜ばせた。かつてエテレインを拷問に掛け、その苦痛の声を聞き、血と涙を見た時にもぞくぞくとする欲情に似た快感を覚えたが、その時の生々しい感覚が蘇ってきた。
 エテレインは都でハイマと並び称される程の美貌を持っていた。二人の美貌は比較されることが多かったが、ハイマが蠱惑的で魔性の美と形容されたのに対して、エテレインの容貌は汚れをしらぬ神聖な美貌と讃えられた。そして事実、その見た目に相応しく、気高くそして誇り高かった。何より、ハイマよりもずっと若く、その力を(しの)ぐのではないかと噂されていた能力を有し、権力に一番近い場所にいた魔術師だった。
 それが、今や見る陰もなくやつれ果てた肉体に鎖を絡ませ、自由を奪われたまま、汚物に塗れている。これ以上ないという凋落(ちょうらく)ぶりに、ハイマは笑い声を抑えることができなかった。
 そして、彼女はエテレインが何故未だ時間を止めて生きているのか、悟った。恐らくは憎んでも憎みきれないであろう自分の魂がすぐそばに来ているにもかかわらず、その気配を、エテレインはもはや認識することすらできないのだった。完全に正気を失っているに違いなかった。
 無理やり開かせてみた瞳は、昔と変わりなく宝石と形容された美しいブルーだ。拷問の際に潰してしまおうと思ったが、エテレインが見たがらないものを無理矢理見させるために残しておいた瞳だった。けれどその瞳はもうハイマを見ることはなく、ただぼんやりと鈍い光を宿すのみ。魔術師としての力だけでなく、英俊と謳われ、その能力を高く評価され期待された知性はその中のどこにも見当たらなかった。
 ハイマは心の底の湿った場所から湧いてくる笑みを、美しい唇から漏らした。可愛らしい声で笑いながら、汚物に汚れ無数の虫が這い回る顔を指でなぞった。鉄の杭に貫かれた頬の穴が膿み、爛れている。それでもなお、その顔は美しい。かつては前王ラオネンの関心を引き、現王ディランの心を揺さぶりさえした。けれどここでは誰もそれを見てはくれない。誰も賛美してはくれない。
 エテレインも最初は生きようとしたのだろう。しかしそのうち正気を失ってしまったのだ。そして魔術師の力だけが虚しく、その肉体を生き長らえさせているのだ。本人の意思に関係なく。
(むご)いこと」
 ハイマは満足げに笑った。
 エテレインを恐れる必要は何もないと彼女はようやく納得した。最初からそのようなものは、ありはしなかったのだ。かつては自分の地位を脅かしさえしたその力の幻影が、しこりとなって不安を呼んでいたに過ぎない。ハイマは今のエテレインに満足した。それでも、今までその存在だけで自分を悩ませていたことに対する償いとして、さらなる罰を与えたかった。
 何かないかと考えていた時、その男は現れた。ブロカーデの村からやってきた男を見て、ハイマは暗い笑みをその美貌に浮かべた。その男を彼女は知っていた。取るに足らない、価値のない男。男は幽鬼のような(くたび)れた灰色の顔に浮浪者のような古びて汚れた服を着、色が抜けてしまった汚らしい白髪が伸び放題になっている。まるで野にある雨風に晒されて朽ちかけた樹のようだ。その男の変貌ぶりもまた愉快だった。
 否、その姿こそ、この男の本来の姿に違いない。
 その男だけでなく、ブロカーデに住む者をハイマは全て知っている。その多くは己の運命を変えたエテレインを憎んでいる者たちだ。エテレインを苦しめ、悲しませただろうその者たちの憎しみは、彼女にとって甘美な喜びだった。
 男は虚空に漂うハイマに、気づくはずもない。彼女は仄暗い喜びと共に、男を観察した。男は「食事」を運んできたようだった。男がわざわざこの仕事をかってでていたことに、ハイマは少し驚いた。男の、エテレインに寄せるものは憎しみだろうか、それとも愛慕だろうか。或いはその両方だろうか。どちらにしろ、ハイマにとっては、その男もすでにどうでもいい存在に等しく、興味はなかった。
 男は建物の上まで昇ると、革の管を使って汚物を流し入れた。ハイマはいつのまにか建物の天井に鉄格子の覆いが作られていることに気づいた。そのようなものはなかったはずだ。空からやってくるカラスや猛禽に好き放題にその肉体をつつかせるために。鉄の格子は明らかにそれらからエテレインを守るためのものだった。誰かが、エテレインのために何かをしてやった。そのことがハイマの中に怒りの炎を灯した。
 男が流し込んだ汚物はエテレインの真上ではなく、その脇に落ちた。男が下にいるエテレインに直接当たらないように、管を操作したのだ。ハイマは燃える瞳で男の心の奥深くを探った。そこにはエテレインに対する歪んだ敬愛と、そして暗く湿った欲望が潜んでいた。
「なるほど、それでもなお、その“魔物”が愛しいらしい。お前の望みを叶えてやろうか」
 ハイマは呟いた。
 男はいつの間にか、自分が建物の中の床の上に立っていることに気づいた。次の瞬間にはそれが奇妙なことだと感じることもできない程、心の中から火のような衝動が湧き上がってきて、自分が何をしているのかわからぬまま、椅子に座る魔物の下肢を覆うぼろ布を引き裂いていた。
 男の目がそこを見て驚いているのが、ハイマには可笑しかった。男の驚きはすぐに激しい欲望に変わった。獣染みた衝動が男の体の中心を貫き、それは理性を粉砕し、狂ったように男を駆り立てた。それまで無理やり押さえ込み、長い間せき止めてきたものがその圧力に絶えかねて一気に崩壊した瞬間だった。男の思考は凶暴な赤い炎に包まれた。
 痩せ衰えた魔物の下肢を抱き抱えると、その肉体を己の欲望で引き裂いた。
「懐かしかろう? お前の大好きな男のものがお前を辱めている。嬉しかろう? 気高いエテレイン。人に触れられるのさえ、久しいのではないか?」
 ハイマは獣のように男に蹂躪され、しかしただ男の動きに合わせて体を揺らすだけで、全く反応のないエテレインに嘲笑を浴びせた。男の動きに合わせて、快感を覚えていたのはハイマ自身だったかもしれない。
 事が済み、熱が一気に覚めて我に返り呆然としている男を建物の外に追い出した。男が悲鳴を上げ、狂ったように叫びながら走り去っていくのを見送って、ハイマは男の名残で下肢を汚しているエテレインを満足げに見下ろした。しかし、エテレインは自分が犯されたことも気づいていないだろう。それともどこかでそれを感じていただろうか。
 村に行ってみると、マクラーンと村を隔てる門を通り抜けた場所で、男は己の首に短刀を突き入れこと切れていた。ハイマはその内蔵と血を抜き取り、泥の中に混ぜ込んで人の形を作った。所詮、生身の人である村の監察官など、信じることはできない。
 男の一部で作られた人形を門番に仕立て上げ、それからこの十五年の間、門が定期的に開かれ、閉じられるのを見守ってきた。ブロカーデの人間は、人形に宿ったハイマの術により、それが村の長であると思いこんでいた。
 その傀儡が壊れされたことを感じ、ハイマはブロカーデの異変に気づいた。しかし、何が起きたのか確かめるため、十五年前のように、マクラーンへ魂の一部を飛ばすことはもう出来なかった。そうすれば、自分の本当の姿を人々の目から欺く目眩ましに過ぎない幻影に力を注ぐことができなくなる。すでに複数の術を使う集中力も力もなかったのだ。
 ぞくりと、寒けを感じた。
 再びエテレインが復讐のために自分を殺しにくるのではないかという妄想が彼女を苦しめ始めた。しかし、それは妄想でしかなく、壊れたエテレインには何の力もないに違いない。むしろこの国にとって、現王制にとって、その存在を知っている人間に利用されることの脅威が問題なのだ。にもかかわらず、ハイマはエテレインそのものを酷く恐れていた。
「殺さなければ」
 ハイマは呻くように言った。その声は本来の年齢に相応しくひどく(しゃが)れていて、彼女はぎくりとした。すぐさま、自分の弱気を押し退ける。支配者であり続けるためには、自分自身をも偽らなくてはならない。自分は魔女と呼ばれる、魔術師なのだ。
 彼女の命を受けたエルンストが広間に姿を現した時には、魔術師ハイマは普段の威厳を取り戻していた。
 前王の御世から王家に仕えてきた王都軍の将軍は、ハイマの前に恭しく(ひざまず)いた。
「ブロカーデを調査した者の知らせによりますと、村は全滅し、生存者はおりませんでした。マクラーンに幽閉されていたエテレインの生死は確認がとれず、その行方は不明とのことです」
 エルンストが言葉を切る。ハイマは沈黙で先を促した。
「少なくとも村外から侵入したと思われる男の遺体が三体ありました。彼らは今夏に騒ぎを起こしたヴィーダーの残党と見られます。マクラーンからエテレインが消えた子細は未だ不明ですが、彼らが係わっている可能性は濃厚と言えましょう」
 ハイマは将軍の報告を無表情に聞いていた。エテレインが自らの意思であの牢獄から逃亡するとは考えにくい。当然、誰かが手を貸したに違いなく、貸したというよりその意思に関係なく連れ去ったと見ていい。
 ハイマは黄金色の瞳で将軍を睥睨(へいげい)しながら考えを巡らせた。エテレインを連れ去ったのはミーネに違いない。ほんの少し頭が切れるばかりに愚かな男。が、エテレインに目を付けるとは、ミーネは何を知ったのだろうか。真実を? その可能性はなさそうだが、それでも、男の中途半端な愚かさ故に油断はできない。
 逃走したエテレインと、あるいは連れ去った人間を速やかに捕らえるよう、指示した。
「必ずしも生きて捕らえる必要はない。が、死体は私の前に持ってくるのだ」
 頭を垂れたエルンストに、美しいが力強く張りのある魔術師の声が鞭のように響く。
「御意のままに」
 深々と拝礼したエルンストは立ち上がり、視線を伏せたまま後ろへ下がった。
「将軍よ」
 ふと思いついたようにハイマは声を掛けた。エルンストは動きを止めた。
「あの者に、会いたいか?」
 魔術師の声にはどこか嘲るような響きがあった。エルンストの、あくまで見た目には謹厳実直な所作を見ると、皮肉の一つも言いたくなる。この国において、魔術師の言葉は王の言葉とされている。エルンストは忠実にそれを守っている。しかし、将軍の忠誠は魔術師にではなく王にのみ、向けられていることをハイマは知っていた。態度ではなく、男の中から滲んでくるような自分への嫌悪を彼女は感じている。
 声を掛けられてもエルンストは慎み深げな顔で頭をかすかに垂れたままだ。恭順を示しているかのように瞳を伏せた男のそれは、けれどハイマに対する消極的な拒絶の意思表示なのだ。
 昔から変わらない。
 エルンストの家は代々律儀に王家に対して忠誠を尽くし、それ故に堅苦しいまでに王家の血の正当性と伝統に固執する一族だった。その一族の嫡男であるエルンストがまだ二十代の若造の頃、先王が健在であった平和な時代、エルンストと若き魔術師エテレインは親しい間柄だった。
 王位継承権争いが起きた時、エルンストは現王デュランにつかざるを得なかった。その為に二人は負ければ許されることのない争いの中で対立する立場となった。面白みのない生真面目だけが取り柄の男の心に、エテレインの失脚とその後の変転はどう映ったのだろうか。
 エルンストはいつものように、ハイマが望むであろう反応を示そうとはせず、再度拝礼すると黙ったまま下がっていった。
 老将軍は背中に魔女の忍び笑いを受けながら、奥の宮の長い回廊を歩いた。堪えようとしたが抑えきれず、視線が剣の台尻に埋め込んだ石に向かった。指先でそっと撫でる。深い湖のような青い石。体の奥底で、普段は決して近づくことはしない場所で、何かがきりきりと痛んだ。
「エテレイン」
 エルンストは、ふと立ち止まり、その名前をつぶやいた。
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