8.運命

文字数 12,176文字

 「当番」の前日もフライハイトはいつものように仕事の後、誰もいない体術の修練場で汗を流した。
 彼にとって鍛練はただ単に肉体を鍛えるためのものではなく、必ずこなさなければならない日課になっていた。体調を整えるだけでなく、心もまた鍛練によって整えられていくからだ。
 フライハイトはゆっくりと体を動かしていた。体の動きに合わせて空気がゆるりと流れるのを感じる。同時に己の体を伝わっていく力の動きに集中する。筋肉と骨と神経を渡っていく力の流れを意識する。全てのものは一定の流れを持っている。体術はその流れを見極めることであり、自分の体の中の流れをコントロールすることだと、彼に教えたのは父親だった。
 フライハイトが体術を学ぼうと決めたのは、ヴァールの事件があった後だった。まだ十才にもなっていなかったために、母親は幼い子どもを持つ世の全ての母親の倣いとしてそれを嫌ったが、父親は何も言わなかった。が、年齢のために体術の訓練には正式に参加させてもらえなかったので、大人たちの見よう見真似で型を習得した頃、父が稽古をつけてやると言いだした時には驚いたものだ。
 それまで父親を修練場で見かけたこともなければ、体術が使えることも知らなかった。しかし、父から指導を受けるにしたがい、幼く未熟なフライハイトでさえ、彼が修練場のどの男たちよりも優れた武術を身につけていることがわかった。不思議に思い、尋ねても、その理由を父は語ろうとしなかった。
 日頃から寡黙な父は言葉少なく、大抵は体を使って、早朝、仕事に行く前に少しずつ体術を教えてくれた。そして技だけでなく、体術という武術に関する考え方や思想のようなものもフライハイトに伝えようとした。体術は様々なものの流れを見、知ることなのだと、体術は「強く」なるためのものではなく「知る」ためのものだと、父は繰り返した。
 「強さ」を求めていたフライハイトは、最初はその意味を理解できなかった。やがて修練を続けるうちに自分の体の中に一定のリズムがあることに気づいた。そして自分の周囲の人や動物や自然の中にもそういったものがあることを、(おぼろ)げに感じるようになった。「流れ」を感じるということが「知る」ということなのかと考えたが、そのころには、既に父はこの世にはおらず、確かめることは永遠に出来なくなった。
 彼の父は謎めいて不思議な男だった。あれだけの技術を持ちながら、何故か村の体術訓練には一切関わらず、また誰もそのことを知らないようだった。リンドさえも。寡黙で物静かで、超然としていて他人と交わることをしなかった。村の大人たちの方も彼に対する態度にはどこか遠慮のような疎遠なものがあったことをフライハイトは子ども心に感じていた。そして彼自身も父に愛情と憧憬を覚えながら、その存在をどこか遠くに感じることがあった。
 ゆっくりと筋肉を動かす。傾いていく陽の光を皮膚に感じ取る。頭の中に幼いころに刻みつけ、何度も再生した型取りをする父の姿が鮮明に蘇る。フライハイトはその姿を追っていた。もしも、自分が大人になるまで生きていてくれたなら、もっと多くの事を教えてくれただろうか。今はこうして体術でしか、彼に近づくことはできなかったが。日々の修練は父を思い出すため、父に近づき、理解するためのものかもしれないと、思うこともある。
 仕事が終わり、疲労した体で鍛練をすることは苦にならなかった。それは流れの乱れを直し、整えていく作業だった。体だけでなく精神も同じように平らに(なら)していくのだ。そうやって今の自分を知る作業でもあった。
 が、時にはいくら繰り返しても心のざわめきがおさまらない日もあった。今日のように。そんな日は自分だけでなく、周囲の空気までいつもとは違う波長を持っているような気がした。それは何かの前兆にも似て、彼の心を不規則に乱した。一時間程黙々と鍛練をしたが、かすかな苛立ちに似た気配は消えなかった。
 いつものように終わりごろを見計らってやって来たリンドの誘いは断った。翌日の当番のことが頭の隅にあったこともあるが、それ以上に最近神経質なフェルトの事が気になった。リンドは断られても気にすることもなく、ロイエまでの道を同行した。
 ロイエの手前でわかれる際に、リンドがふと思い出したようにフライハイトに声を掛けた。
「クラウスを見かけなかったか?」
「クラウス? 午前中なら畑にいるのを見たが」
 クラウスは通りを挟んだ向かいに住む男だった。少し陰気で気むずかしく、フライハイトが、というよりクラウスの方で彼に打ち解けようとせず、挨拶程度はしても顔見知りという以上のつきあいはない。ただ二人の男の妻は幼いころからの親友同士であったので、フェルトを通して、エレーナの話とその家庭の様子はよく聞いていた。
「昼に飯を食いに家へ戻った後、どこかに行ってしまったらしいんだ」
 リンドの説明に、フライハイトは無言のまま続きを促すように師を見つめた。
「それが、さっき畑に道具を起きっぱなしにしてるのを見つけたニックが、それを届けに奴の家へ行ったんだが、扉を叩いても返事がなかったそうだ。夫婦で出掛けてるんじゃないかということなんだが」
 リンドが言葉を切った。ふっと、それが匂った。一瞬だったが、今は森の奥に置かれている筈のものの匂いだとフライハイトは思った。時折、風に運ばれてくることがあったが、いつもよりその臭気が濃かった。
 リンドは、少し考えるような顔つきで首を捻った。
「まあ、いいか。多分、急用で出掛けているんだろう」
 じゃあな、と言って手を上げ、リンドはロイエへ行った。ふいにフライハイトは何か声を掛けたくなったが言葉が出ず、結局その不自然に揺れる背が遠くなるまで黙ったまま見送った。小さくなる体が以前よりも重量感を失っているのを見て、師の肉体にも老いが訪れはじめているのを感じた。リンドを追うようにして冬の気配をかすかに乗せた風が地面の低い場所を吹いていった。
 晩秋の黄昏は自分のような無骨な男にも多少の感傷を誘うらしい。フライハイトは理由の定かでないぼんやりとした不安を感じている自分に気づいた。そうした気持ちを振り払ってフライハイトは帰路につきながら、リンドの言葉を考えていた。腑に落ちないものを感じる。このブロカーデで、誰も理由のわからない「急用」などというものはない。日常とは違う行動を取る理由があるとすれば、村の誰かが知っている。どこにも寄らず、散歩でも続けていない限り、誰も行方を知らないということはあり得ない。
 多分、クラウスは年に一度の当番が終わったことで、開放的な気分になり、夫婦で少しいつもとは違った時間でも味わっているのだろう、と思ってみたが、納得はできなかった。それどころか、心にわだかまる奇妙な不安が増していくのを感じる。
 どうかしていると思った。明日の当番のことでやはり神経が過敏になっているのかもしれない。毎年、毎年、魔物に会う時期になると自分の中で何かがざわざわし始めることを、もしかしたらフェルトは勘づいているのかもしれない。ちらりと青い瞳の記憶が脳裏を過り、いつものようにフライハイトは瞬時にそれを追い出した。
 取りとめもない感情を心から追い出して、家路を急いだ。しかし、自分の家が見えてくると、いつもなら安らぎと慰めを感じるはずが、いっそう強く不安が湧いてきたのは、再び魔物の「食事」の匂いが鼻をかすめたからだ。ひどく落ちつかない気持ちになった。
 向かいのクラウスの家に、灯がともっていなかった。反対側の自分の家、妻と息子が待つ家は暖かな灯の色で周囲の闇を照らしている。ほっと心が和む色彩が、逆にクラウスの家の闇に溶け込んだような静寂との対比を際立たせている。その家を覆っている闇は、夜の色と気配よりもなお密度が高いように見えた。
 ふいに何かの気配を感じてフライハイトは振り返った。しばらく見つめた薄闇の中に、動くものはない。視線をクラウスの家へ戻し、眉をひそめた。もしかしたら、クラウス夫婦は出掛けているのではなく、自分の家にいるのかもしれない。何か不測の事態に見舞われているのかもしれない。念のため、クラウスの家の扉を叩いてみたが、中で誰かが動く気配はなかった。家の周囲をぐるりと回ってみたが、カーテンの閉じられていない窓から見た家の中に人の気配はなかった。玄関まで戻って、暗い家を見上げる。また少し匂いを感じて、フライハイトは身震いした。
 すぐに、村長の家へ相談に行った方がいいかもしれない。そして、フライハイトは軽い衝撃を覚えた。
 何故なら、村長の家がどこにあるのかわからなかったからだ。それはひどく奇妙なことだった。確かに今まで一度として村長に会いに行ったことなどなかったが、その家を知らないとは、どうかしている。それどころか思い出そうとしているうちに、その村長の姿すら記憶の中で曖昧なことに気づいた。普段、その存在を意識することがなく、つきあいがないとはいえ、村の集まりや行事では必ず顔を合わせている。その筈だったが、最後に村長を見たのはいつだったか思い出せなかった。
 しかし、何かがひどくおかしいと感じながら、その理由がすでにフライハイトの中からは消えていた。後には正体のわからない不安だけが残された。何をしようとしていたのかも忘れ、狐につままれたような気持ちで自分の家へ向かった。
 扉を開けようとして、再びフライハイトは戸惑った。何故扉が開かないのか、すぐに理解できなかったのは、この村で扉に鍵が必要だったことなどなかったからだ。フライハイトは無意識にクラウスの家を一度振り返り、再び自分の家の閉ざされ、主を拒んでいる扉を見つめた。神経が過敏になっているフェルトの不安が高じたためかと考えたが、彼自身、胃の腑に重いものがたまってくるのを感じていた。
 持ち慣れない不安感が出口を求めてフライハイトを一瞬強く揺さぶり、衝動的にそのドアを打ち叩こうとした。が、腕を振り上げた時、屋内から人の気配が近づいてくるのを感じた。そのリズムが妻のものとわかったので、少し安堵し、待った。
 閂の外される音がして、ひどくゆっくりと扉が開く。それは何かを恐れるように、人の顔が半分覗く程しか開かれなかった。その細い空間から妻の顔が現れた。その顔にある陰が後ろにした灯のせいだけではないことにフライハイトはすぐに気づいた。
 強張ったような顔つきに曖昧な表情を浮かべているフェルトの瞳に激しい動揺が浮かんでいた。その瞳は夫を見るなりみるみる潤み始め、大粒の涙をこぼし始めた。フライハイトは自ら扉を押し開き、妻の膨らんだ腹部に気を遣いながらその体を抱きしめた。家の中には濃厚な花の香りが満ちていた。が、その中にブロカーデの人間なら馴染みのある忌まわしい匂いを嗅ぎ取った。それはまるで、マクラーンから運ばれてきたもののように思えた。
「何があった?」
 おこりが起こったように震え始めたその体が答えるよりも先に、リビングに続く廊下の先に見慣れぬ数人の男が立っているのを見た。フライハイトは背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。それを追うように熱いものがどっと全身に流れ込む。
「坊主は?」
 妻を抱いたまま、問いというより唖然とした声で(うめ)くように言った。フェルトの体がいっそう激しく震えた。その震えはフライハイトの胸を激しくかき乱した。そっと、けれど断固とした動きで妻の肩をつかんで自分の胸から引き離した。そしてその体を庇うように自分の後ろにし、リビングへと向かった。後ろからフェルトのしゃくり上げるような声が聞こえた。
 フライハイトが廊下を進むと、招かれざる客たちは合わせるように後退したが、それはフライハイトの気配に圧倒されたわけではなく、彼をリビングに招き入れるためのようだった。近づくにつれ、匂いが彼らから漂っていることがわかった。
 リビングには廊下にいた二人の他、白っぽい髪の男がソファーにゆったりと座っていた。フライハイトはすばやく部屋を見渡してバルトを探したが、その小さな姿はなかった。
「君の息子なら眠っている」
 ソファーの男がひんやりとした声で言った。フライハイトは男を見た。白っぽいブロンドと痩せて尖った顔にある深い皺ののせいで年齢は判然としない。暗い色調の瞳は、色そのものよりも見るものを不安にさせるものがあった。それはひどく人間味を欠いた無機質な瞳で、深い井戸の底に映った月のように、奥深い場所で仄かに冷たい光を発していた。
 その目で見つめられると、体が冷えるような気がした。しかし、危険を感じさせる冷たさは、バルトを案じる気持ちを煽り、彼の中に熱い怒りを産んだ。フライハイトの詰問する厳しい瞳に促されたのか、男はかすかに笑った。
「穏やかに眠っているよ、今のところはね。心配なら見てくるといい」
 言われるまでもなくフライハイトはリビングを横切り、息子の眠る部屋の扉を開いた。中は暗闇だった。その暗さにフライハイトは強い不安と恐怖を感じた。クラウスの家を覆っていた深い闇の気配を思い出す。
「ただし、見るだけだよ」
 ミーネがソファーに座ったまま言った。
 中の様子が見えるよりも早く、部屋の中に子ども以外の人の気配があるのを感じた。フライハイトは息を詰め、目を()らして闇を見据えた。リビングから差し込む光を何かがちかりと反射した。それはベッドにいる男が持っている短刀が返した光だった。その切っ先が眠っているバルトの細い首筋に押し当てられているのを見て、愕然とした。激しい怒りが吹き上がり、男に飛び掛かりたい衝動が起きる。が、フライハイトは瞬時に自分の動きと、それを見越している男の動きのどちらが早いかを考えた。そして自分の迂闊な動きによって、バルトの小さな命が断ち切られてしまう方が早いことと、彼らはそれを躊躇しないだろうということを見て取った。
 男はフライハイトが状況を判断したのを読み取って、ナイフを少し退けた。それでもフライハイトより、ナイフは幼子に近い場所にある。その距離をフライハイトも男も承知していた。
「かけたまえ」
 後ろからミーネが命じる声が聞こえた。主導権を握った者の声だった。そうすることに慣れた声だった。フライハイトは幼い息子の小さな体を見つめながら乱れた息を整えようと努力した。冷静になるよう己に命じながら、彼は言われたとおりにした。フェルトは部屋の隅に置かれた椅子に座らされた。その足元に赤い花の入った籠があった。青を深くするために加えられる染料となる花だった。その背後に男が立った。
 フライハイトは部屋に立ち込める花の香り以外の異質な匂いを嗅ぎ取った。その鼻を刺激する匂いには覚えがあった。洗剤の独特の匂い。当番でマクラーンへ行った者に染みついた匂いを中和させる溶液の匂いだ。そして、その洗剤で洗ってさえも尚、消しきれない腐敗と血の匂いが男たちの体から匂っている訳をフライハイトは訝った。それは余所者がさせる匂いではないはずだった。
 それとも、彼らは魔物の住む場所からやって来たのだろうか。
「驚かせて申し訳ない。ナイフで脅す必要はなかったのだがね。ただ状況をわかりやすく理解してもらうための演出だったのだよ」
 ミーネは言って、口の端だけをくいと上に上げた。その奇妙なものは笑みとは言えない不快なものだった。演出だという言葉をフライハイトは(おぼろ)げに理解していた。この状況下で息子が静かに眠っていることが不自然だとわかっていた。彼らがバルトに何かをしたのに違いない。それが何であるかを考えると、どうしようもなく胸が騒いだ。
 それでもフライハイトが黙っていると、ミーネはしげしげと彼を見つめ、考え込むような顔をし、ふいに俯いて笑った。顔を下に向けたまま上目づかいにフライハイトの顔を見つめたその瞳は意味ありげで、ひどく人を不快にするものがあった。
「薬で眠っているのだよ。大事はない。が、その眠りはとても深い。とてもね」
 フライハイトの疑念を察したのだろう、ミーネは静かに言った。しかしその目は声音程に穏やかではない。緩い笑みを浮かべたまま自分を見るその冷たい暗緑色の瞳にフライハイトは胸騒ぎをかき立てられた。それは、自分の命の一部のような息子が傷つけられ失われるかもしれないという予感だった。
「心配することはない。目覚めさせるためには別の薬が必要になるのだが、君の行動次第で、それは君のものになる」
 ミーネはさも簡単なことだというように言った。その眼はフライハイトの心の動きを見透かし、そして、それを面白がっているようだった。
「何が、目的だ」
 フライハイトの声は高ぶる感情に(あお)られ掠れていて自分の耳にも不安げに響いた。
「簡単なことだよ。我々を運んでくれればいい」
 何処へ、と訊くまでもなく、フライハイトは瞬時にマクラーンのことだとわかったが、ミーネは促されるまでもなく続けた。
「魔物の所へ、我々を案内してもらう」
 背後でフェルトが息の詰まったような声を上げた。「魔物」という言葉を聞いて、彼女の中で何かが割れ、そこから言葉が溢れてきた。
「どうしてなの? 何故こんなことをするの? 魔物の所へ行きたいのなら、勝手に行けばいいじゃない! 誰も止めはしないわ!」
 フェルトが叫ぶように言った。
「君たちは、本当に何も知らないのだな」
 ミーネが哀れむような眼差しでフェルトを見て言った。
「門の鍵のこと? それなら村長に言えばいいことよ」
 そう言ったフェルトの声は勢いを失い、自信なさげだった。マクラーンへ通じるただ一つの門の開閉は、村長の許可が必要だった。よそ者にその許可が下りるのかどうか、わからなかった。そもそもこれまで、「当番」以外の人間が、ましてや村の外から来た人間がマクラーンへ行こうとしたことなどなかった。ミーネのひんやりとした眼差しに、怒りの炎は消え、代わって得体の知れない不安と恐れが心に満ちてきた。
「何故、お前たちはマクラーンのことを知っているんだ?」
 妻の動揺する気配に胸をかき乱されながらフライハイトは抑えた声で訊いた。ミーネの目が細められる。男は首を少し傾げて、フライハイトをじっと見つめた。
「君がよく知っている人間に、だよ。フライハイト。彼が全て、教えてくれた」
 聞くまでもなくフライハイトは予感していたが、落ちてくるとわかっている岩を受け止めた時のように、答えを知っていても衝撃が減るわけではない。しかし、はっきりしたその答えで、彼らの正体が朧げながらわかった。
「ヴァールなのね」
 フェルトが言った。その低く、静かな声にフライハイトははっとした。抑揚のない声の向こうに、憤りと憎悪があった。彼女の声の響きには、かつてヴァールに向けられていた村人たちの感情と同じものがあった。彼女は違う、ヴァールを傷つけるあの頃の大人や同じ年頃の少年たちとは違うのだと思っていたフライハイトは、その声に愕然とした。振り返ると、彼の妻は血の気の引いた唇を強く噛みしめて、じっと床を見つめていた。涙で濡れた瞳は怒りと憎しみでぎらぎらと光っていた。
 ヴァール、それが答えなのだ。彼女も村の人間たちと同じく、ヴァールという言葉だけで全てを理解してしまう。マクラーンの魔物と同じく災いを宿す者の名前だけで、起こった全てのことの答えだと決めつけてしまうのだ。
 それとも、本当にこの災いに、ヴァールは関わっているのだろうか。
「あいつは、どうしている?」
 無言のまま自分を見つめてくる男の色の無い顔にちらりと感情が(よぎ)ったのをフライハイトは感じた。これまで男が作っていた表情は全て、わざとらしく作為的なものだったが、その時一瞬現れて消えたものは本物の感情のように思えた。それがどのようなものかは、わからなかった。
「君は従うしかないのだよ」
 フライハイトの問いには答えずに、ミーネは部下に視線で合図した。フェルトの後ろに立っていた男が彼女の腕を掴み、立ち上がらせた。それを見たフライハイトが反射的に腰を上げる。
「動かないことだ。彼女にもしばらく眠ってもらう。身重の体にはその方がいいだろう。精神的な負担はよくない」
 言葉とは裏腹に、妊婦に対する配慮などその声には全く響かせないで、ミーネは冷淡な声で言った。
「彼女に手を出すな」
 フライハイトが厳しさを含んだ静かな声で言った。その声に自然に人を従わせる威厳があることにミーネは少し興味を覚えながら、首を横に振った。
「君に選択権はない。妻と子どもが大事ならば。そんなに心配することはない。我々は必要なものを手に入れたいだけだ」
「必要なもの?」
「それとも、可愛い坊やをあのまま、永遠に眠らせてしまいたいか?」
 フライハイトの問いを無視して軽い口調でそう言ったミーネを強い瞳で見つめ、拳を握りしめたが、内蔵が焼けるような怒りを表情には出さなかった。
 ミーネの言葉に抵抗する気力を失い、男たちに連行されるまでもなく、自らバルトの部屋へ行こうとするフェルトにフライハイトは歩み寄った。ミーネの部下が二人に間に割り込もうとしたが、その動きは強いものではなかった。二人が抵抗することはないと、既にわかっているからだ。
 フライハイトは男を押しのけ、妻の体を抱きしめた。細い体の震えを受け止めると、胸がひどく痛み、息が止まりそうな程の憤りを覚えた。彼はそれが外へと吹き出そうとするのを辛うじて抑え、妻のすべらかな額と細い鼻先、頬、唇に優しく口づけて、その瞳を見つめた。
 寡黙な夫が感情を波のように静かに寄せてくるのを感じると胸が熱くなり、フェルトは再び泣きたい衝動に駆られた。夫を安心させるために彼女は何とか笑ってみせた。
「目が覚めたら、全て終わっているかしら」
 妻の囁くような問いに、フライハイトも優しく微笑んで、顔に落ちかかる亜麻色の髪をかきあげてやった。
「終わっている。全て、元通りに。だから、何も考えずにおやすみ」
 フェルトは頷くと、夫を見上げ、その唇に口づけた。大きくて暖かなフライハイトの体から離れると、不安と心細さに小さな少女に戻ったような気がした。
 息子の眠る部屋に入ると、彼女は母親である自分を取り戻した。息子に触れる間もなくベッドの横に置かれた安楽椅子に座らされる。彼女の幼い息子が飲んだのと同じ水溶液が入ったコップを渡されて、フェルトは躊躇(ためら)うことなくそれを飲み干した。少しでも息子の近くへ行けるような気がした。フライハイトがいれば大丈夫なのだと信じることにしていた。
 彼がきっと何とかしてくれると、信じた。
 眠りはゆっくりと訪れてきた。朦朧(もうろう)とする意識の中でフェルトはぼんやりと考えた。
 これも、ヴァールの復讐なのだろうか。
 彼が自分を憎んでいることをフェルトは知っている。恐らく、自分が産んだ息子のことも憎むだろう。
 体から力が抜けていく。肉体の感覚が遠ざかるにつれ、恐れや不安も鈍くなっていく。記憶がゆらりと揺れて、過去へフェルトを誘った。
「怒っているんでしょう?」
 そう言うとヴァールは独特の歪んだ笑みを口の端に浮かべた。その黒い瞳にはひどく冷たいものがあった。そうして侮蔑を見せながら、その内心に隠そうとしても完全には隠しきれない怒りがあるのをフェルトは敏感に感じ取っていた。そして自分がそれを感じていることを知って、ヴァールがさらに激しい憎悪を覚えていることも。
「お前はつまらない人間だ」
 ヴァールは平静を装って言ったが、フェルトには負け惜しみのように聴こえた。
 彼の存在と、彼の声と、その感情が自分に向けられていることに、まだ何もわかっていない幼い頃に埋め込まれた恐れからくる脅えを、フェルトは必死で打ち消した。ヴァールを恐れることはないのだ。彼はただの人間だ。それも、自分に負けて怒っている惨めな人間なのだ。
「つまらない人間で結構よ。だって、あなたにとって、他人は皆つまらない人間なんだもの。フライハイト以外はね」
 彼女の言葉にヴァールの目が笑ったように細められた。しかし笑っているのではない。
「でも彼は、私を、選んだの」
 フェルトは自分の声が勝ち誇っているように響くのを意識していた。
 自分を(にら)むヴァールの瞳に一瞬炎のようなものがめらりと燃えたように見えた。黒い色をした炎。フェルトは思わずたじろいだが、意外なことにヴァールは視線を()らすように足元へ落とした。少しうなだれたその様子を見ると、恐れは消えたが、逆に落ちつかない気持ちにさせられた。ヴァールがどれほどの打撃を受けているのか、初めて強く実感したのだ。それを知っているのは自分だけだということも、わかっていた。
 かすかな憐憫が起きはじめた時、ヴァールがふいに視線を戻した。その瞳を見た時、彼を哀れむ気持ちは瞬時に消え去った。そこには強い怒りと憎悪があった。その瞳で人を殺せないかと願っているような強い視線だった。
 フェルトは恐れ(おのの)きながら、けれどその瞳から目をそらさなかった。ヴァールが思うのと同じ強さで彼を憎んだ。そうしなければ負けてしまいそうだった。
 ヴァールにとってフライハイトは特別な存在なのだ。フライハイトだけが、ヴァールが本当に望んでいるものを与えることが出来る。けれど自分が自然にヴァールに与えているものを、フライハイト自身は自覚していなかった。ヴァールがどれほどそれを必要とし、焦がれているかを、フライハイトは知らないのだ。
 むしろ、おかしな事にフライハイトは、ヴァールが彼女のことを好きなのだと思っていることにフェルトは気付いていた。彼女に関して、ヴァールに見せる遠慮や気遣いが、どれほど的はずれで、そして(むご)いことか、フライハイトにはわからないだろう。
 フェルトは同じ人に惹かれる者として、ヴァールの気持ちをフライハイトよりも理解していたのかもしれない。けれど、決してそのことをフライハイトに言うつもりはなかった。何故なら自分がそれをヴァールから根こそぎ奪い取ってしまったのだから。
 黒い炎を持った瞳を思い出す。あの時、彼女はいずれこの男に殺されるかもしれないという予感を持った。
 意識が遠のき始める。
 殺される。
 眠りに落ちる手前で、フェルトは思った。息子の事を思い、恐怖が体を走り抜けた。叫び声を上げ、手足を動かそうとしたが、既に体は自分のものではないようだった。
 息子が目覚めることも、自分が目覚めることもないのではないかという疑念を覚えたが、夢の狭間に落ち込んでいくように、全てがぼやけていった。
 これで満足?
 自分を包んでいく黒い霧の中でフェルトは最後にヴァールに問い掛けた。記憶の暗い闇の中で、男がひっそりと笑うのを見て、彼女は意識を失った。
 妻が眠りに落ちるのを、フライハイトは戸口で見つめながら、わき上がってくる焦燥感に全身が震えた。今ここで、妻のそばにいる男に襲いかかって倒し、さらに他の侵入者を排除し、眠りを覚ます薬とやらを見つけだすことは可能だろうかとフライハイトは考えてみた。彼らの腰にぶら下がっている剣や鎚の脅威がどれほどのものかはわからない。日々の鍛練によって武器に対する技も磨いてきた。それらは、リンドからではなく、父から習ったものだった。ミーネたちの体とその動きを見て感じた感覚に従えば、対応することは難しくないと思えた。その体術を身につけたのは、大切な者を守るためなのだ。
「下手なことは考えないことだ」
 フライハイトは背を向けたままミーネの警告を聞き、この男は人の心が読めるのだろうかと、ぼんやり考えた。
「眠りは深い。仮死に近い状態まで身体機能は落ちているはずだ。薬の作用を打ち消すための薬はまだ存在しないのでね、探してみようなどと考えないことだ。ああ、安心するといい、薬は簡単に作れる。方法は仕事が終われば教えよう。妙な素振りをしたり、誰かに知らせようなどと思わないでくれ。私たちを捕まえるなり、倒すなりすれば、薬は得られなくなる。いいね」
 ミーネを振り返り、そこに酷薄な笑みが浮かんでいるのを見ると、フライハイトは腹の底からこみ上げてくる怒りのやり場に苦しんだ。
 抑えきれない感情を全身から湯気のように立ちのぼらせ、それでも酷く静かな男をミーネは見つめた。男の体の中に蓄えられる感情の許容量を想像してみる。それは大きくて深い。その深さが、あのヴァールを引きつけたのだろうか。フライハイト、唯一過去について話すヴァールの口からこぼれ落ちた名前。彼が次の「当番」であることは、決められた運命のような気がした。
 フライハイトとミーネの視線が交錯する。いまだに、フライハイトにはこれが現実とは思えなかった。いつからこの悪夢が始まったのかと考えた時、ふと向かいの家のただならぬ静けさを思い出す。
「クラウスたちをどうした?」
夫婦の所在がはっきりしないのは、彼らに関係があるのではないかという想像は確信に近かった。
「最初、我々は彼だと思ったのだよ」
 ミーネは薄く笑って曖昧に答えた。それが「当番」のことを指しているのだとわかった。彼らは最初、クラウスの家を襲ったのだろう。しかし彼の当番はすでに終わっていた。が、クラウスたちをどうしたのか、ミーネは説明しなかった。
 ふいに足下が揺れるような感覚を覚えた。強い不安が起きる。この悪夢の終わりには何があるのだろうか。それとも、終わりなどないのではないかという気がした。
「さあ、段取りを検討しようじゃないか?」
 ミーネはまるで仕事仲間と相談でもするような物言いで言い、立ち尽くしているフライハイトに座るよう促した。
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