19.街

文字数 7,063文字

 夜が明ける前に二人は出発した。
 エテレインの長年同じ姿勢を取らされ続けた肉体は、簡単にはその緊張を解けないようだった。胎児のように丸まった状態を横向きにしてフライハイトが背負い、外套をかぶせて袖と裾を体の前に回し、背負子(しょいこ)のようにしてくくりつけた。
 野を歩き、夜には野営することを二度繰り返すうち、人の手が入った土地が増え始めた。そうなれば、山野よりも人里の方が逆に目立たないだろうというヴァールの意見に従い、街道に沿って歩き、町を目指す。途中、運良く通りがかった荷馬車を呼び止めて金を払い、町まで乗せてもらった。
 馬車の中にいると、疲れ果てていたのかヴァールは泥のように眠ってしまった。荷台に下ろしたエテレインも瞼を閉じてぴくりとも動かなかった。フライハイトも体が沈んでいくような疲労感を感じた。荷台に積まれた荷物にもたれると、途端に押し寄せてきた眠気を何とか押し退ける。すでに三日ほどまともな食事を摂っていないまま、強行軍が続き、体が参っているのも当然と言える。それでも空腹感は感じなかった。
 フライハイトは自分とヴァールの間で眠るエテレインを見ながら不思議に思った。三十年もの間、魔術師は人間としての本当の食事をしていない。確かに骨が浮いて見えるほど痩せ衰えてはいたが、生きている。時間を止めるという不思議な能力で長らえているのだろうか。それとも本当にあのおぞましい「食事」から栄養を摂っていたのだろうか。外套の襟の間から見える酷たらしい傷を負った小さな顔には苦悶はなく、どこか穏やかでさえあった。止まった時間の中の眠りでも、夢は見るのだろうか。
 夕方には小さな町に到着した。荷馬車から降りて、二人は歩いて町に入った。フライハイトは町に入る前から緊張していたのだが、自分たちのおかれている状況に対する警戒からというよりも、生まれて初めて村を出、未知の人々や世界を見ることの緊張の方がより強かった。雑踏の中で彼ら三人に気を止め、不審の目を向けるような人間はなく、慣れるにしたがい、フライハイトは少しだけ警戒をといたが、かといって、町の人々はけして気安い雰囲気ではなく、誰もが油断のない面持ちをしているように思えた。
 それはともかくとして、大きな町ではないとヴァールに教えられたものの、フライハイトにとっては見るもの聴くもの全てが初めてで、町の建物や乗り物、人々の様子や動きには一々驚かされた。
「じろじろ見るなよ」
 何か物売りの店の前にいる数人の女を見ているフライハイトにヴァールがささやいた。非難というよりはどこか面白がっているような顔で、自分を観察しているらしいヴァールにフライハイトは少し憮然とする。
「見たくもなる」
「女を? 興味あるのか?」
「そういう意味じゃない。ただ、妙だと思うだけだ」
「何が?」
「祭りでもあるのか? 皆、変な色をしている」
 ヴァールが喉の奥で笑うのを聴いてフライハイトは彼をにらんだ。
「化粧は女には当たり前のもので、日常的にする。自分をより美しく見せるためのものだ。いや、誤魔化すためかな」
「ふーん?」
 フライハイトには青い瞼や真っ赤な唇、オレンジの頬をした彼女らが美しいとは思えなかったし、何を誤魔化しているのか見当も付かない。化粧を知らない訳ではないが、ブロカーデでは女たちが祭りの巫女役を演じる時か、結婚式の花嫁だけがする特別なもので、儀礼的な意味合いしかなかった。それも今見ている女たちのように鮮やかで色とりどりの色彩はなく、ずっと素朴だった。フェルトの化粧は結婚式に一度だけ見たが、美しいと思うより、厳粛な気持ちになったものだ。
「あれは?」
 フライハイトは珍しいものを見つけては次々にヴァールに問いかけた。その問いにヴァールは独自の偏った批評付きの説明をする。フライハイトは批評の部分と説明の部分を自分の中でよりわけながら興味深く聞いていった。まるで子ども時代に戻ったような気がした。
 そうやって宿を探して歩くうちに、フライハイトは村にはなかった道具や仕組みがもたらす利点とは別に、町に漂う雰囲気が気になり始めた。人々の表情や話し声は、苛立ち、怒りっぽく、乾いていて、どことなく殺伐とした気配が町全体を埃のように覆っていた。そう感じるのは、ここが見知らぬ土地で、こうした経験が初めてのせいだろうかと(いぶか)しむ。
 飛び交う人の声は険があり、その刺のついた声があちらこちらで小さく衝突している。子どもを連れた母親のきつい顔や、年寄りの哀しげな顔、何をしているでもない若者の精気のない顔。立ち寄った衣料品店の品数の多さから受ける豊かさとは逆の店主の粗雑さ。町行く人はやたらと慌ただしいか、疲れたようにぼんやりしている。苛立ちと無気力が混ざり合い、人々は笑っていない。
 何より、最初はそうとわからなかったが、そこここに浮浪者や放って置かれているらしい浮浪児が沢山いることに衝撃を受けた。子どもを、例えそれが他人の子であっても社会から疎外し、(ないがし)ろにしている人々の無関心にフライハイトは驚く。
 町で見かけた新しい物や出来事に対する興味と共に、そこに住む人々のぎすぎすした不幸せそうな様子にフライハイトは混乱してしまい、それをどう理解していいのかわからなかった。
「どうした?」
 黙り込んでいるフライハイトにヴァールが問う。フライハイトは自分が抱えている混乱をうまく説明できそうになかった。
「いや、その。……疲れた」
 フライハイトの言葉にかすかな笑みを見せたヴァールは、彼が感じていることに気付いているようだった。
 町の外れでようやくヴァールが納得したらしい宿を見つけた。フライハイトはそもそも「宿」というもの自体を知らなかったが、入っていく建物にあまり良い印象はなく、野営した方がましだという気さえした。しかし、安全な場所で体を安め、体力を回復する必要がある。
 借りた部屋はベッドが二つと小さなテーブルと椅子があるだけの簡素な作りだった。窓は宿の裏側に面し、その下にはゴミが散乱した汚らしい川が流れ、悪臭が登ってきていた。もっとも、その匂いはエテレインも含めた三人よりは若干ましではあったが。
「何か食い物を見つけてくる。お前はここで待っていてくれ」
 荷物を置くなりヴァールは言って出掛けようとした。
「いちいち、それが必要なんだな」
 フライハイトはヴァールが上着の中にぶら下げている革袋の中の硬貨のことを言った。ブロカーデには貨幣というものがなかったのだ。物の流通はその物の直接的なやりとりで行われていた。物を手に入れる時も宿に泊まる時もそれを出しているヴァールを彼は不思議な気持ちで見ていた。
「金のことか? ああ、これは全ての物と交換可能なものだ。これがなくちゃ、何もできいない」
 相変わらずにやつきながら言うヴァールに、それはどうやって手に入れるものなのか、とは訊けないフライハイトだった。
「出掛けてくるが、宿の中でも治安は悪い。用心しろ。俺が帰るまで勝手に部屋を出るな。無闇にドアを開けるな。いいな」
 くどくどと子どもに対するように言い残してヴァールは部屋を出た。フライハイトが、自分の言いつけどおり鍵を下ろす音を確認してから彼は階段へと向かった。その反対側の廊下の角に数人の男たちが様子を窺っていることを、彼は気づかなかった。
 出掛けていったヴァールを送り出してから、フライハイトは疲れたように微笑んだ。まるで子ども扱いだ。確かに、何もわからない自分が子どもに等しいことは自覚している。油断すれば、右も左も、そして先行きもわからないという不安感が胸に忍び込んでくるのを、ヴァールは察しているのだろう。
 とりあえず安全であるらしい部屋の中で落ち着くと、急激に疲労を感じた。フライハイトはエテレインの横たわるベッドの近くへ粗末な椅子を運び、腰を下ろした。魔術師の様子を窺うと、目覚めていたらしくぼんやりと瞳を開いていた。光の中でまともにエテレインの顔を見るのは初めてだった。瞳は相変わらず虚ろなままで、顔は痩せすぎて頭蓋を浮かばせる程であったし、頬に穿(うが)たれた穴は赤黒い色に(ただ)れていて、直視するのがためらわれる酷たらしさがあった。しかし、それでもその顔は見るものを瞠目させる美しさがあった。
 フライハイトは魔術師の目の上に手を(かざ)してみた。指を動かしてもその瞳は反応しない。やはり何もそこにはなかった。ただの宝石のような美しい石が眼窩(がんか)にはままっているだけだ。彼は本当に狂ってしまったのだろうか、昨日その瞳の中に垣間見たものは月の光が見せた幻影だったのだろうか。
 どのような男だったのだろう。どのように生きてきたのか。何があったのか、何を思ったのか。何故、これほどの仕打ちを受けなければならなかったのか。三十年もの年月を地獄の苦しみの中で耐え忍んでまで、彼は何故生きようとしているのだろうか。それともこの男の中にはもう何も残っていないのだろうか。ただ止まった時間があるだけなのか。
 フライハイトの前に横たわるエテレインはただの美しい物体でしかなかった。彼はその物体の中に魂が宿っている証を見つけたい衝動を覚えた。が、彼の問い掛けに魔術師が応えることはない。虚ろな器にしか過ぎないその肉体に、フライハイトはそっと粗末な毛布を掛けた。
 ふいにノックの音がして物思いに捕らわれていたフライハイトはぎくりとした。一瞬、ヴァールが引き返してきたかと思ったが、ノックの他に声はない。
「誰だ」
 ドアのすぐ側まで静かに歩み寄り、低い声で誰何(すいか)した。
「すみません。お願いです」
 その震える小さな声は女のものだった。
「何だ?」
「手を貸して欲しいのです」
 ドアの向こうの女は言った。フライハイトは困惑した。
「どういうことだ?」
「困っているんです。助けて下さい」
 女の声は切羽詰まっていた。ヴァールに釘を刺されていたが、これは自分たちに対する危険ではなく、見知らぬ女が何やら困窮しているようで、その場合ヴァールの言いつけを守る必要があるのかないのか量りかねた。けれども、女の声のか細い震えは迷いを押し退けて、フライハイトの義侠心を刺激した。
 それでもほんの少しだけ用心深くドアを開くと、そこには町で見かけた女たちと同じく、いやそれよりももっとけばけばしい色彩を顔に貼り付けた女が立っていた。そのことに少しぎょっとしたが、どきつい彩りの中に、本来の女の年齢が見え隠れしていた。思っていたよりもずっと若く、幼いほどで、潤んだ大きな瞳とかすかに突き出した唇がいかにも少女じみて見える。フライハイトは廊下を覗き、周囲を見渡して、彼女しかいないことを確認した。
「どうしたんだ?」
 フライハイトを見て、女はほっとしたような顔をした。
「こちらへ」
 言って、女はフライハイトの腕を取り、どこかへ案内しようとした。フライハイトはすぐには動かず、どうしたものかと悩んだ。
「どこへ行こうというんだ」
「すぐそこの、向かいの部屋です。来て下さいますか」
 フライハイトは自分たちの部屋と彼女の指し示す部屋の距離を見計らい、そして部屋に身動きの取れない魔術師を一人置いていくことの危険性とを検討してみた。
「急いで」
 女が瞳を潤ませて切迫した声を上げた。その気配にフライハイトは動かされた。鍵を掛けておけば大丈夫だろうと考えて、フライハイトは部屋を出た。女は再び安堵したように強張った顔にかすかな喜びを浮かべ彼の腕に自分の腕を絡ませた。フライハイトは無造作に押しつけてくる女の意外に豊かな乳房を腕に感じた。同時に花に似た何とも言えない不思議な匂いをかいだ。
「こっち」
 女は彼の腕をひっぱり、向かいの部屋に引き込んだ。フライハイトは何が何やらわからぬまま従ったが、油断なく視線を自分たちの部屋とよく似たその部屋に泳がせ、そこに他には誰もいないこと、女をおびえさせるようなものはなさそうなことを確認して、さらに困惑した。
 女はひょいと廊下に顔を出した。それは用心しているようでもあり、何かを確認しているような仕種でもあった。そして慌ただしくドアを閉め、鍵を掛けた。ドアが閉まると女はくるりとフライハイトの方に向きなおり、唐突に抱きついてきた。状況が把握できないまま、フライハイトは女が何におびえて縋りついてきたのかと考えた。女は色を塗りたくった顔でフライハイトを見上げた。
「私を助けて下さる?」
 女は湿った声で言った。
「一体、どうした?」
 フライハイトの問いに女は答えず、少し笑った。細い腕が伸びてきて、フライハイトのシャツの襟をつかんだ。束の間、フライハイトは混乱し、立ちすくんでいたが、ようやく冷たい指が襟から胸元へもぐり込んできて初めて、女のそれが媚態であることに気づいた。何故突然見知らぬ女が自分にこんなことをしているのか、助けて欲しいとはどういうことなのかさっぱり理解できないまま、フライハイトは女の手を払いのけ、反射的に部屋を出ようとした。
「待って!」
 女は叫んでフライハイトの背に抱きついた。押し退けようとしたが、尚強い力ですがりついてくる。フライハイトが、女を引きはがそうとその細い腕をつかんだ時、廊下側からかすかな音がしたのを聞いた。フライハイトははっとして、いささか乱暴に女を振り払うと、部屋を飛び出た。
 魔術師のいる自分たちの部屋のドアが開け放たれていた。フライハイトは戦慄に近い感覚を覚えて駆け寄り、部屋の中を見た。ベッドはものけのからだった。エテレインが自分で動けるはずはない。ならば何者かに連れ去られたに違いなかった。
 ようやく女の意図に気づいて、フライハイトは自分の愚かさに歯噛みしながら、廊下を駆け、階段を飛ぶように降りた。宿から飛び出すと、左右を見渡して、既に夕闇に落ちかけた町の遠く、建物の角を毛布を抱えた男たちの一団が消えるを見つけ、全速力で突進した。
「フライハイト!」
 ヴァールの驚いたような声が背後に聴こえたが、振り返る余裕はなかった。
 その角に達し、路地を曲がったがすでに人影はなかった。慌ててその周囲を捜したが、町の縦横に走る路地は他の路地へと網の目のように広がり、そのうちのどこへかと入り込んだらしい彼らの行き先の手掛かりは何一つなかった。
 息を切らせながら追いついてきたヴァールに事情を話している間もあきらめられず、ドアというドアを開け、開かねば叩き壊してでも見て回った。路地から路地へ魔術師の姿を追い求めて捜し回る。
「無駄だ」
 ヴァールが言って、なだめるように腕をつかんでも、フライハイトは探索を止めることが出来なかった。自分の馬鹿さ加減に腹が立っていたのと、魔術師の身を案じる気持ちが高じてじっとはしていられない。ヴァールはそんなフライハイトを制止するのを諦めたのか、それ以上は止めなかった。
「すまない」
 しばらくして、フライハイトは自分の行動の無意味さに気付いたというより、失望感に打ちのめされ、悄然とうなだれてポツリと言った。
「済んだことだ」
 ヴァールは責めるでもなく慰める風でもなくさばさばと言った。 「俺が、馬鹿だった。あんな……ことにひっかかるなんて」
 思い返してうんざりしたように言うフライハイトをじっと見つめヴァールは、
「そうだな、馬鹿だ」
 と言った。そうあっさり言われてフライハイトは言葉に詰まる。別にヴァールから慰めや思いやりを期待してなどいなかったが、そうあからさまに言われると、事実だと思っていただけに少しショックではあった。
「女に弱いんだよ、お前は。小娘の色仕掛けにあっさり引っ掛かって、どうしようもない間抜けだ」
 なおもヴァールは言いつのった。その口調は責めているというよりどこか嘲っているような響きがあった。身も蓋もない言われように、何だか腹が立ってきた。女に弱いなどという自覚は無かったし、小娘が色仕掛けをするなど、これまでの生活の中ではあり得なかったし、そもそもそのような注意をしてくれなかったではないか。そう、反論したいところだが、責められても仕方ないのは重々承知している。が、うなだれてヴァールの罵詈を拝聴していたフライハイトは、つい彼をにらんだ。その視線の先で、ヴァールは彼独特の口のはしを歪めるような笑顔を浮かべていた。その瞳は冷たくはなかった。ヴァールが容赦なく責めることで自分の自責の念を消してやろうとしていることに気づいた。ストレートに慰めを口にできないヴァールらしい気遣いではあった。
 その時、ふいに人の気配を感じてフライハイトは反射的に身構えた。フライハイトにつられてヴァールもその方を向いた。薄暗い路地の中央に、すらりとした長身の人影が立っていた。マントで全身と顔の上半分が隠れているために性別も年齢も判別できない。
「魔術師なら、こちらだ」
 よく通るその声が女のものであることよりも、彼女が口にした言葉に二人は驚いた。が、問い返すよりも先に、女はしなやかな動きで身をひるがえし、走り去った。ただそれだけなのに、一瞬目を奪われるような身のこなしは、武術的な訓練を受けている者が持つ洗練された動きだった。
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