32.王子の行方

文字数 8,985文字

 翌日には、軽い食事が取れる程、回復した。
「何だ。死にかけていたわりには、立ち直りが随分早いな」
 ルックスが訪れて、半ば呆れたように言いながらも、喜びを表してくれたことに、フライハイトは心から感謝した。彼らが自分たちを迎え入れてくれ、手厚い看護を施してくれたことを、ヴァールから聞いていた。
「ああ、そうだ」
 ルックスが思い出したように振り返り、部屋の外にいる人物に声を掛けた。が、その者は中々姿を見せなかった。ヴァールと何かあったのかと思ったルックスが視線を向けると、ヴァールは無表情に肩をすくめてみせた。ルックスが、ドアから外へ顔を覗かせると、ヴェルフェルは小さな体を更に縮こませ、恐れ入ったような面持ちで突っ立っていた。老人は中へ入ることを恐れているようだが、逆に入りたい強い欲求もあるようで、その二つの感情の間で葛藤しているようだった。
「入れよ」
 ルックスは怪訝そうに言って、顎で中を示した。老人は言われて、一瞬激しい狼狽を見せた後、どこか困り果てたような顔でルックスを見つめた。そこには、普段対人用に被っている穏健な老人の姿も、その中に隠している本来の老獪で不敵な性質も、すっかり陰を潜め、ただおろおおろとしているのを見て、何がこの海千山千の老人をこれほど動揺させているのか、ルックスにはわからなかった。
 しばし躊躇していたが、結局は欲求に負け、ヴェルフェルはおずおずと部屋の中に入った。最初、ベッドの上に起きあがっていたフライハイトに視線をやり、ヴァールと親しいという事実を知った時に想像したのとは、全く違うと思った。一見近寄りがたい印象はあったが、朴直さと骨っぽさが感じられる、日向の匂いのする好人物だった。ふと、無条件に人を惹きつける何か、その容貌や雰囲気に、既視感を覚えた。老人は、それが何か捕まえようとしたが、記憶の奥底へするりと逃げてしまった。
 視線が合うと、フライハイトが不思議そうな顔をして自分を見たので、ヴェルフェルは挨拶代わりに笑ってみせた。フライハイトもそれにならう。素朴な反応だった。ヴェルフェルは、今度は本心から笑みを顔に浮かべた後、視線を泳がせた。そうして反対側のベッドに横たわる人物に目が止まった。
 老人の体が、鞭打たれたように大きく震えた。思わず逃げ出したくなったが、その衝動とは裏腹に、彼の足は引き寄せられるように、よろよろと魔術師の横たわるベッドへと近づいていった。そして、ヴェルフェルはベッドの傍へたどり着くと、ほとんど無意識にひざまずいていた。全ての思考が麻痺したまま、ぼおっとした瞳でエテレインを見つめる。老人に心の中には魔術師の存在しかなく、それ以外のものは消えていた。
 部屋にいた人々は、異様な気配に黙り込んだまま、老人を見つめていた。我に返ったルックスは、魔術師が目覚めているのに気づいた。最初、息を飲むような美しい蒼い瞳が、ぼんやりとしたままなのを見て、まだはっきりと覚醒していないのだと思い、次に、視力を失っているのだろうかと考えた。しばらくしてから、状況がいつまでたっても変化しないことで、ようやく魔術師の状態が正常ではないことに気づいた。
「彼は、その、どういう状態なんだ?」
 好奇心に負けて、ルックスはヴァールに訊いた。
「見た通りの状態さ」
 ヴァールは無表情のまま、そっけなく言った。ルックスは驚き、思わずフライハイトを振り返ったが、その顔に憂いがあるのを見て取り、ようやく理解する。
「おお……」
 放心状態だった老人が呻き、泣き声を上げた。ひとしきり涙にくれ、ようやく落ち着きを取り戻したヴェルフェルは、ルックスに助けられなければ、立ち上がることも出来ないほど意気消沈していた。がっくりと椅子に腰を下ろしたその様子は、さらに縮んでしまったように見えた。
 ルックスは、ヴェルフェルが三十年前の事変以前は真っ当な仕事についていて、その出自は高い家柄だったという仲間内の噂を聞いていた。事変後の処分により、長い歴史を持つ名家は取り潰され、一族のほとんどは処刑されるか、都から放逐されてしまった。そのため、ヴェルフェルは表の世界で生きることができなくなった。そうした経緯を考えれば、老人とこの魔術師は、過去何らかの因縁があったのだろう。
「ブロカーデに幽閉されていると、聞いていました」
 ヴェルフェルが震える声で言った。彼は魔術師がハイマに捕らえられた後、苛烈で残虐な仕打ちを受けた事を知っていた。ハイマはその無残な姿を、彼ら、第一王子を支持した者たちに見せることを好んだのだ。
 三十年前、ヴェルフェルがエテレインに最後に会ったのは、幽閉されるために都を出される日の数日前だった。その時、おぞましい拷問のために身も心も衰弱しきっていたが、それでも彼の顔を見とめた深い瞳に、理性はあったのだ。どれほどの屈辱を強いられても、その顔には誇りと気高さが残っていた。
 それが、今ここにいるエテレインには、何も無かった。内側の輝きも、外側の輝きも、全てが消えていた。虚ろな肉体だけが残されて、魂はどこにもなかった。何が原因なのか。最悪の時を乗り切ったのだと思っていたその後に、魔術師の精神を崩壊させる何があったのか。
「一体、この方に何が?」
 ヴェルフェルは嗚咽を漏らしながら訊き、視線をヴァールに向けたが、男は何も答えなかった。ヴェルフェルは答えを求めてフライハイトに瞳を向けた。男は生真面目に老人の視線を受け止めたが、辛そうに眉を寄せた。しばらく躊躇った後、労るように言った。
「知らぬ方がいい」
 フライハイトのその言葉で、ヴェルフェルはエテレインのこの三十年を理解した。ヴェルフェルは唇を噛みしめ、膝の上で固めた拳を震わせた。新たな涙が老人の頬を伝い落ちた。
 彼の家は代々、王子に仕える文官だった。普通の人として仕える者の常として、人知を越えた力を持つ魔術師に対し、そして、努力することもなく高い地位につけることに対し、快く思ってはいなかった。特に、同じ王子に仕えるエテレインは年齢も近く、類い希な美貌を持ち、そして魔術師としての異能を見せることがなかったせいで、無闇に反発していた。しかし、本当は、魔術師という属性に関係なくエテレインは優れ、それに驕らず努力を惜しまないことを知っていた。不器用な自分には無い、知性や才に舌を巻き、憧憬の念さえ抱いていた。ただ、それを認めることが出来なかっただけで。
 が、そうした感情の混乱は、事変によって消えた。彼らは運命共同体となり、魔術師はその中で、最も過酷な運命を背負わされることになった。その事で、ヴェルフェルのエテレインに対する感情は、彼の心の奥底に眠っていた素直なものに変わっていた。憧憬と畏怖と。
 ヴェルフェルは哀しげに魔術師を見て、長い、長い息を吐いた。少なくとも、今この時、魔術師は苦痛を感じてはいないのだろう、心も体も。それだけが慰めであった。
「で、これからどうするつもりだ?」
 ルックスがフライハイトに訊いた。この二人の行動の主導権はヴァールにあるのだと気づいていたが、ヴァールが質問に答えないことはわかっていた。だから、フライハイトに訊いてみたのだが、その問いに対し、男はかすかに肩をすくめてみせただけだった。その目には、自分もわからないのだという無言の答えがあった。
 その若草のような明るい色の瞳が、ルックスの問いを経由するように、ヴァールの方を向く。その瞳が自分に向いているとわかっていながら、ヴァールは視線を合わせなかった。が、しばらく沈黙を続けてから、ようやく口を開いた。
「もうすぐ戴冠式が行われるな」
 その部屋にいた男たちが一斉に頷く。
「王はこの数年、病に伏していて、もう長くはないだろうということは、誰もが予感している」
 再び男たちは頷いた。ただし、フライハイトを除いて。さすがに戴冠式の話題はブロカーデにも伝わっていたが、王が病んでいるとは知らなかったのだ。
「とはいえ、まだ生きている。王の存命中に戴冠が行われるのは異例だ」
 ヴァールの言葉に、フライハイトは、その何が異例なのかよくわからなかった。
「そうなんだよな。異例だ。大抵は崩御した後と決まっている。生前の場合は、何らかの理由で政を行う能力が失われた場合なんだが。しかし、今現在ハイマが実権を握っていることを考えれば、王が生きていようが死んでいようが関係ない。王が死んだ後は馬鹿王子が跡を継ぐわけで、そうなってもハイマが実権を持っているという状況は変わらない。だから、何も現王が生きているうちに、急いで戴冠式をしなくちゃならないという訳でもない。皆、そこんとこを、不思議に思っているんだよなあ」
 フライハイトが事情を飲み込めていないことを見てとったらしいルックスが説明する。
「だが、王が生きているうちに戴冠の儀を行わねばならない理由がある」
 ヴァールが静かな声で言う。
「それは?」
 フライハイトもルックスもヴェルフェルも、ヴァールを凝視した。
「王子さ」
「アングスト王子が?」
「彼は今、ある疑いを掛けられている」
 ルックスが、ははんという顔をした。
「“偽物説”というやつか」
「さすがに事情通だな。そう、アングストは偽物ではないかという疑惑だ。これは宮廷内部で囁かれている噂だが、噂として見過ごすには、問題が大きすぎる。だが、王自身が、今いる王子がアングストだと宣すれば、それに異を唱えることは誰もできない。これ以上の証人はいないからな。むしろ、王しか証人にはなれない。つまり、戴冠式とは、王が王子を真正と認めることに他ならない。だから王が生きているうちに、戴冠をしてしまわなければならないのさ」
「待てよ、あんたの“今いる”というその言いようは、まるでそいつが偽物と断じているようだぜ」
 ルックスが無意識に声をひそませて言った。ヴァールは無表情のまま身じろぎもしない。
「……もしかしてそうなのか?」  ルックスが身を乗り出す。
「そうだ。アングストは死んでいる」
「確かなのか」
「確かだとも。ミーネが、奴が、王子を誅殺したのだからな」
 男たちは息を飲んだ。夏にあった騒動で狙われたのはアングスト王子だった。だがそれは失敗に終わり、ヴィーダーは軍により殲滅されたというのが巷に広がっている話だった。
「俺はこの目でそれを見たし、死体を確認もした」
 計画では王子の遺骸を都に晒すことになっていたが、そこまでは出来なかった。が、アングストが死んだことは間違いようのない事実だ。しかし、死んだはずのアングストは、今も唯一の世継ぎの王子として存在している。
 ミーネたちは、王子の死が秘され、いまだに存在していることになっても、驚きはしなかった。遺骸を晒せなかった時点で、王子の死を世に知らしめるという目的が達成されなかったからだ。もっともヴァールは当初から、例え王子の遺骸を晒したとしても、ハイマはいかにでもできただろうと考えていた。彼女は、決して王子の死を認めはしない。ただ、魔女が消し去ろうとした事実は、腐りつつある王宮の奥深い場所から、腐臭のように漂い出て、広がっていた。
「つまり、今いる王子は、やはり偽物ということか」
 ルックスが上擦った声で言う。それが事実なら、唯一の世継ぎがいなくなったということだ。デュランが死ねば、彼の血筋は絶える。となると、次に王位を継承できるのは、反逆者として社会的に抹殺されたデュランの兄王子ファステンに他ならない。たとえ、不義の子であるという烙印を押されていても、三十年前に、王の血筋ではないことの証明がなされなかったように、不義の子であることを証明する手だてもない。残された唯一の血筋であるならば、それを否定する力は弱まるだろう。そうなれば、ハイマは破滅する。決して、魔女はそれを許さないだろう。例え、赤の他人を王子と偽って王位につけてでも、それを阻止するに違いない。
 考えを巡らせていたルックスが、はっとした。では、こうしてヴァールが危険を冒して魔術師を都へ連れて行こうとしている訳は一つしか考えられなかった。魔術師と王は、一つの運命共同体であり、対のものなのだ。
「つまり、ファステン王子は、生きているということなのか?」
 ルックスの言葉に、ヴェルフェルが驚愕をあらわにした。ルックスもフライハイトも、ヴァールを見る。ヴァールは答えようとせず、視線を誰とも合わさず、それを魔術師へと向けた。
「ヴァールッ」
 ヴェルフェルが焦れたように叫び、ヴァールの腕を掴んだ。しかしヴァールは無表情の口を開こうとはしなかった。そこで、あることを思い出した老人の顔が慄いた。
「そうかっ、地下迷宮か。あそこに、あの方がいらっしゃるのか?」
 ヴェルフェルは、わなわなと震えながら言った。三十年前の事変の後、第一王子ファステンの行方はわからなくなった。その当時、様々な噂が流れたが、その一つに都の地下に広がる迷宮のどこかに幽閉されている、というものがあった。その噂はこの三十年の間、少しずつ草臥れつつも、半ば伝説のように生きながらえていた。すでに王子は死んでいて、その魂が都の地下を彷徨っているとも、まだ生きていて、幽鬼のような姿で歩き回っているとも。噂が事実である可能性に、ヴェルフェルは衝撃に半ば自失していた。
 そんな老人の様子を見ていたルックスは、ファステンが生きているとしても、たいした感慨は覚えなかった。彼にしてみれば、三十年前はまだ幼い幼児であり、自分の知らない過去の出来事に過ぎない。例え、自分の父親がその事変で処刑された側であり、家屋敷を奪われた母親が、娼婦に身を堕として失意のうちに死んでいったのだとしても。いつまでもそれをよすがにして、かえって惨めになるような過去など、捨ててしまった方がよほど良いことを、悲嘆のために命を落としたような母親から学んだ。
 そのため、ヴェルフェルはともかく、自分よりも年若いヴァールが、三十年前に始まった過去の出来事に執着していることが奇妙に思えた。そう思いながら、この男を駆り立てる衝動の由来が何であるかに興味を惹かれ、そして、にわかに黴臭い過去が現在に現れ、奇妙な輝きを放ち始めたことに、興奮を覚えていた。
「で、これからどうするんだね?」
 ルックスが、最初の質問を繰り返した。
「彼をつれて都へ行く」
 ヴァールの視線はまだ魔術師にある。
「つれていってどうなる?」
「ミーネは戴冠式を狙っている」
「そうか、ミーネか。奴が王子をお連れするというわけか! 始まりの部屋へ!」
 ヴェルフェルが興奮したように叫んだ。王子ファステンの運命が狂ったのは戴冠式だった。それを元に戻すのも戴冠式だというのは、いかにもミーネらしい。始まりの部屋、自分たち負けた者がいつしか戴冠の間をそう呼ぶようになった。それは、全てが始まった場所であり、全てが終わった場所だった。しかし、その始まりの部屋で運命を修正する気なのだ、と老人は思った。今ある全てを終わらせ、全てを始めるために。
「あんたも? あのお方を戴冠式に連れていく気なのか?」
 ルックスが問う。ヴァールは答えなかったが、ルックスはそれを肯定と受け取った。
「しかし、どうやって? 都は戴冠の儀で警戒が物々しい。俺たちでさえ、仕事には慎重にならざるを得ないんだぜ。ま、稼ぎ時でもあるけどな。でも、自力で動くことのできないあの方を連れては、とうてい宮殿の最奥にある戴冠の間には乗り込めまい?」
「いやいや、意外にそういう時の警備というのは物々しい反面、統率されていて、動きが判りやすいものなのだ。それも、前もってな。何より、軍や警邏隊の中には、ミーネに協力するものも多い」
 黙ったままのヴァールの代わりに、先刻までの憔悴ぶりとは打って変わって、逆に若返りでもしたかのように生き生きと老人は言った。
「それにしてもな」
 と、ルックスは納得しかねて首を捻った。ヴェルフェルが再び、瞠目したように目を見開いた。
「そうか、地下か。やはり地下なんだな。あんたが私を使ったのは、それか」
 ヴェルフェルは一人心得顔で唸った。
「ああ、なるほどな」
 ルックスは合点した。ヴァールとヴェルフェルとは知己であると聞いていたが、どこでどう繋がりがあったのかまでは知らなかった。
 まだ二人が都にいたころ、ヴァールがヴェルフェルに何度か仕事を依頼したことがあった。ヴェルフェルは今でこそ引退していたが、数年前までは現役の盗賊だった。地下という言葉を聞いて、ルックスは老人が自分たちにももたらした地下迷宮の構造を調べた古文書を、盗み出させた者こそ、ヴァールだったのだと理解した。
 地下に広がる迷宮は、その名の通り、今も完全には解明されていない。しかし過去に何度か調査がなされていて、一部分の構造が明らかになっていた。ただ中心部から都の大部分、さらには郊外までの地下に広がる大規模な地下迷宮は、その構造が流布されると警備上、甚だ厄介な物である故に、資料は厳重に管理されていた。が、かつて王宮内部にいて、国の重要な文書類に精通していたヴェルフェルだからこそ盗み出すことに成功したその資料により、彼らも多大な恩恵を得ることができた。
「あんたは古文書を手にいれた後、自分であの迷宮を調べていた。では、王宮に近づけるルートを見つけたのかね?」
 ヴェルフェルが訊いた。ヴァールはようやく、はっきりとした肯定の印として頷いてみせた。
「ああ。黒の扉の脇に出るルートをな」
「なんと」
 ヴェルフェルは驚き、呻いた。黒の扉は戴冠の儀が執り行われるためだけの、特別な間に繋がる唯一の扉なのだ。
「しかし、扉の向こうへ入れたとして、それからどうなる?」
 ルックスは盗賊の頭目らしい慎重な口調で言った。黒の扉の向こうはすぐに戴冠の間というわけではない。長い回廊が間にあるのだ。無論、そこはさらに厳重に警備されているはずで、簡単に通り抜けられるはずもない。そしてそれをやり過ごしたとしても、その先はどうなるのか。第一王子は未だ生死も定かではなく、魔術師は脱け殻でしかない。果してミーネの言う正しい世界など、そこから開けるものなのか。
 ルックスの問いに、ヴァールは黙ったままだった。それはこれまでの、答える気がないという沈黙ではなく、そもそも答えがないからなのだとフライハイトは悟った。そこから先はどうなるのか、誰にもわからない。
「行くしかないだろう?」
 フライハイトが言った。驚いたようにルックスが彼を見る。ヴァールも少し目を見開いてフライハイトを見た。
「何だ。もっと用意周到なのかと思ったら。行き当たりばったりなんだな」
 ルックスは呆れたような顔をしてみせながらも、鷹揚に笑った。フライハイトも笑う。確かに、そのような無計画さは、いかにもヴァールらしくない。しかし、彼はそうせずにいられないのだ。その心に秘めたものが何であるか、フライハイトにはわからなかったが、無謀ともいえる賭けに運命をゆだねたい衝動が、ヴァールにはあるのだ。たとえそれがどんな結果を導き出すとしても。
 フライハイトにとって、残された道は二つに一つだった。行くか、行かないか。ヴァールが行くというのなら、フライハイトはそれを助けたかった。例えそれが困難で危険であっても、むしろそうであるが故に。自分に残されたものは、ヴァールとそしてマクラーンの魔物だけであり、その二つがまるで引き寄せられるように、一つの流れの中にあるのであれば、自分もまたその流れの中に身を投じたいと思った。その先に、何があるかわからない。けれど、進むしかない。そもそも、人生というものは、そういうものなのだろう。その中でできることは、己の感情に素直にしたがうことだけだった。

 急激な病だったたせいか、その肉体は一時的に生命の危機にさらされはしたものの、致命的なダメージは受けておらず、数日のうちにフライハイトはすっかり体調を取り戻した。
 その数日のうちに、フライハイトは彼らとうちとけた。彼らの厚遇に甘えたわけではないが、どうしても確かめずにはいられず、フューレンのことを話し、その安否を調べて欲しいと頼んだ。ルックスは快くそれを引き受けてくれ、その日のうちに調査の結果を知らせてくれた。それによると、剣士は軍兵に囲まれたがまんまと逃げ出し、そのまま雲隠れしてしまったという。対外的には父親が高位の軍人であることを慮ってか、脱走兵でなく、軍務違反を問われ、行方を捜索されているが未だ不明のままという話だった。その父親は責を問われてか、或いは自らの意思でか自宅待機処分となっていた。ルックスの配下の調べによると、フューレンは都に戻ってきてはいるようだった。
 とりあえず、生存していることが確認されたことで、フライハイトは安堵した。生きていればまた会うこともあるだろう。
 戴冠の儀まで、すでに時間に猶予がないこともあって、早々に村を出発することになった。都までの道程のトラブルを未然に防ぐためにと、ルックスは手練の二人の手下レヒトとリンクをつれ、自ら同行してくれた。手助けをしたいという義侠心からと言うより、どちらかというと、これから起こる事態に単純な興味を持っての行動だった。
 ヴェルフェルも一緒に行きたいと望んだ。ルックスは最初渋ったが、老人の心情がわからぬでもなかったし、止めてもきかぬことは明白だったので、許した。ただ、互いの動きやすさを考えて、別行動をとることになった。
 都への道程は、この国の隅々まで知り尽くしている野盗の案内によって、普通の生活を営んでいる人間には知られていない道や、抜け道を進むことによって、多くの危険を回避することができた。また、彼らの仲間の中でも、特にルックスの信用にたる人々の手を借りることもでき、様々な情報と体を休める安全な場所を確保することができた。
 彼らは着実に都に近づいていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み